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「すべてを疑え」を座右の銘に [全2146件]
パッチ・アダム14:「人間は弱く、ミスを犯す。医療においてこれをどう考えるかは大きな問題だ。たいていの医者は傲慢な態度を取り、弱みを見せないように頑張っている。すべてを知っているというふりをするんだ。自分はパーフェクトだと誇示しているんだね。でもこれほどアホな話はない。…(続 パッチ・アダムス15:「…僕なら、分からないことがあるとすぐ友達に電話する。「チャーリー、こういう場合、鍼治療は使える?」そうすれば、みんながチームになって最善の方法を探ることが出来る。」この姿は、安冨さんが論じていた君子に重なるものがある。自分に本当に正直な人がこのように行動できる パッチ・アダムス16:「一番困ったときに、助けてくれるのはお金じゃない。本当に君たちを生かしてくれるのは愛する心であり、惜しみなく愛を注ぐ友だちがいることだ。僕たちがこの人生を生きていくのには、何万ドルの蓄えよりも、「大丈夫だよ」と背中をさすってくれる人の存在が頼りなんだ。」 パッチ・アダムス17:「愛について僕が言えること。愛するとは、ひとかけらの疑念も持たず、相手を完全に信じるということだ。その人の前に無条件降伏することだ。人はよく「神様、私のすべてをあなたに捧げます」という。僕も「私はあなたにすべてを捧げます」という。でも僕は神でなく人々に…(続く) パッチ・アダムス18:「…僕は神でなく人々に自分のすべてを委ねてしまう。」汝の隣人を愛せよという言葉は、最も愛することが難しい人間であっても、それが隣人であるなら愛せよということだ。つまり人間であれば、誰でも愛するに値するということだ。何かの美点を愛するのではない。人間だから愛する。 パッチ・アダムス19:人々に愛や喜びをもたらすとは、自分の中にあるものを誰かに与えることなんだ。これは絶対的に一方通行のものだ。相手の反応を伺ったり予測するのは絶対にしてはならないこと。ちょっとした好意のまなざしや微笑み一つでも、相手からの報酬を期待してはいけない。…(続く)」 パッチ・アダムス20:「…それをしてしまったら相手の心のバリケードを崩すことは出来ない。」これは、板倉聖宣さんが語っていた生き方の上手な人だ。誰かを助けることはそれだけで幸せになれる。報酬がないと満足できない人は生き方の下手な人だ。わざわざ幸せを手放す行為をしているからだ。 パッチ・アダムス21:「悲しみのパラダイムに絡め取られて、落ち込んで、自分には何も出来ないと思い込んで人生を無駄に過ごすなんて、ほんとにつまらない。今すぐ幸せになる方法があるというのに。人々と助け合ってこの世界をよりよい場所にするために働いて、愛と笑いを広げ、みんな堂々と…(続く パッチ・アダムス22:「…みんな堂々と幸せになればいいんだ。もしあなたが教師なら、必要なのは教育を変えることであって、良い教師になる夢をあきらめることはない。もしもあなたが医師なら、必要なのは今の医療を変えることであって、良い医者になるという自分の夢を捨てるのはばかげている。…」 パッチ・アダムス23:「ここで考えるべきなのは、自分のような素晴らしい志を持った一人の人間がもう自分の夢は追いかけられない、あまりにひどすぎる、と絶望してしまうようなこの状況は何なのか、どうしたら変えられるかだ。「変えられるように頑張ろう」とか、「変えられたらいいのに」では…(続 パッチ・アダムス24:「…全然ダメだ。いいかい、そんな中途半端はクソの役にも立たないぞ。「私が変える」と本心から思うこと、そしてそれを行動に移すこと。見ていてご覧、素晴らしい仲間が集まってくるから。夢をあきらめるなんてもったいなくて、僕にはとても出来ない相談だ。」パッチ・アダムス24:「…全然ダメだ。いいかい、そんな中途半端はクソの役にも立たないぞ。「私が変える」と本心から思うこと、そしてそれを行動に移すこと。見ていてご覧、素晴らしい仲間が集まってくるから。夢をあきらめるなんてもったいなくて、僕にはとても出来ない相談だ。」 パッチ・アダムス25;「僕の恋人が死の床にあるとしたら、僕は何もかも投げ捨てて彼女の元へ行くよ。仕事がある?何を言ってるんだ。僕ならゲズンハイトさえも放り出すだろう。そして心臓が停止してモニターがフラットになっても最後まで愛を伝えるんだ。もしあなたがそれを出来ない状況にいると… パッチ・アダムス26:「…それを出来ない状況にいるとしたら、そんな非人間的な社会のシステムを変えなければいけないんじゃないのかい?」どこまでも変化し成長しようとするアダムスの姿に敬服する。そして自分の心の本当の思いに従って生きろという言葉に共感する。それが幸せに通じる道だと信じる パッチ・アダムス27:「誰かが亡くなった後で、こういうことは必ず起こるものなんだ。なぜか?それは彼ら自身が今までずっと後悔の人生を送ってきたからだ。後悔したくなかったら、今すぐに後悔の人生を止めることだ。「神様、私は子育てに失敗しました。私の結婚は失敗でした。仕事も、すべてが… パッチ・アダムス28;「…仕事も、すべてが失敗です」。全く、くだらない考え方だ。その時その時に出来る最高のことをすれば、後悔なんか感じない。死は、あなたにいろんなことを教えてくれる。いいかい、リラックスするんだ。気持ちを自由にして、自分が本当にやりたいことを精一杯やるんだ。」 パッチ・アダムス29:「人間的であるってことは、深い思いやりと寛容さを示すことだと僕は思いたい。孤独に死ぬ人がいてはいけない。誰もが愛する人とともにいるべきだ。これはマザー・テレサが望んだことだね。彼女はすべての死にゆく人をその腕に抱きしめたいと願った。僕が難民キャンプに行き… パッチ・アダムス30;「…僕が難民キャンプに行き悲惨な光景を見るのも同じことだ。僕はただ、つらい状況にいる人々の元に愛を届けたいだけなんだ。」アダムスの言葉はどれも感動的だ。それが感動を与えるのは、彼が正直に自分の心を語っているからだろう。真実は人を感動させる。真実が伝わっている
