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薔薇の墓標●風に嘆く樹々 [全51件]

2011年5月6日楽天プロフィール Add to Google XML

大河ドラマ「江」と伊達騒動★地震発生前後の記録。

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久しぶりの更新です。

三月十日、東京大学の合格発表を写しに行ってきました。

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有名な、胴上げを写しながら平成七年の合格発表の時を思いだし、
センター試験後の神戸の震災と、地下鉄サリン事件に
厳重警戒の入学式・・あの時は、大変だった・・と。
img_1200670_34343601_11.jpg

それから、森鴎外が住んでいた鴎外温泉を見て、徳川家光に殉死した人々の墓・・つまり
保科正之の殉死禁止法の・・史跡を写して、川口の娘の家に帰り、

img_1200670_34343601_8.jpg


翌日、写してきた写真を、ブログ(ヤフー)に載せて、ちょっと、出かけようと、玄関先に
出た時、「大地震です。」のアナウンスが、聞こえました。最初は、何を言っているのか、
聞こえなかった・・ので、聞きながらゆっくり階段を下りてましたが、地震だ・・と思い
そのまま、階段を下りて、駐車場の中央に逃げました。そこで、地震。
しばらく、近くのスーパーの駐車場で、子連れの若いお母さんたちや、年配の買物客と、余震を警戒して、
そのうち、自転車屋さんのラジオから、宮城県で大地震という
ニュースを聞きました。余震が続く中、一度、家にもどり、ラジオをつけて、ブログに、
「大地震です。」
と書き込んで、再び、駐車場に。

公衆電話で、家族の安否を確認して、地下鉄南北線で、渋谷に通勤している妊娠中の娘には、
無理に帰宅せずに、近くにある息子の会社に泊めてもらうように告げ、帰宅して、
倒れた本棚を片づけて、パソコンにむかいました。
img_1200670_34348593_3.jpg

テレビ画面にすると、信じられない光景。
見慣れた海岸線が、次々と津波に飲まれていく。

それから、ほぼ一か月、おにぎりを握って、片手で食べながら、パソコンの虫。

一つは、みやぎ生協の活動、店舗営業再開の状況。
一つは、NHKのテレビ画面に写る伝言を、デジカメで写して、ブログに載せること。

携帯やパソコン、ネットで情報を得る世代、
テレビ、ラジオ、固定電話で情報を得る世代 
土地勘がなく災害情報を得にくい観光客
合格発表を見にきていて、まだ、
住むところも決まっていない新入生 

