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2011.07.15
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現代文明の間違いについてお話し下さい

現代文明に流れている基本原理は、即物主義、唯物主義です。
 即物主義とは、現象が実体であるという考え方なのです。目で見ているとうりのものがあると考えるのです。これがヨーロッパ人の思想です。現代の日本人も皆こうなっています。これを、般若心経では色蘊といっています。
 五蘊皆空の蘊という字ですが、蘊とは人間の中にある迷いのようなものです。色蘊とは、物質が存在するという思想です。色蘊が現代文明の基礎になっています。これが即物主義なのです。物に即してすべてを考える。生活でも、生命でも、すべてを物に即して考える。これが近代文明の特徴です。
 ところが、これが間違っているというのが、般若心経の見解なのです。これが釈尊の根本精神なのです。
 空というのは釈尊の非常に優れた思想です。人間が、現在肉体的に生きているという考えは、間違っているといっているのです。
 そのとおりです。人間は命で生きているのであって、肉体で生きているのではない。
 ところが、現代の医学は、人間の命は生理的なものだといっているのです。例えば、心臓が止まることが死である。脳波が止まることが死であるといっているのです。これは物理的な考えなのです。
 命は物理的なものではなくて、霊的なものです。物理的な面もありますが、心理的な面もあるのです。
 従って、命を正しく知ろうと思えば、生理的な面だけを勉強してもだめなのです。ですから、現代人は生きてはいるけれども、命が分かっていないのです。こういう間違った生活のしかたをしているのです。
 これが肉の思いでありまして、その結果、人間は死ななければならないことになるのです。
 生きていながら命を知らない。これは誠に不合理な話なのです。
 皆様方の心臓は神と対話しています。花は咲いていますが、咲いているという現象は、花が神と対話していることなのです。
 人間が生きているというのは、花が神と対話しているようなことです。皆様方の目が花を見て美しいと思うのは、花が神と対話している状態を、美的感覚で捉えて美しいとお感じになるのです。つまり皆様方の目は命を見ているのです。花を見ているのではなく、命を見ているのです。花が神と対話している状態を命と言うのです。
 目は命をつかまえるだけの力を持っているのです。ところが、思いは命を捉えるだけの力を持っていない。これを迷いというのです。無明というものです。
 なぜそうなるかといいますと、神が分かっていないからです。本当の霊が分かっていないからです。
 私の言う霊というのは、日本の霊ではありません。もっと大きい霊なのです。地球が現在動いているそのことなのです。地球を造った霊なのです。人間を造った霊なのです。皆様方の命を現実に支配している霊です。これが分かれば命が分かるのです。



死んだ人の供養はどうしたらいいのでしょうか

まず知って頂かなければならないことは、亡霊と生霊ということです。亡霊は死んでしまっている霊、生霊は生きている霊のことです。死んだということをよく言いますが、これは眠っていることです。眠っている証拠に、起こすことができるのです。それでは、死ぬということはないかといいますと、あるのです。
 死ぬとはどういうことかといいますと、今の人間が死ぬと言っているのは、この世を去るということなのです。ところが、この世を去ることは、死ぬのではなく、眠ることなのです。
 本当の死は、人間としての責任を果たしていないものが、人間としての責任を果たせられるために、強制的に責められるということです。これが本当の死です。
 現世を去ることが死ではなく、現世において魂の目を開かなかったその怠慢を責められるために、糾明されることが死なのです。
 他の言い方をすれば、人間とは何かということを知っていないこと、命を知らないということが、死んでいる状態なのです。だから危ないのです。
 今の文明社会は、はっきり言いますと、全部死人の社会なのです。文明は死の文明なのです。人間の魂の本質を知らず、生命を知らないままで社会をつくっているのです。
 人間の魂は死んでいる。だから危ないのです。魂の目を開くということは、生きかえることなのです。今の社会の人間は、既に死んでいるのですから、死なないようにと考えて、自分を守る必要はありません。死なないようにと考えるよりも、命とは何かということを考えるべきなのです。
 誰でも、ちょっと病気になればすぐ病院へ行きます。急病なら110番へ電話して、救急車を呼びます。肉体生命に対しては、非常に敏感です。しかし、魂の命のことは、全然考えていない。こういうものの考え方が、死んでいる者の考え方なのです。
 文明は、ただの生活の知恵です。今の大学で教えていることは、生活の知恵ばかりです。生命の知恵は一つもありません。
 そういう学校を出てきた人が、社会の指導者になっているのですから、社会がだんだん悪くなってしまうのです。そして、死の文明をつくっているのです。
 テーマが横道へそれましたが、もとへ戻しまして、亡霊というのは眠っている霊です。生霊は生きている霊です。生霊と亡霊の関係がどうなっているかといいますと、死んでいる魂は、それぞれの家系において、生きている魂を非常にあてにしているのです。生きている人の勉強しだいによっては、死んでいる人間の魂を幸福にすることができるのです。これが死んだ人への本当の供養なのです。
 孝行したい時に親は無し、墓にふとんはきせられずという話がありますが、墓にふとんをきせてもしかたがないのです。しかし皆様は、今生きておられるのですから、皆様のご家系のなくなった魂は、親子であっても、おじいさんおばあさんであっても、今生きておられるご当主であるあなたがたを、大変頼っているのです。
 生霊の力は、ものすごい力なのです。なぜ力があるかといいますと、生霊は神と共にいるからです。生きているということは、実は神と共にいるということなのです。皆様の心臓が動いているということが、神という事実なのです。目が見えるということが、神という事実なのです。神というのは事実なのです。事がらなのです。
 今、私達は、神と共にいるから強いのです。私達が偉いのではなく、私達と共にいる神が偉いのです。
 ところが、人間は神を知っていない。だから、現在の人間の心理状態は死んでいると言わなければならないのです。本当に生きている人が神を知れば、亡霊にもそのことが分かるのです。自分の家系の死んだ魂は、今生きている人が神を知れば、亡霊にもそのことが分かるのです。そこで、因縁をたち切ることが可能になるのです。
 現世に生きている人間は、非常に大きな責任を持たされているのです。亡霊に対しても、天地万物に対しても、万物の霊長としての、非常に大きな責任を持たせられているのです。
 だから、生活しているだけで有頂天になっているべきではない。共に命の勉強をすべきです。顕在意識にとらわれないで生きるべきです。
 良心、魂の本心は、神を知っているのです。ところが、常識や知識はそれをおさえつけている。ですから、常識や知識が五蘊皆空であることを悟って、常識や知識をはねのけて、魂の目を開きたいという熱心なお気持ちを持っていただければ、命の本質をとらえることは可能です。
 人間は、神と一緒に生きています。生きているとは神と対話していることです。
 この神とは、天地を造った神です。日本の産土神や、氏神様とは違います。人間を現実に生かしている神と、人間は生きていながら対話しているのです。生活しているとは、対話していることなのです。
 物の味が分かります。目で物の形が分かります。味や形は、すべて神の自己顕現なのです。神が、万物として現れているのです。それを目で見ているのです。だから、私達は、どうしても神をつかまえなければならない責任があるのです。ノルマがあるのです。どうか、魂の目を開いて頂きたいと思います。







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Last updated  2011.07.15 20:50:28
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