僕はロビン・ウィリアムスのファンなので、「パッチ・アダムス」という映画は前から好きだったけれど、安冨歩さんの『生きる技法』を読んだ後で、この映画を見ると印象が違ってくる。アダムスが、安冨さんの語る「生きる技法」を実際に実現している人のように見えてくる。図書館で、アダムスの本を借りて読んだら、ますますそのように思えてきた。そこで、Twitterでアダムスの言葉を紹介してみた。以下のようなものだ パッチ・アダムス1:パッチ・アダムスは、安冨さんが語る「生きる技法」を実際に体現している人ではないかと思える。そのパッチ・アダムスの本を見つけたので、印象的な言葉を引用して紹介したい。言い言葉は多くの人に味わってもらいたいと思うからだ。それを伝えることで僕も幸せを感じられる。 パッチ・アダムス2:「この世で一番ひどい苦しみは、孤独だ。友だちが一人もいなくて、誰一人、自分を愛してくれないこと。寂しいから何かで癒されようともがくのは止めて、苦しんでいる誰かを抱きしめてあげよう。ありったけの愛を込めて、優しいまなざしを投げかけよう。報酬を求めず、…(続く)」 パッチアダムス3:「…すべてを投げ出してその人のために全力で尽くしてみよう。そうすると、不思議なことが起こる。あなたの心にも体にも力がみなぎり、喜びがあふれてくるんだ。サポートが必要な誰かを見つけてケアすると言うことは、つまり自分が幸せになることであり、この世界に平和を作り出す…」 パッチ・アダムス4:「…平和を作り出す行為でもある。なぜなら、喜びにあふれた人間が暴力をふるうわけがないからだ。愛と喜びは人々の心から怒りや暴力を消してしまう力を持っている。僕は、深い思いやりと愛の力でこの社会を根本から変えてしまうつもりなんだ。」実践家の言葉だから信用できる。 パッチ・アダムス5:「僕はある意味では重荷を背負った「生き残り」なんだ。10代の終わりに深刻な心の危機に見舞われた。しかし、それを乗り越え、素早く立ち直ることが出来たのは、母が僕に自分を愛する心を与えてくれたからだ。僕はつらくてつらくて死にたかった。でも、自分を嫌いにはならなかった パッチ・アダムス6:「母が愛してくれたからだ。僕は精神病院に入院した。でも、最後には「死にたくない。僕はこのひどい状況を変えたい」と決意することが出来た。それは心の底の方に、「僕は普通とは違う人間になる」「何かが出来る人間なんだ」と信じる気持ちがあったから。母がそう言ったからだ。… パッチ・アダムス7:「…僕が何かをやろうとすると必ず母は、「あなたは出来る」と言ってくれた。」ここには教育の原点が語られている。子供時代に丸ごとすべてを認めてもらうと言うことが如何に大事かという。かつて河合隼雄さんもそう書いていた。僕が河合さんにも惹かれたのそのせいだった。 パッチ・アダムス8:「苦しんでいる人を助けること。人生にはこの他に大切なものは何もないと言っていいくらいだ。僕にとっては、人に尽くすことそのものが生きる喜びだ結局の所僕は「人を助けること中毒」なんだ」アダムスは利他主義者ではない。人に強制するのではなく自分がそうしたいからやっている パッチ・アダムス9:「ところで、アメリカ人は全世界で誤解されているけど、自分の生き方を自分の考えで決める人たちの集まりではない。むしろ、彼らは躍起になって社会が求める鋳型にぴったりはまることを追求してるんだと思う。それが競争に勝ち抜く道だから。勝ち組に生き残るために。…(続く)」 パッチ・アダムス10:「…つまらない生き方だ。人間的であると言うことは、「自分は他の人とは違う人間になる」「自分は何かをやってみせる」と考えることだ。人間はそれぞれ全部違うのだから。自分はどんな人間なのか、どう生きたいのか。「私は誰?これがなりたい自分なのか?」日々自分に問い直し、… パッチ・アダムス11:「…日々自分に問い直し、ごまかさないこと。自分がなりたい自分でいることが一番大切なんだ。」エリートの苦しみを適切に表現している。世界中同じなのだ。競争から来るプレッシャーと、それによって失う自分自身。勝者が幸せになれない現実はそのような理由から帰結する。 パッチ・アダムス12:「ひょっとしたら、みんなは僕のことを精神的に強靱な、タフな人間だと思うかもしれない。でも、それは違う。僕は18歳の時に、地獄の釜の蓋を開けて覗いたんだ。そして思い知らされたんだ。自分にウソをついて生きることがどれほど悲惨なことか。それに比べたら、真実を生きる… パッチ・アダムス13:「…それに比べたら、真実を生きることの方がずっと簡単だ。」いい言葉だと思う。真実を受け入れた人間は幸せになり、受け入れらない人間は真実を憎むようになる。ほんのちょっとした違いなのにその差は大きい。どうすればそのような「生きる技法」を身につけることが出来るか。