を繋ぐように・・・祈りながら。



やがて、ブログを通じて、被災地、ボランティアで現地入りした人々からの声の

転載、拡散の依頼。ネット社会が、働きを、強めはじめました。












































最終更新日時 2011年5月6日 22時45分7秒


2009年1月5日

薔薇の墓標●伊達騒動の年表

前221 秦の始皇帝 中国全土統一 郡県制

1192 始皇帝の末裔 鎌倉幕府に土佐国拝領長宗我部名乗る

1504 チャングムの誓い 甲子士禍

1543 ポルトガル人種子島に鉄砲伝来

1562 イギリス、アフリカから黒人奴隷アメリカ大陸輸送

1565 スペイン王 フィリッピンを植民地

1582 天正使節団ローマ 信長、長宗我部討伐 本能寺の変
     
1588 スペイン無敵艦隊 イギリスのエリザベス女王に大敗

1590 秀吉の小田原攻め奥州仕置 伊達政宗岩出山へ

1592 秀吉の朝鮮出兵

1594 家康娘で北条氏直夫人の富子、池田輝政継室。

1598 秀吉没で、朝鮮撤兵

1600 関が原

1601 政宗、家康より久喜鷹場拝領

1603 姫路藩主池田輝政の次男で、徳川家康の孫、池田忠継に岡山二十八万石

1613 ルイス・ソテロ支倉常長らの慶長使節団ローマ
     池田輝政、没。

1615 大阪陣  伊達秀宗と五十七騎宇和島 

1617 天海上人、徳川家康を日光東照宮に改葬

1636 伊達政宗没 保科正之山形藩主

1643 保科正之会津藩主清国軍北京占領明国滅亡

1645 政宗嫡孫光宗江戸城内で没、伊達綱宗嗣子

1651 家光没 保科正之の後見人政治

1654 二代伊達忠宗仙台東照宮遷座 遷座式奉行原田甲斐

1655 朝鮮通信使家綱将軍就任祝賀来日 保科正之に鷹贈る

     原田甲斐綱宗代理で江戸城新年参賀、保科正之に謁見

1657 振り袖火事 伊達家胆沢に鷹場新設 

     保科正之、下館に鷹場拝領

1658 保科正之側室藤木万による毒膳事件 

     関係者処罰 藤木万幽閉

1660 綱宗隠居、二歳の綱村藩主後見人政治

     原田甲斐酒井雅楽頭に綱村藩主相続御礼銀五百枚献上

     酒井雅楽頭、藩主幼少理由に久喜鷹場没収

1661 保科正之、武家諸法度で殉死禁止法案

1669 一月 保科正之の側室沖氏、正容を生む

     五月 保科正之失明隠居、

        正経藩主で藤木万、幽閉解かれる 


     八月 正経、会津に国入り、正経つき家老成瀬重次 

        一派処罰のため保科正之会津へ成瀬一派流罪

1670 三月 ●伊達騒動 寛文事件

     四月 保科正之、軍学者伊南与八郎らを仙台藩に送る

     十二月 保科正之、成瀬一派の処罰を遺言
     
     
1671 四月 友松勘十郎成瀬一派処刑、藤木万、四人助命。

     藤木万、甥藤木織部と姪の夫保科正興に、四人釈放。                  
                     
1681 酒井雅楽頭五代将軍に有栖川宮推し失脚、正経没、

     正容藩主家老西郷頼母処断で藤木一派失脚。

     稲葉正通妹綱村正室、伊達騒動処罰者復権。
     
1746 「伊達騒動」江戸で初演   

      ●仙台藩は藩領での伊達騒動演目のの上演厳禁。

1849  ●お由羅騒動嘉永明党事件

1851  ジョン万次郎帰国
      
1857  島津斉彬、咸臨丸視察

1859  大老井伊直弼、日米通商条約、日英、日露、日仏、日蘭 
      函館、横浜、長崎開港

1860  咸臨丸渡米 ジョン万次郎、福沢諭吉、勝海舟 

1861  竹内保徳、福沢諭吉ら遣欧使節

1872  廃藩置県 郡県制



最終更新日時 2009年1月9日 22時27分37秒

2009年1月2日

エピローグ●兵馬俑

秦の始皇帝の末裔、
柴田外記朝意「忠次郎」は、
船岡城下の霊廟に祭られ、
三世紀ものあいだ、眠りつづけた。

位牌には、
父、佐竹親栄の、佐竹家の家紋と
母、長宗我部阿古姫の、長宗我部家の家紋
養子先の、柴田家の家紋、

三つの家紋が描かれていた。

明治元年
戊辰の役後、仙台藩は降伏した。
降伏式は、「津多」の墓がある、亘理伊達家で行われた。

駐留した官軍兵士が、信仰の対象である白鳥を捕殺した。
船岡城の柴田家家臣が白鳥を守ろうと発砲した。
事件は、仙台鎮撫使の知るところとなり、
事件に関与した家中は処刑。
柴田家14代当主である、
「忠次郎」の末孫、柴田意広も切腹した。

明治六年
岩倉具視、大久保利通らの明治政府要人が、
ヨーロッパ各地で、
慶長使節団資料を提示されていた頃
日本に残った西郷隆盛は、廃藩置県を断行した。

廃藩置県によって
元来は、秦の始皇帝の政治機構である
「郡県制」が敷かれ
寺池城下に
水沢県庁が設置された。

和魂洋才の富国強兵をめざした日本は、
アメリカによる
広島長崎への原爆投下によって
無条件降伏をした。

その年、
一人の女性が、
敗戦を知ることなく亡くなった。

亘理町の
「津多」の墓近くに
生まれ育った「きよゐ」である。

「きよゐ」が生んだ男子も、
東京空襲で、行方不明となった。

仙台空襲は壮絶をきわめた。

日本列島は、
アメリカ進駐軍の占領下となった。
仙台にも進駐軍が駐留し、
船岡城下にも、
アメリカ軍のキャンプが造られた。

ある日、
キャンプ・ファイアーに
使う薪を求めて
アメリカ進駐軍兵士たちが

「忠次郎」の霊廟を壊した。

やがて、

「きよゐ」の夫である、
作家の「山本周五郎」が、

伊達騒動をテーマとした
「樅の木は残った」の取材で
上野駅を出発した。

モクモクと煙りを吐いて
蒸気機関車は、

白河の関を越え

昔、
松尾芭蕉が旅した
奥州路を、

仙台へ、仙台へと、向かう。

車窓に、
泣くような
風の音が聞こえる。

「忠次郎・・。忠次郎・・。」

昭和四十九年、
今世紀最大の発見といわれる、

秦の始皇帝の「兵馬俑」が、発見された。


最終更新日時 2009年1月5日 19時29分31秒

2008年12月26日

第四十七章●誰が松島の片心

五月四日

松尾芭蕉一行は、どんよりとした雨雲の下を、
白石城下から、寛文事件の遺恨が残る船岡城下に入った。

「酒井雅楽頭失脚の後、この船岡城には、
例の、柴田外記さまの遺児、柴田宗意どのが入られました。
柴田家の家臣たちは、もともと、源平の時代から続く
船岡城下の地侍たちで、ございますから。
柴田外記朝意どのの実弟たちが、
養子に入られた柿沼家も五十嵐家も、同様にございます。」

