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光透波(ことは)の泉【デジタル版】  しあわせの波紋                        

光透波(ことは)の泉【デジタル版】  しあわせの波紋                        

大和民族の正体

日本のことを、倭(やまと)・大和(やまと)といいますが、「倭」は、もともと「倭(わ)」といいました。

「倭(わ)」から「大和(やまと)」への変遷。

このあたりの国名の変遷は何を意味するのか?

この国名の変遷は、日本という国が、主導権を握る民族が入れ替わったことを示唆していると思われます。

つまり、「倭(わ)」と「大和(やまと)」は、本来は違う国であったということになります。

大和朝廷が成立する前に、「邪馬台国」がありました。

魏志倭人伝には、

「その南に狗奴国(クナコク)あり。男子を王となす。女王に属さず」

という記述があります。

この「狗奴国」が、邪馬台国へ攻め入って、卑弥呼はこの混乱の中、死を迎えます。
結果、邪馬台国は滅びます。


しかし、この頃、大陸からは、中近東を発祥とするセム系のヘブライ人が、ユーラシア大陸のステップロードを経由して、朝鮮半島へやってきています。

いわゆる「騎馬民族」といわれています。

江上波夫氏は、日本の天皇家の出自は、大陸からやってきた「騎馬民族」であるとする、「騎馬民族征服王朝説」なるものを世に問いました。

が、今ではアカデミズムでは全く無視されています。

しかし日本に騎馬民族がやってきたことは、いくつもの物証があります。
さらに、日本へやってきた「騎馬民族」の実体は、「ヘブライ民族」になります。

そして、彼らが、天皇家の出自となったと思われます。

時代にしたら、第15代「応神天皇」の時になります。
「応神天皇」の「記紀」の記述を見ると、渡来人が大勢やってきたと記されています。
この時代に、秦氏を中心とした渡来人が、数多く日本へやってきたと思われます。
では、応神天皇とは何者なのか?
また、それ以前の天皇、初代神武天皇をはじめとする天皇の存在はどう考えればいいのか?

これについては、本題から外れるので、また機会があれば紹介してみたいと思います。


話を戻します。

「ヤマト」という国名は、彼ら「ヘブライ民族」との関わりが濃厚です。

なぜなら、大和(ヤマト)という言葉、実はヘブライ語で読み解けるからです。

『古代日本と失われた環太平洋文明の謎』(飛鳥昭雄)より、その部分をみてみます。
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そこで直系ヘブライ人である、「大和民族」について申し上げる。
じつは、大和という言葉は、「ヤ=絶対神ヤハウェ」と「ウマト=民族」が合わさった複合名称なのだ。
つまり、大和は「ヤ・ウマト」となって、「神の民」の意味を持つヘブライ語だったのである。
正確には、ヘブライ語の方言「アラム語」のことだが、イエス・キリストの時代はアラム語を使っており、ヘブライ語は『旧約聖書』を読む時以外に使わなかったのだ。
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つまり、このことをまとめると、

●「ヤマト」=「ヤ・ウマト」=「絶対神ヤハウェ・民族」=「神の民族」!

大和とは、「神の民族」を意味するヘブライ語の方言アラム語であったということになります。

「大和」も、普通は「ヤマト」とは読めません。
明らかに「大和」という漢字に「ヤマト」という言葉を当てています。


「大和」の「和(わ)」は、「倭(わ)」に通じますので、ヘブライ民族が、これを利用して、さらに大きな和(倭)という意味合いで「大和」という言葉をつくり、そこに「ヤマト=神の民族」というヘブライ語を当てはめたのでしょうか。
これは全くの推測ですが。

いずれにしても、「倭」から「大和(ヤマト)」となったため、「倭(わ)」という読みも、大和朝廷が成立して、「大和(ヤマト)」となった後、いつの頃からか、「倭=やまと」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

だから「倭」は「わ」とも「やまと」とも呼ぶ、と。




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