安冨さんのこの本で最も共感し役に立ったのが「自己嫌悪」に関するものだった。僕は自己嫌悪をそれほど悪いものだとは思っていなかった。仕方のないものだと思っていた。若くて理想に燃えている人間なら、誰でもその理想像に比べれば劣っているのだから、そのような自己を悪く思っても仕方がないと思っていたのだ。むしろ、自己嫌悪に陥らず、自分に根拠のない自信を持つことを戒めようと思っていた。 だが「嫌悪」という感情はそのような合理的なものではなかったのだ。それは何か抑圧された無意識からわき起こってくるような、抗いがたい感情だったのだ。理想から離れている自分に対しては、叱咤激励する気持ちは生まれてくるが、嫌悪の感情は良く考えてみるとなかった。嫌悪の感情が生まれてくるのは、やはりどうしようもなく自分がダメだと感じたときだった。 自分がダメだと感じているのに、どうしてもダメだという評価に引っかかるとき「自己嫌悪」という感情が顔を覗かせる。ダメだと思わされている自分に気づくことで「自己嫌悪」を脱することが出来るというこの本の指摘は、まさに「生きる技法」だと思った。 僕は同じ感覚を持つと言うことが苦手な人間だった。周りが楽しくしているときに、なぜかあまり楽しく感じなかったり、逆に周りが怒りに燃えているときに、その怒りが自分の中にわき起こってこないのを感じていた。どうして自分はへそ曲がりで、他人と違う感情を持つのだろうか、ということがある種の「自己嫌悪」になっていた。 だがよくよく考えてみると、周りが楽しそうにしているのに、僕はその中でかなり孤独感を感じていた。話の輪の中には入れなかったりして、そうであれば楽しさを感じない方が自分の感覚には素直だったのだ。そのようなことに気づいて、周りをよく観察してみると、楽しい雰囲気なのに、実際には心から楽しんでいるかどうか疑問を感じるようなことも多々あった。僕のように、輪の中に入れなくてひとりぼっちのようになっている人を何回も見かけたからだ。また楽しそうに振る舞っている人も、そのような姿を期待されて、その役を演じているような、心から楽しんでいるのではなさそうに感じることもあった。 自分の感覚に素直になっていないときには「自己嫌悪」というものが顔を出す。自分がそう思いたい感情と、自分の本当の感覚が違うところに「自己嫌悪」が生じる。この指摘は、これまでの自分の行動を理解するのに、まさにその通りと思えるものだった。 自己嫌悪とともに語られる「憧れ」の説明も面白い。自己嫌悪は自分に何かがないことを感じている状態だ。安冨さんは「態度」だと語っている。何かが不足しているから、その不足を埋めようとして、それを持っているような人や物に「憧れる」。カリスマ的な人間に引きつけられるのは、この感情が大きいのではないだろうか。カルト的に何かに引きつけられる人間の感情の底には「自己嫌悪」があるのではないか。 自己嫌悪は、自分がダメだというイメージであるから、成功し幸せになっている自分というものを正しい自分には思えなくなる。だから、自己嫌悪から抜け出さない限り、成功も幸せもない。実に明快な形式論理で、前提さえ同意すれば、この結論には自動的に同意できる。問題は、イメージとして定着しているダメな自分からどう脱却するかだ。 安冨さんが提出する方法は、自分本来の感覚を取り戻すと言うことだが、これは自分では難しい。だから友だちが大切だと安冨さんは指摘する。簡単に取り戻せる自分の感覚なら、そもそも自己嫌悪になど陥らないだろう。今日は「パッチ・アダムス」というロビン・ウィリアムス主演の映画を見ていたのだが、ここに、自己嫌悪から抜け出す具体的な道筋を見たように感じた。 アダムスは、自殺未遂で病院へ入ったような人間だった。彼はおそらく自己嫌悪の強い人間だっただろう。彼がそこから抜け出したのは、同室の患者との心の交流だった。精神を病んでいたその患者は、おそらく誰にも理解されない存在だった。医者でさえも、彼は治療の対象だが、人間として理解する対象にはなっていなかった。その彼を、アダムスは理解しようと努めた。そして、彼がアダムスの行為を心から受け入れたとき、アダムスはその瞬間に救われたと感じた。自己嫌悪から抜け出したのだ。 この同室の患者を「友だち」と呼べば呼べないことはない。だが、安冨さんが語る「友だち」は、たぶん象徴的な存在で、必ずしも普通の意味での「友だち」でなくてもかまわないと思う。僕にとって救いとなってくれたのは、養護学校や夜間中学校での生徒だったからだ。 卒業後には、本当に「友だち」となった人もいたが、大事なのは心から受け入れられたという思いを、お互いが抱けるかと言うことだと感じる。一方的な関係ではなく、双方向的な、お互いを感じることが大事だ。相手を、何か肩書きや立場で理解するのではなく、そこに存在する個人として理解したときに、そのような感情が生まれてきたのを感じた。 その人の前では自分自身でいられる。そのような感情をお互いに抱ける人が、たぶん「友だち」というものだ。僕も相手をそのように、生のままで受け入れることが出来たとき、僕も受け入れられたと感じられるのだと思う。これは、そのような関係が出来れば、親子や兄弟であっても「友だち」になるだろう。しかし、嫌な面もすべて知っている近い存在ほど、すべてをそのまま受け入れるのは難しいかもしれない。また、親は子供をコントロールできてしまうだけに、生の子供自身を見ることが難しいかもしれない。 