「柴田外記朝意、始皇帝の末裔か・・。
大阪城落城の折、四歳で仙台へ逃げのびた、忠次郎どの・・。
父は、土佐久礼城主佐竹親栄、母は、長宗我部阿古姫・・」

「これは、驚いた、よく、ご存知で・・。」
「・・・・。」
「・・・・。」

「仙台城下は、藩主綱村公の家臣橋本というものが、
 御案内する予定になっております。」

「城下に入る前に、歌枕、名取郷の藤原実方の墓を訪ねたいのだが・・。」
「名取郷・・・の。」
「道祖神に、いざなわれて奥州路を・・」
「・・・・。」
「道祖神と、藤原実方の墓を・・」
「・・・・。」
「・・・・。」

 名取郷が近づくにつれて、
 地元の人々は暗い沈黙のうちに
 芭蕉一行から身を離していった。
 芭蕉一行は、
 頭上の雨雲に押しつぶされそうな
 沈鬱な思いで、名取郷の分岐点に立った。

 そこは、船岡城落城後、
 原田家家臣団三十七名が帰農し、
 移り住んだ飯野坂植松地区への道と、
 道祖神社、藤原実方の墓への道の分岐点である。

 松尾芭蕉は、
 花町神楽が奉納される鹿島神社に入り、
 道案内を頼んだ。

 一度は、武士になろうと志をたてた松尾芭蕉である。
 周囲に漂う激しい殺気を、感じずにはいなかった。

 閣僚に、紫式部、清少納言、紀貫之、安倍清明などがならぶ
 一条天皇内閣の宮廷歌人藤原実方。 
 陸奥国司に左遷され、紫式部の「源氏物語」の
 光源氏のモデルとなった藤原実方。
 西行法師も訪れた藤原実方の墓、この著名な歌枕を、
 訪れずして、なんのための、奥州路の旅ぞ。

 そう思う、松尾芭蕉だったが。

「残念ながら途中の道が、雨でぬかるみとなり、御案内かないませぬ。」

 激しい警戒感を秘めた眼光を放ちながら、
 武家言葉でいんぎんに語る新百姓たち。
 庭には、原田家遺臣であることを示す、はなももの樹。
 


松島の月見御殿。

夫とともに、赤ん坊を抱いて、
縁先に座っている藤子。
お種・・と一人二役。

「なんとまぁ、猿のように、赤い顔じゃのう」

「赤ん坊は、赤いものでございます。
赤いから、赤ん坊と言うのでございます。」

奥の細道の終点は、
伊達綱村の母方の祖父、
氏家氏が城主をつとめたことのある大垣城下。

伊達綱村の側近政治に
伊達一門と重臣から諫言状が出され、
綱村もまた、
幕府から隠居を命じられた。
五代藩主となった伊達吉村は、
月見御殿を、観瀾亭と改名した。

享保十一年、
藤子は、六十一歳で没した。
大衡城主戸田家の菩提寺である昌源寺にのこる、
藤子の墓は、
戸田家歴代の墓より、北に少し登った
墓地最上部にある。

椿の文字の入った戒名にちなんでか、
椿の古木が、墓の背後に残っている。

椿は、武士の潔さ・・を
象徴する花でもある。

延享三年、「伊達騒動」初演。

「伽羅仙台萩」に代表される伊達騒動の演目は、
仙台藩領での上演を厳しく禁止された。

1777 伽羅先代萩

1778 伊達競阿国劇場
1782 隅田川柳伊達絹
1786 貢信田豊年
1788 高尾大明神
     高尾宮本本地開帳
1789 姿伊達契情容儀
1792 傾城金坪目
1792 伊達模様楓袖 
1793 松太夫雪伊達染
     先代萩
1794 二本松陸奥成長
1795 遊君操吉原計略
1798 伊達姿萩燕都袖
1799 大三浦達袖
1799 伊達衣装曲輪好
1800 伊達染契情容儀
1800 意計高尾伊達染
1801 全盛伊達曲輸入
1805 伊達姿花見御殿
1808 伊達競阿国劇場
1825 伽羅絹川堤
1826 伽羅先代萩
1827 伽羅先代萩
1836 伽羅先代萩

明治六年   伽羅先代萩

昭和二十五年 伽羅先代萩 NHKラジオ第一
昭和三十四年 舞姿先代萩
昭和四十一年 樅の木は残った 山本周五郎 大阪中村座
昭和四十五年 樅の木は残った 山本周五郎 NHK大河ドラマ






最終更新日時 2009年1月5日 19時16分42秒

第四十六章●丙午の女

事件に関与した家臣が献納した
仙台東照宮の石燈籠は、
取り除かれたが、
酒井雅楽頭失脚後、
他の家臣が献納した石燈籠で
補填された。

恋人に会いたいがために放火した
八百屋お七の火事が起きた。

「こんなこともあろうかと、隅田川の畔に住んでいたんじゃ。」

松尾芭蕉、三十九歳、墨田川を潜って逃げた。
師走の風の冷たいこと。
俳人サロンの師匠西山宗因が亡くなったため、
当世人気の作家を横目でながめながら暮らす松尾芭蕉。
振り袖火事の青春の記憶が、
よけいに、
無常感を強めていく。

元禄六年春、
松尾芭蕉、江戸で松島を詠む。
「朝よさを 誰が 松島の 片心」

朝となく夜となく松島のことが気にかかるのは、
誰れか麗しい佳人が、あの松島で待っているからか。

徳川綱吉が発布した、
「生類憐れみの令」で、
すべての鷹場が廃止となった元禄七年春。
原田甲斐の命日である
三月二十七日、
旧伊達久喜御鷹場の玄関口である
春日部宿を出発点として
松尾芭蕉は、
「奥の細道」の旅に出た。
三月二十八日 栃木県間々田

「伊勢参りの帰りに宿泊された間々田で、
伊達家重臣の柴田宗朝どのが急死なされて、
源平の昔から続いた柴田家が絶えるとあんじられた
伊達政宗公が、大阪城落城後、
仙台城に保護されておりました長宗我部元親の孫殿を
養子にいれ、柴田外記朝意を名乗らせたのでございます。」

三月二十九日 栃木県鹿沼

四月一日   日光東照宮に参拝

四月三日から十一日まで、栃木県黒羽の、翠桃宅に宿泊。
十ニ日からは、桃雪宅に宿泊。

四月十九日、那須の湯本をたち、福島県旗宿に、とまる。

四月二十一日、白河の関を越えて、いよいよ奥州路へ。


仙台藩領に入ったのは、五月三日のことである。

雨模様の、白石城下

「三代目の白石城主さまは、松前武田のお血筋でございます。
二代目さまには、男子がおられず、千石城の茂庭家から
養子を迎えられておりましたが、嫡男の茂庭良元様が、
鉄砲の手入れをなさっておいでの時暴発いたしまして
失明なさいましたので、養子先から実家に戻られ
二代目さまの姫様の御子が、松前家から養子に入られたのでございます。」

「蝦夷の松前武田と申せば、本能寺の変で、
明智光秀軍につき、秀吉軍に敗北した若狭国主
武田元明どのの支家ではないか。
仙台藩伊達家の重臣とはいいながら
家臣筋の姫であるものが、蝦夷王と称された
松前武田家に、輿入れとは・・。」

「いいえ、蝦夷に輿入れなさったのではなく、
松前の若殿が江戸に向かう途中、白石城下で
病に倒れられ、姫さまが看病なされた縁にございます。」

「なるほど。」




最終更新日時 2009年1月2日 11時46分21秒

第四十五章●十七歳の花嫁

「頭上の黒雲が一挙に晴れたような心地がいたします。」

という声とともに、
闇の中から姿をあらわす十七歳の原田藤子。

六歳で、刃傷事件に遭遇。
母とともに、
叔父茂庭姓元の嘆願で助命された藤子。
母子の助命嘆願が成功したのは、
茂庭姓元の妻、藤波閑の実家が、
鷹司家の家人であるため、
朝廷の力が働いたと伝えられる。

「酒井雅楽頭が亡くなりました時、
将軍綱吉さまは、自殺を疑い、
墓を掘り起こして改めよ・・と
命じられたそうにございます。
没収されました雅楽頭邸には、
綱吉様の五代将軍就任に
格別の御働きがございました、
堀田正俊さまがお入りになられ、
大老に就任なさいました。」

仙台藩久喜鷹場の村名表を作成。

井原西鶴の「好色一代女」がヒットし、
元禄文化が花開き、
時代の空気は、大きく変った。
隅田川の畔の芭蕉庵で、
半ホームレス生活を送る松尾宗房。
名前も、松尾芭蕉と変えた。

茂庭家千石城下の
高田屋敷で
花嫁衣裳に身をつつむ、
十七歳の藤子。

十七歳で
秀吉の側室にあがったお種に、
生き写しの京美人である。

茂庭家の千石城から、
大衡城にむかう提灯行列。 
涙を拭きながら見送る老臣たち。
婚礼の祝宴。

婚礼から一季節が過ぎた
晴れた日の午後
藤子は、
真紅の薔薇を抱き
夫、車喜太郎隆利と
仙台藩鷹匠組の若者守屋善蔵に伴われ
亘理伊達家の所領
太平洋を臨む山頂にある
津多の墓に、
詣でた。