自己嫌悪は態度であるという指摘も共感するものだ。自己嫌悪は、何か客観的な事実があって、それを根拠に自分がダメだと思っているのではなく、最初から自分はダメだという思いがあって、何をしてもダメという「態度」を取るのが自己嫌悪になる。ここから抜け出るのに、根拠のない自信を持っても、それは隠蔽された自己嫌悪になるだけだ。そうではなく、ダメだと思わされていた自分自身を素直に見つめて、ありのままに受け入れるという「態度」さえあればいいのだ。人間は完全ではないのだから誰にでも欠点はある。そういう全体として受け入れるのだ。それは、そういう自分を受け入れてくれる「友だち」と出会うことによって「態度」が変わる。 利他主義者に対する批判も共感する。僕は利他主義者が嫌いなのだが、その理由をこれほど見事に説明してくれた言葉はない。大きな共感を覚えた。安冨さんは次のように書いている。 「利他主義者はかなり厄介者で、どう付き合ったらよいかよく分かりません。彼らは「自分の利益のためにやっているのではない」と言って、あまり意味のないことに奔走し、周囲の者に犠牲を強要する圧力をかけてくるのです。そこから生じる世間の評判や栄誉は、利他主義者の独り占めです。」 ここで語っている利他主義者については、その具体像がありありと浮かんでくるくらい、僕は利他主義者と出会ってきた。その圧力を感じて、自己嫌悪を強められたこともあった。だがもうさよならだ。利他主義者も、自らの自己嫌悪を他人に押しつけて、自分の自己嫌悪を少しでも軽くしたいと思っている利己主義者に過ぎないと思えるからだ。自分はそういう人間は嫌いだから、彼らとは別の道を歩む。本当の意味で自己嫌悪から脱するのだと宣言したい。 最後の「うぬぼれ屋」への言及は、安冨さんがどうしてエリート主義にならないか、その理由がよく分かる文章だ。引用して終わりにしよう。 「うぬぼれ屋は最悪で、こういう連中を私は何度も間違って能力のある人だと思い込んで、煮え湯を飲まされました。なんだかんだと他人の悪口を上手に言って、あたかも、自分はそういうことなどやらないかのように見せかけます。その実、自分こそが、そういう行為をこっそりやっているのです。そして放っておくと、なんだかんだと逆恨みして、世話になっている人の悪口を言って回ったりして、人を裏切るのです。エリートというものは、大変なうぬぼれ屋が多いため、エリート世界は誠に生きにくい場になってしまいます。」
夢というのは、まだ現実化していない空想で、頭の中に存在している。これは「想像」という現象をどう捉えるかと言うことでその理解が変わってくる。僕の尊敬する三浦つとむさんは、「観念的な二重化という言葉で「想像」を捉えていた。「想像」は、「現実」の世界と「想像」の世界と、世界が「二重化」するところに本質を見ていた。 この世界の「二重化」は自分自身の「二重化」ももたらす。現実の自分と、「想像」の中の観念的な自分と、自分が「二重化」する。これを「観念的な自己分裂」と呼んでいたように記憶している。 さてこの二重化した世界を見ていると、現実の自分の他に、未来のあるべき姿の自分というのを見ていることになる。ここに夢が自分を駆動するエネルギーとして働く根拠を見出すことが出来る。安冨さんは、夢としての想像は具体的に見る必要があると書いている。 具体的に見ている夢は、二重化した世界でも生き生きと躍動しているだろう。そうすればエネルギーとしてもパワーが大きくなるのではないかと思う。安冨さんは、抽象的な夢は良くないとも書いている。その一例として「東大に入る」という夢を上げているのだが、僕はこれには最初違和感を抱いた。「東大に入る」という夢も十分具体的な感じがしたからだ。 これは、もう一つ良くないとされている「記述的」と書いてある言葉で理解できそうだ。「東大に入る」という夢は、言葉として記述は出来るが、そういう姿を生き生きと描くことが難しい。これに対して、この夢以上に空想的な「プロ野球選手になる」という夢があるが、これは野球で活躍している自分というのを、少なくとも想像の世界では生き生きと描くことが出来る。そうすると日々の練習などでもその夢を描きながらやれば、つまらない反復練習も未来の楽しみのおかげでやる気が出てくる。 「プロ野球選手になる」という夢は、記述する前にすでに頭の中に映像が浮かんでくる。そのようなものこそが具体的で、記述的・抽象的ではない夢なのではないかと思う。このような夢があれば人間は幸せになれる。 この章で大事なものはあと三つある。一つは、「夢を否定形で考えない」というものだ。これは、否定形というものが、言葉を媒介しない限り理解できないという安冨さんの考えから来ているのではないかと感じる。否定形の夢は常に記述的なのだ。そうならないように頑張ろう、というものは自分を駆動するエネルギーにはならない、というのは共感できる指摘だ。 むしろ心理的なプレッシャーのせいだろうか、否定形の夢は、そうなりたくないのに、そうなってしまうという結果を招くという指摘もある。これは大事なことだ。練習では名プレイヤーなのに、試合ではさっぱり実力を出せないというスポーツ選手の場合は、この否定形の夢がメンタル面を支配しているように感じる。失敗したらどうしようというプレッシャーのために、試合ではスムーズな動きが出来ないのだと思う。 『車輪の下』のハンス・ギーベンラートの失敗も、試験に絶対に成功しなければならない、失敗してはならないという否定形の夢のせいのように感じる。ヘッセはそう表現していたように感じる。 二つ目の重要なポイントは、夢は達成することの意義よりも、その過程にあると言うことの意義の方が大きいというものだ。夢は自分を稼働するエネルギーだ。だから、過程にあって、夢を意識していることが大事だ。その時に最も大きなエネルギーを得る。もし達成してしまったら、次の夢を持たなければ、エネルギーはなくなってしまう。燃え尽き症候群のようなものだ。若い内に夢を達した人間が、その後の人生で不幸なのはそのせいだろう。 過程にあることが大事な夢は、板倉聖宣さんが語った究極の理想と呼べるもののように感じる。究極の理想は達成は難しい。簡単に達成できる理想は理想ではない。しかし、実現不可能な理想は、今度は理想として掲げ続けることが難しくなる。捨て去ってしまいたい妄想のように感じてしまう。ずっと持ち続け、しかもなかなか達成できない究極の理想こそ、過程にあることが尊い夢になりそうだ。 過程が大事だと言うことでは、安冨さんは次のように書いている。 「そうやって、夢を描きつつしっかり歩むならば、その夢は実現しないとしても、その過程で得られることによって、あなたは次の夢を夢見ることが出来るようになります。そのような、夢の渡り歩きこそが、あなたの「道」です。」 究極の夢の過程で、小さな夢があり、それがここで語っている「次の夢」を生んでいくような感じがする。そうすれば、夢の状況の良い展開が得られるだろう。この本の表題の「生きる技法」にふさわしい知識だ。 最後に大事な三つ目のポイントは、実は夢ではなく幸せに関するものだ。それは次の安冨さんの言葉で語られる。 「幸福というのは、感じるものです。幸福だと感じれば幸福であり、感じなければ幸福ではないのです。」 これは実に示唆に富んだ指摘だ。幸福というのを自分の環境のように考えている人もいるのではないだろうか。物質的な裕福さや、成功や賞賛という名誉に関するものが幸福なのではないかと考えていないだろうか。しかし、幸福というのは「感じ方」という自分の内面の問題なのだ。 これは僕は完全に同意するのだが、感じ方など勘違いもあるではないか、と考える人もいるだろう。だが、この感じ方は、単にそう思い込んでいるというものではなく、自分の生な感覚に素直に従って感じるということが問題にされている。文学的に表現すれば「心からそう感じている」とでも言う状態だろうか。 問題は、そのような感受性を邪魔するような要素が現代には多いと言うことだ。安冨さんの指摘では、特に子供時代の育ち方に問題があるという。しつけという名で行われる精神的な虐待が、子供の感受性を限りなく生のものから引きはがし、感じさせなくしてしまうからだ。 この生の感受性を取り戻し、この感受性に従って幸せだと感じるかどうかが、安冨さんが言う「幸福を感じる」と言うことだ。この感受性が壊れている人は、決して幸せを心から感じることが出来ず、どんなに良い状況にいると思えても常に不安に悩まされる。日本人の多くが物質的に豊かなのに幸せを感じられないのは、この生の感覚が壊れている人が圧倒的に多いからだ。 この感覚が、僕の中では壊れているのかまともなのかは分からない。それを知るには、他者を生の感覚で受け入れるという経験と訓練で学習していくしかないのではないかと思う。僕は、これから出会うすべての人に対して、その人の生に出会えるかどうかをいつも考えながら行動しようと思う。そして、他者の生を受け入れられる人間になったら、その時は自分の生を受け入れてくれる人を探し、幸せの感覚を取り戻すことが出来るのではないかと思う。これは、僕の一つの夢になるだろうか。
自由というものを僕は三浦つとむさんから、「必然性の洞察」であると学んだ。これはヘーゲルの言葉らしいのだが、自由という概念の弁証法的理解が込められている。自由というのは普通は制約のない状態だと捉えられている。何ものにも縛られていないから自由なのだ。しかしこの考えを極端にまで推し進めると論理的な矛盾が生じる。 何ものにも縛られていないのを自由だとすると、その自由は現実には存在しないということになってくるからだ。つまりすべての制約から解放されている存在はないということだ。そのようなものは想像上の神にでも帰属する性質となる。現実の自由は、何かの制約があるという自由の対立物を背負っている。つまり弁証法的存在なのだ。自由はその対立物である制約との調和の元に実現する過渡的状態だと僕は三浦つとむさんから学んだ。 「必然性」という制約は逃れることの出来ない制約だ。だからこそそれを洞察することが現実の自由につながる。必然性に逆らうことが出来ないのだから、それを洞察して調和を図るところに現実の自由がある。これは論理的に正しい。問題は、この論理的に正しい方向が、実践的にはとても難しいところだ。我々はどうやって必然性を洞察すればいいのか? 必然性の洞察は科学の進歩とともにより深く広くなってきた。我々の自由度は広がったと言っていい。だがまだまだその範囲は狭い。世界には解明できていない事柄は山のようにある。そして、解明不可能ではないかという事柄さえある。ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬことは沈黙すべき」と語ったのだが、原理的に必然性が洞察できないことは「語り得ぬこと」ではないかとも感じる。 