巨岩の上に、
薔薇の花をたむけて
ぬかずく藤子。

その瞬間

一声高く啼き声がひびいて
金色の羽をもつ
黄金の鷹が、空高く飛びたった。






最終更新日時 2008年12月26日 14時0分31秒

第四十四章●西郷頼母

伯父茂庭姓元の嘆願で、母とともに助命された
原田甲斐の孫、藤子、十ニ歳。

原田家家老堀内清長の遺児、
堀内茂助が、
原田甲斐七回忌法要を行った。

殉死した堀内清長が、
息子に残した遺言状に、
無念の涙をながす家臣たち。

「会津では、保科公の遺言に従い、
家老たちが、藤木一派と対決しているそうじゃ。」

内藤家俳人サロンの松尾宗房。
同門の山口信章と、江戸両吟集を刊行。
文壇デビュー。

藤木万は、ふたたび、
成瀬一味の残党四人の釈放を主張した。
保科正之公の遺言によって
正容を保護養育し
スクラムを組む家老たち、
猛然と反発。

「ならぬものはならぬのでございます。」
「何がならぬと申すのじゃ。」
「ですから、メンドリが・・メンドリが、メンドリがぁぁー。」

延宝六年、
伊達宗勝が、
流刑先の土佐で没した。
同年、酒井雅楽頭、二万石のお手盛り加増。

稲葉正通の妹婿である堀田正俊が老中となった。

延宝八年、
江戸城下馬門に屋敷を構え、
下馬将軍の異名をとる酒井雅楽頭、
宮家をついだ挨拶で江戸に上る
有栖川宮幸仁親王の慰労使をつとめる。

慰労使の大役で、
京都思考が強まりつつある酒井政治に
密着する藤木万、
またもや、成瀬一派残党の釈放を主張しはじめた。

藩主の正経も、
さすがに母親の執念深さに嫌気がさして、
この頃では、
側近の者たちにむかって、
三田屋敷に行ったら、
けっして、食事をしてはならない等と、
きつい皮肉を言うようになった。

異腹の弟正容は、まだ九歳。
保科正之に認められ
養育係となった西郷頼母の指導で、
立派に成長した。

藤木万は、なおも、あきらめず、
正容を奉じた西郷頼母に対抗できる者を、
探しはじめた。

藤木万が、目をつけたのは、
西郷頼母の従弟、保科小十郎だった。

西郷頼母は、はじめ、
城代家老の重責にある母方の叔父、
保科正長の養子となって保科近房を名乗ったが、
叔父の死後、側室との間に男子が生まれたので、
生家の西郷家に戻った。
その、側室の子が保科小十郎である。

「われながら、なかなかの妙案じゃ」
「まーた、メンドリが啼いておるようじゃ」

藤木万は、
京都から弟藤木織部の娘を呼びよせ、
すでに三十路を越えた
保科小十郎と結婚させ、
小十郎を元服させて保科正興を名乗らせ、
会津藩の家老職につけた。
更に、
保科織部の息子、
藤木小隼人を京都から呼び、
これも、会津藩の家老職につけた。

そして、息子正経の留守に、
保科正興と藤木隼人の二人の家老に命じて、
成瀬重次残党四人を赦免させてしまった。

まもなく、四代将軍徳川家綱が没した。

酒井雅楽頭忠清は、
鎌倉時代の故事にならい、
五代将軍に有栖川宮幸仁親王を推して、
酒井政治の存続を図ろうとした。

「徳川幕府も、鎌倉幕府と同様に、三代で終わるんじゃ。」

「さては、北条時政になるつもりじやなぁ。」
「それじゃ、藤木万は、尼将軍北条政子かなーっ。」
「会津藩旧藩主で、伊達綱村公乳母の政岡を出した
 葦名氏は三浦党。鎌倉幕府執権北条氏に滅ぼされ、
 頼朝の墓の前で集団自決した三浦一族の末裔じゃわいな。」
「なーに、時代錯誤なこと、言ってんだか。」
「時代錯誤は、そっちだろー。水戸の御老公に、言ってやるー。」
「水戸徳川家は、そっちの御血筋だからねーっ。」
「そっちって、どっち。」
「三浦党、葦名、佐原、そっちの坂東武者だわさ。」

という、舌禍のすえに。

稲葉正通の妹婿である
佐倉藩主堀田正俊と、
保科正之と殉死禁止法に共同した
学者肌の水戸徳川家藩主水戸光圀、
水戸黄門が、
徳川家綱の弟で館林藩主の徳川綱吉
を五代将軍に、推した。


徳川綱吉が五代将軍になると、
酒井雅楽頭は失脚。

会津藩では正経が没し、
保科正之の遺言に従って、
西郷頼母らに保護されてきた正容が
会津藩三代藩主に就任した。

幕府は、
年若い会津藩主に対して、
国政はすべて、
家老の西郷頼母を通じて行うように命じた。

会津藩に国目付けが置かれ、
藤木一派の処分が、矢つぎ早に、行われた。

藤木万を、
新設した隠居所に移し、
政治への関与が出来ないようにし、
ただちに、
赦免されて会津若松城下に暮していた
成瀬重次一派残党の四人に、
国外追放と閉門を命じた。

家老藤木隼人は、謹慎処分となった。

保科正興も閉門、のち流罪となった。

西郷頼母と、
藤木一派の対立は、
幕末まで続くことになる。


最終更新日時 2008年12月26日 13時43分59秒

第四十三章●花町神楽

ハナマチ カグラ

藤木万は、
助命した四人の赦免を
主張して譲らなかった。
酒井政治が続く限り、
藤木万の政治関与を排斥することは、
困難に思えた。

友松氏興は、
キツネの祟り説まで持ちだし、
四人の赦免を繰り返し主張する藤木万と、
根気よく戦った。

「成瀬一派の処罰は、大殿の御遺言。
女狐・・じゃなかった、メンドリが時を告げれば・で、
政治への口出しを禁じられたるものを、
四人の助命を主張なされたこと、
そのものが、大殿の御遺言に背いておられる、
その上、四人の赦免とは。
天災地変が狐の祟りじゃから、
領民を救うため四人を赦免せよ・・などと、
天災時に会津の領民を守ったのは、
大殿さまが定められた社倉法で、
御稲荷様のご利益じゃ、ございませんです。」

「大殿の御遺言、
大殿が定められた御家訓を、
お守りすることこそ、
メンドリの・・じゃなかった、
女狐の・・じゃなかった、
鳥インフルエンザ対策のじゃなかった
領民を天災地変から守る為の
最良の方法ではありませぬか」

「お稲荷さまの御利益じゃ」
「社倉法でございます」
「お稲荷さまの御利益じゃ」
「社倉法でございます」
「お稲荷さまの御利益じゃ」
「社倉法でございます」
「お稲荷さまの御利益じゃ」
「社倉法でございます」

藤木万対友松氏興の、泥沼状態。

「友松殿、大丈夫かい。
呪い殺されねぇように、しらんしょよ。」



はじめての国入りを果たした伊達綱村は、
三千四百八十人の供揃いで、名取郷にさしかかった。

名取郷の植松飯野坂地区には、
船岡城落城後、
原田甲斐の家臣団三十七名が、
新百姓となって移り住んだ。
彼らは、
原田遺臣であることを示すために、
門の側に「はなもも」を植えた。


歌枕として名高い
藤原実方の墓に向かう途中の分岐点から、
美しいはなももの里が続く。
藤原実方は、
一条天皇の宮廷歌人で、
閣僚には、紫式部や阿部清明、清少納言、紀貫之。
源氏物語は、
事件を起こして陸奥国司として左遷された
藤原実方を光源氏のモデルとして描かれた。
色男金と力はなかりけり・・で、
藤原実方は、
名取郷で落馬して死んだ。

のちに、
松尾芭蕉と名を変えた
松尾宗房が、
奥の細道の旅の
目的地の一つに定めた
有名な、歌枕である。

仙台城下から名取川を渡り、
伊達綱村の参勤交代の行列が、
はなももの里に入った。

原田甲斐遺臣が舞う
出雲系鹿島神社神楽が演じられた。

綱村の視線が、神楽の舞台にそそがれた。

家臣が、すすみでて
「あのものたちは、原田甲斐の遺臣たちにございます」
と、綱村に告げた。

伊達綱村は、名取郷の神楽を、
「花町神楽」と改名せよと命じた。

政宗嫡孫、伊達光宗の没後から、
嗣子綱宗の代理として、
将軍家との鷹場交流を支え、
綱村成人と久喜鷹場返還にむけて、
血のにじむような努力を続けてきた原田甲斐宗輔。


その人生は、
天皇崩御の後、幼い皇子の成人即位の時まで
皇位を継いだ後西天皇
伊達綱宗の従兄である「花町宮」に重なる。

品川屋敷に、
長い隠居生活をおくる伊達綱宗は、
文芸ざんまいの晩年をおくる。
松尾宗房が出入りする俳人サロンの主人、
磐城平藩主内藤義概。
俳号「風虎」

保科正之の正室菊姫の甥にあたる。

隠居の父内藤忠興が、保科正之邸を弔問して、
会津藩家老友松氏興より、
保科正之の遺言のことを聞いてから、
息子の義概を通じて、
影ながら会津藩四家老を応援している。

上方から俳諧師匠西山宗因を招いて
俳人サロンを開いた内藤義概は、
保科正之が確立した文治政治の信望者である

俳人サロンに出入りする画人、文人を通じて
藤木万と友松氏興の猛烈バトルは、
江戸庶民の耳目を集めることになった。

事件後、御鷹場を拝領した酒井雅楽頭。

事件後、
酒井雅楽頭の専横政治を批判し
辞職した伊達光宗のまた従兄弟、池田光政。
彼もまた、
祖父池田輝政が
十余年の歳月をかけて築いた姫路城を
藩主幼少を理由に没収された。

松尾宗房は、
京都俳諧の重鎮である北村季吟に
俳諧師匠の免許を与えられ
江戸にカルチャー・スクールを開いたが、
なかなか食べていくことが出来ないので、
内藤家の俳人サロンに出入りするようになった。