マル激での安冨さんと宮台さんの議論の中で「宗教的なもの」が語られていたが、それはまさに必然性が洞察できないもので、運命というような解釈しかとり得ないもののように見える。大震災のような災害に遭うということや、犯罪被害者になってしまうというようなことは、なぜ自分がそのような目に遭うのかという必然性はない。強いていえば、確率的にゼロではないから、誰かがそのようになるのであって、その誰かが自分であるのは偶然だ。必然性は、誰かがそのような目に遭うということだけだ。 放射線の被曝による癌の発生についても、それは確率的な現象だから、誰かが癌になるのは必然だが、誰が癌になるかは偶然だ。このような必然性は、それを洞察したからといって果たして「自由」になるだろうか?むしろ不安が増して不自由になってしまうのではないか。「自由」を「必然性の洞察」と捉えるのは、素晴らしい弁証法的思考だと思うが、論理の明快さに比べて、実践の困難はとても大きい。 この実践の困難さに明快な解答を与えるのが、安冨さんのこの第5章だ。「必然性の洞察」を別の視点で見ると、安冨さんが語る「選択の自由」に行き着くのではないかと思う。すべての選択肢の中から最適解を選ぶというのが「必然性の洞察」をすることで可能になる。理論的にはその通りだと思う。しかし実践的には、安冨さんが語る「計算量爆発」という現象のために、その最適解を選択することが出来ない。「必然性の洞察」の困難さの理由がこれで分かった。必然性を洞察し、最適解を計算しているだけで人生の大半を使ってしまうのだ。「必然性の洞察」は、実践的には不可能なのだ。 それでは「自由」の根拠をどこにおけばいいのか。必然性の洞察でないとするといったい何が自由の根拠になるのか。これにも安冨さんは明快な解答を与えている。そして僕はそれに共感し、見事な解答だと思う。 自由の根拠になるのは、命題6-8で語られている「自分の内なる声に耳を澄まして、その声に従う」ということだ。自分の感覚を信じその通りに行為することこそが、自由に振る舞うということなのだ。これは考えてみれば当たり前だと思うのだが、それは単なる思い込みでわがままではないかという声も聞こえてきそうなので、誰もそのように考えなかったのではないだろうか。 これが単なる思い込みではなく、自由であるためには、その心の声に従うことから学習が始まらなければならない。学習せずに、自分のエゴに執着して選択しているのでは、それは全然自由ではないのだ。執着は自由ではない。何かの狂った像に縛られているだけだ。 命題7の「自由でいるためには、勇気が必要である」という指摘も共感するものだ。エゴで心の声に従うのでなければ、それは世間の常識と対立する場合がしばしばある。そんなとき、自分の感覚を否定してしまえば自由にはなれない。自由になるためには、社会を支配する空気と戦わなければならない場合が多々ある。とても勇気のいることなのだ。 この自由の概念は、安冨さんが『生きるための論語』で論じていた西欧倫理学の難問への答にも通じる。それは、どちらを選んでも倫理的な大問題が生じるような問題に対して、究極の選択をするものだ。マイケル・サンデルによって有名なった。暴走するトロッコの行き着く先にいる一人と五人の、どちらを犠牲にして救うかという選択だ。 これには必然性はない。どちらを選んでも困る。どちらも選びたくない。カント的な自由の概念では、このような状況においても、どちらを選ぶかという決定が出来ることが「意志の自由」として語られているように感じる。理論的にはそれはその通りだと思うが、実践的にはそこに自由があっても解答を出すことが出来ない。そこがこの難問の難しい点だ。 安冨さんは、この場合でも自分の内なる感覚に従って解答を出せと言う。それこそが自由な思考だという意味だろう。僕もそう思う。そして、どのような結果が出ようとも、その結果から学ぶことが出来れば、それは自由につながるのだ。本質は学習の回路が開いているかどうかということにある。それこそが自由の根拠になる。 この発想は、またしても僕の尊敬する板倉聖宣さんの考えに通じるものになる。板倉さんは、「どちらに転んでもシメタ」という格言をよく語った。これは選択が難しい問題にぶつかったときに、たとえどちらの道を選ぼうとも、その結果から学んで、「シメタ」つまり利益となる方向を必ず見出すことが出来るのだという学習の方法を語ったものだった。これは安冨さんが語る「学習」と「自由」の理論を総合したものから導かれるものになるのではないかと思う。 安冨さんの主張をすんなりと受け入れ、前からそう考えていたという親しみを感じるのは、安冨さんが普遍的な真理を語っているからではないかと思う。自分がそう思っていたことを適切に表現してくれる人に出会うと、真に幸せな気分になる。このことを多くの人に知らせたくなる。
安冨さんが第4章で語るのは貨幣、すなわち金についてだ。ポイントとなるのは、これは便利なものではあるが、使い方を間違えると失うものがあるということだ。それは人と人をつなぐ「信頼」というもので、貨幣は、信頼なしに人と人を結びつける便利さがあるので、この便利さに頼りすぎると、信頼そのものを得ようとすることが難しくなる。 貨幣はどんな商品とも交換可能だ。金さえあれば物はすべて手に入る。とりあえず生活の糧を手に入れることは出来る。生命を維持することは可能だ。だが人間が生きるというのは、単に生命が維持されていればそれですむものではない。生き甲斐、あるいは幸せというものは金では手に入らない。 安冨さんは、貨幣なしで生活をするドイツ人ハイデマリー・シュヴェルマーという女性を紹介している。彼女は「知らない人とでも信頼し合い、交換し分かつことが出来、それによってともに楽しみ、最後には友だちになることも出来る」という考えの実践のために貨幣なしの生活という実験に踏み切ったそうだ。 他者に頼る第一歩はどのようにして信頼関係を築くかということから始まる。それはすでに築いていたネットワークを使って、信頼関係で結ばれる人間関係というものの構築をしたらしい。全く見ず知らずの間では、やはり信頼関係は難しいと思われるので、その基礎は必要だろう。だが大切なのは、信頼関係が基礎であって、何か能力があったり財力があったりという関係を基礎にして人間関係をつくるのではないと言うことだ。 信頼関係が基礎にあれば、何かあったときに助けてくれるということを期待できるだろう。この信頼関係というのは、助けというのももちろん期待できるが、実は生活の全般にわたって良い方向への変化をもたらすきっかけを与えるのではないかと思う。貨幣がない方が信頼関係の構築が本物になり、貨幣があるとこの信頼関係を築くのが困難になるという逆説を、このドイツ人女性の実践が教えてくれているように感じる。 我々は自分の楽しみのために金を注ぎ込むのはあまり躊躇しない。趣味に大金をつぎ込む人もいる。しかし、寄付やカンパを惜しみなく出す人は少ない。他者への支出は、その他者への信頼度で気分が違ってくるように感じる。本物の信頼関係を築いている相手が少ないのではないかと思う。 誰から聞いた話だったか忘れてしまったが、もう退職した年輩の人が、かつて貧しかった時代に同僚が給料を無くしてしまったので、自分の給料を封を解くこともなく渡してしまったという話を聞いた。その人はご主人の収入があったので一月くらいがまんが出来ると思って、同僚があまりに困っていたので渡してしまったらしい。 いくらいい人だといっても、自分の給料をそのまま渡せる人は少ないだろう。思いやりの心と同僚への同情心の厚い人だったのだろう。だがどういういきさつかはきかなかったが、この同僚がいなくなってしまったらしい。そして年月の経過でそのことをすっかり忘れていたようだ。 そんな日々を過ごしていたときに、かつて給料を借りた元同僚がはるばると訪ねてきたという話から、このことを僕は聞いた。そのお金を借りた元同僚は、その後事情があって土地を離れなければならなくなり、借りた金のことがいつも心に引っかかっていたという。そしてようやく返せる日が来て、訪ねてきたという。 彼女の信頼感が裏切られなかったというのに僕は感動した。本物の信頼は、こうして他者の心にも届いて、それに応えようとするものだと感じた。この感覚を実感として身につけるのはとても難しいだろう。でも、金よりも信頼感の方が人を幸せにするということは、一度経験すればその方が真実だと思えるようになる。 この章は金のことを語っているけれども、それよりも信頼の方が大事だということを語っているようにも見える。僕は教育に携わっているが、教育においても、能力よりも信頼関係の方が基礎的なものではないかと思っている。信頼できる相手からものを教わるというのは、能力に見合った効率的な教育よりも、深くて、より本物だと思えるものが学べるのではないかと思っている。僕は、この章から「信頼」というキーワードを学んだ。
第3章では安冨さんは愛について語っている。この章では、安冨さんの言葉の定義の巧みさに最も印象づけられた。安冨さんは、「名を正す」と言うことで、言葉を正しく使うことが真実への道であることを語ってもいるが、それをこの省では見事に実践している。愛という言葉の本当の意味を語ることで、愛という言葉の名を正している。 安冨さんは、愛を「自愛」と定義づけている。これとよく似たものに「自己愛」というものがある。両者の違いは、「執着」という言葉で語られる。「自己愛」は「執着」から発する。「自愛」には「執着」はない。むしろ執着を否定することによって自愛を獲得する。執着するのは、それが自分に足りないのを悪と感じて認められないからだ。自分をありのままに認めることが出来れば、執着を離れ、自分を本当に愛することが出来る。自分を大事にすることが出来る。 この自己愛とともに提出される概念が「自己嫌悪」だが、この定義に僕は最も深い共感を覚え、この定義なら「自己嫌悪」を脱することが出来ると思った。それは次のようなものだ。 「自己嫌悪とは、自分自身を自分自身としてそのまま受け入れることが出来ない状態です。そして、自分のあるべき姿を思い描き、自分がそれとズレていることに嫌悪感や罪悪感を抱くのです。 これはその人が勝手にやっていることではありません。自分とは異なる像を自分の像として、誰かに押しつけられていることから生じます。その上、押しつけられているという事実を自ら隠蔽するのです。こうやって押しつけられた像があるべき姿となり、それとズレた自分の姿を嫌うのが自己嫌悪です。」 僕は、自己嫌悪というものを青春期にかかるはしかのようなものだと思っていた。青年は誰でも理想像を持っているので、その理想像に対して現実の自分がとても追いつかないからそこに嫌悪を感じて誰でも自己嫌悪に陥るのだと思っていた。だから、成長し現実を正しくとらえ、大人になることで自己嫌悪から脱するのだと思っていた。 