松尾宗房は、
酒井雅楽頭邸で起きた真相不明の刃傷事件が、
会津藩の派閥抗争に源を発していると察知した。
忍者の里伊賀上野城下に生まれた松尾宗房、
容易に
仙台藩から戻った
間者たちから情報を得ることができた。


京都は、北の賀茂神社、西の松尾社、南の稲荷社が、
古代山城の三大信仰圏である。
保科正之の側室藤木万を旗手として、
これまで行われてきた京都藤木一派の江戸進出は、
藤木万と友松氏興の猛烈バトルとともに、
行き詰まるに違いない。

下馬将軍の異名をとる大老酒井雅楽頭も、
刃傷事件後、お手盛り加増などで、
専横政治への風邪ーあたりが強くなっている。
あまりにも露骨な、
保科政治と伊達家後見人政治つぶし。

流石に、
保科正之公は
東照宮権現さまの御尊孫、
御家訓、御遺言によって、会津藩を守られた。

処刑された成瀬重次の遺児を、
酒井家に預かったり、
藤木万の弟藤木織部を通して、
朝廷勢力と通じ
戦後民主主義勢力を本格的に排撃して、
幕府の実権を握ろうと考えはじめた酒井雅楽頭。
世評は、
めまぐるしく変った。
鎌倉幕府への回帰願望をひめて、
ノー・モア・ヒデヨシを打ち出した
江戸幕府の主流派を、
ここでまた、
酒井雅楽頭忠清の
個人的野望が壊そうというのか、

いや、関が原のやり直しも面白いではないか
やんややんやの野次馬たち。

伊達家品川屋敷に招かれた松尾宗房。

「大火の前に、松島に移築されたという
月見御殿のことを、私、よーく、存知あげております。」ハナマチ カグラ


最終更新日時 2009年2月13日 14時48分59秒

第四十ニ章●血判状

松尾宗房は、
磐城藩内藤家江戸屋敷の
俳人サロンで、
事件発生を知った。


内藤家江戸屋敷では、
隠居の前藩主内藤忠興が、
青ざめた表情で、
保科正之の弔問から帰った。

ただならぬ空気が、江戸藩邸を包んだ。

家臣たちは、口をつぐんだままだが、
内藤家に奉公する女たちは、
目の玉を、ギョロギョロさせて
内藤家から輿入れし夭折した
保科正之の正室菊姫のことを
ひそひそと、語りあった。

山形城時代
正室菊姫が、幼い若殿を残し亡くなった後、
朝廷にあがった徳川家光の妹、
東福門院和子姫の侍女であった
賀茂神社宮司の娘
藤木万が、
側室というより
後妻のように三田屋敷に入ったこと。

母親菊姫のあとを追うように、
若殿が亡くなった時、
藤木万が
天下でもとったように、
京都から、大勢の
女たちを呼びよせたこと。


その時以来、
当家の隠居、内藤忠興様は、
保科邸を訪れることが
なかったこと。

「保科正之さまは、藤木万の悋気が
内藤忠興様にまで及ぶことを恐れていたのよ」

「藤木万は、
天皇が行幸する京都賀茂神社の娘であることを
ハナにかけてねぇ、」

「保科正之様の御生母が、
家臣筋の娘であることを低く見て、
正室菊姫も、実家が
徳川家康の家臣であることを
低くみてねぇ・・。」

「男子を生んでからは、
夫を隠居させて
実権を握ることば
かり考えるようになったのよ」

京都生まれの侍女志保が、
保科正之の子を身ごもったので、
会津に追い出したこと。

志保は、雪深い会津の慣れない暮らしで、
二人目の娘、松姫を生んだ後、
亡くなったこと。
この時も
松姫つきの侍女であった野村きさは、
藤木万が志保の方の主治医を変えたことで
藤木万による毒殺を疑ったこと。

藤木万が生んだ嗣子が、
明暦の大火後病死して、
三田屋敷も全焼。

加賀前田家に嫁入りが決まった
松姫を妬んで、
毒殺を企んだ藤木万・・。

「さぁ、これから、どうなる・・。」

「保科正之様の遺言で、
家老たちが、藤木一派を退治するかも。」

女たちの話に
松尾宗房、びっくり仰天、

「それじゃあ、
酒井雅楽頭邸での刃傷事件というのは・・。」

「そうです。大きな声では言えませんが、」
「成瀬重次も、伊達宗勝も、原田甲斐も、
すべて、酒井雅楽頭の保科政治崩しの
道具に使われ、口を封じられたに
相違ありませんわよ。」

「酒井雅楽頭は、藤木一派を通じて、
京都勢力と結びつきジワジワと・・
朝廷の力をかりて、
幕府の実権を握ろうとするに違いありません。」


「ともかく、
片腕を斬り落とすようにして
仙台藩六十ニ万石は守られた。
あとは、会津藩が、
存続できるか否か、ですね・・。」

「なんといっても、会津藩譜代武士は、
武田軍団、人は石垣、人は城。」

雪解けの会津。

四月、
会津藩家老友松氏興は、
正経の小姓を説得して、
正経の留守に、秘密の文箱を開けさせ、
ついに
正経の文箱の底に、成瀬一派の
血判状があるのを確認した。

会津藩家老四人の連判によって
稲葉正通に訴え出た。

血判状を動かぬ証拠として、
保科正之の遺言による成瀬重次
らの処罰を断行した。

物頭の車市左衛門が指揮し、
成瀬重次の流刑地である実川にむかった。

流刑先の屋敷のまわりに杭を打つ。

車市左衛門は、成瀬重次に対して
切腹を要求したが、
成瀬重次が拒んだため
斬り殺した。

成瀬一派の残党
御子柴久弥、
原甚左衛門、
狩野久左衛門、
高木孫四郎は、
藤木万の嘆願で助命された。

殿が、
メンドリが時をつげればの例えを述べられ、
藤木万に、政治に口出しすることを禁じられたのに・・、

憤る家臣たち。

成瀬一派処刑を聞いた正経は、
血相を変えたが、
やがて
重臣たちの説得で、
江戸城に登城して酒井雅楽頭に会い
藩内で
多くの処刑者を出した不祥事を、侘びた。

酒井雅楽頭は、
稲葉正則ら
老中たちを睨みつけながら、
「保科公の遺言とあらば、やむを得ないことだ。
会津藩お取り潰しは、まぬがれよう。」
と言った。

藤木万は、
弟で、賀茂神社の神官である藤木織部を、
京都から呼んだ。

持参した京土産を、
正経と正容とに配ろうとする藤木織部。

まだ四歳の正容には、おもちゃの土産。

猫なで声で、正容にも・・と
京菓子を差しだす藤木万。

土産の京菓子を、
殺気だって眺める家臣たち。

藤木一派による、幼君毒殺を、
命がけで守る
一大作戦が開始された。

やがて
稲葉正通の妹仙姫が、
幕府の命令で、
伊達綱村の正室となり、
舅の老中、稲葉正則が、
伊達綱村の政治指南を行うように定められ、
綱宗隠居の時から
仙台藩に置かれていた国目付は、
廃止となった・・・。


最終更新日時 2008年12月26日 11時46分22秒

2008年12月25日

第四十一章●メンドリが時を告げれば

酒井邸から幕府への報告は、

伊達安芸と原田甲斐が喧嘩をして
両方とも死んでしまいました
・・という、
簡単なものだった。

急を告げる早馬が、
夜の闇を、
仙台へ、仙台へと、
駆けた。

伊達安芸の直訴は
江戸庶民の話題をさらっていたので
事件当日から、
酒井邸に詰め掛けていた文屋が、
面白おかしく
事件の顛末を書きたてた。

かろうじて、生きのびた
古内志摩は、
宇和島藩邸に入ったきり、姿を見せなかった。

柴田外記朝意、
忠次郎は、
深手をおったが、
危篤状態で
三月二十八日の
夜明けを迎えた・・・。

その、同じ夜明けを、
船岡城の津多は
胸の上に、重いものを載せたような
息苦しさで、目覚めた。

「・・・・。」
無言の忠次郎が、枕元に、立った。

事件後、

亘理伊達家にお預かりとなった津多は、
息子の無実を主張して食を断った。

遠のく意識のなかに
サンファンバウティスタ号の
展帆の、掛け声が聞こえた。

七月ニ十九日 
津多は、
波乱に満ちた生涯を終えた。

遺体は、
太平洋を遠望する
小高い山の頂上に埋葬された。


十一月十七日 
猪苗代湖を望む磐梯山の裾野に、
葬地を決めた保科正之に
土津の御霊号がさだめられた。

翌年正月   
正容が、無事三歳の誕生日を迎えた。

一月十五日  
会津藩ニ代藩主正経が、
若松、塩川で鷹狩を行った。

四月十五日  
成瀬重次一派の
驕心を訴えた家老友松氏興、
保科正之より
辞職願を却下される。

四月十七日  
田村宗良、閉門を解かれる

六月     
城代家老の田中正玄、急死。

八月     
正経、会津から江戸へ

十ニ月    
保科正之の娘婿である稲葉正通、
泊まりがけの看病。
保科正之、
藤木万と正経とを
枕元に呼び、
メンドリが時を告げれば世が滅ぶの
たとえを延べ、
藤木万が、二度と
政治に口出しすることのないように、
遺言した。

十ニ月    
家老友松氏興に、
成瀬重次一派の処刑を遺言し、
正経は、病弱なので、
正経にもしもの
ことが、あった場合、
正容を次期藩主とするように
命じた。  

十二月十八日 
保科正之が没した。


   


最終更新日時 2008年12月25日 20時39分23秒

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