だが端から見ていると、どうしてもひどい性格の持ち主で、それを自分で自覚したら自己嫌悪に陥らずにはいられないような人がいるのにも気づいた。多くの場合、驚くことに、そのような人は自己嫌悪に陥るどころか、わがままのし放題で自分のひどさに対する自覚が全くない。 自己嫌悪に陥る人は、むしろ誠実で真面目な人が多く、そんなに自分の評価を低く見なくてもいいのにと思えるような人が多かった。自己嫌悪というのは理不尽なもので、このようなものを通過しなければならないというのは全く困ったものだと思っていた。 しかし、安冨さんの「自己嫌悪」の定義を見て、すべてが合理的に理解できた。世界の姿が、霧が晴れて明確に見えたという感じがした。自己嫌悪とは、理想像があって、それに比べて自分の姿を嫌悪するのではなく、誰かに洗脳的に押しつけられた像に対して自己を評価するのだ。だから、その像の通りに自分を作ってしまった者は、その像がとんでもなく醜いものであっても自己嫌悪を抱かなくてもすむのだ。 自己嫌悪に苦しんでいる人の方がむしろ誠実に見えるのは、その押しつけられた像の方が狂っているからだ。狂っている像と自分を重ねることが出来ないので自己嫌悪に苦しむのだ。そして、自己嫌悪に苦しまずに、狂った像と自分を重ねることに成功した人間が、むしろ現実社会で成功を勝ち取る。嫌なやつほど主流派にいるという現実の姿が妙に納得出来たりしてしまう。 狂った像を押しつける行為を安冨さんは「ハラスメント」という概念でも語っている。これも教育を考える上で大変役に立つ概念だ。すべての元凶は狂った象にあるのだが、これをあるべき姿だと勘違いすると、それに重ならない自分の本当の感覚の方が正しいのに、本当の感覚の方が苦しみを与えるようになる。そうすると、自分であり続けようとすると「不安」が大きくなっていくようになる。 この不安を埋め合わせるために執着が始まり、「自己愛」に包まれた人間になっていく。わがままで自己中心的で嫌なやつになっていくわけだ。これが「ハラスメント」という、他人の美点を切り取って自分のものにしようとする行為にもつながってくる。実に論理的にすっきりした展開だ。すべてのつながりが合理的に理解できる。気分がすっきりし、自分が自己嫌悪から解放されていくのを感じる。これが学習の喜びだ。 多くの人は、執着することが他者を愛していることと勘違いをしている。他者のことを思っているから執着していると感じるわけだ。恋い焦がれることが愛情だと思っている。それに対する次の安冨さんの指摘は全くその通りだと思う。 「執着から生じる異性に対する欲情の表現は、ストーカー行為かセクシャル・ハラスメントであって、それは愛情とはなんの関係もありません。ところが、往々にして、執着している本人ばかりか、その執着を向けられる人まで、あるいは周囲の人々までもが、それを愛情と誤認するのです。その執着の度が過ぎていたり、状況があまりにも不適切である場合にのみ、ストーカー行為やセクシャル・ハラスメントと見なされます。 しかし、ストーカー行為と愛情とは、全く相容れない、正反対のものです。執着に基づくものは、どんなに低レベルであっても、不埒で悪質で破壊的なものであって、ストーカー行為と同じことです。執着するということは、相手の持っている美点を狙うということですから、その人の人格全体には無関心です。」 自己嫌悪というのは、その元凶になるのは押しつけられた狂った像であるが、それは本人には自覚できていない。無意識の底に押し込んで「抑圧」しなければ生きていけない。だから自己嫌悪から脱するのは困難がある。この困難を克服するには、無意識の抵抗があろうとも、自分自身の生の声に耳を傾け、自分の感覚に素直になることだ。そう安冨さんは語っている。 この「抑圧」の説明は、僕は内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』で明快に理解することが出来た。そこで内田さんは、狂言の「ぶす」において、頭のいい太郎冠者が、無断で砂糖をなめてしまったことを隠蔽することが出来たのに、太郎冠者自身がずるがしこいウソつきだとみんなに思われているという認識だけが欠けていた、ということから「抑圧」という言葉を説明していた。 そのことを認めてしまうと、自分の存在を否定するに等しい事実であれば、無意識のうちにそれをないことにしてしまうと言う「抑圧」の心が働く。押しつけられた狂った像もそのような「抑圧」のメカニズムが働いている。そして、狂っているものこそが正しいと倒錯して理解していると、実にひどい性格の持ち主として成長してしまう。頭がいいのに、その理解だけは出来ないという不思議な存在になる。 この「抑圧」に逆らって自分の本当の感覚に従うのはとても難しい。だが、狂った像をそのまま認めるのではなく、「自己嫌悪」というきっかけでその像の狂いに気づくことが出来れば、この「抑圧」を抜け出る可能性も出てくる。「自己嫌悪」を自覚的に捉えることで、本当の感覚を大事にする道が開けるかもしれない。 最近読了した『検事失格』の著者の市川寛さんは、実はこの「自己嫌悪」から抜け出る過程で、自分の感覚を取り戻したのではないかと感じる。安冨さんの理論が正しいことを、市川さんの生き方が証明しているように僕には感じた。
安冨さんが第2章で語るのは友だちについてだ。それは1章で語った自立としての依存を実現するための友だちのことを語っている。自立のための依存には本当の友だちが必要だ。本当の友だちとはどういうものだろうか?それは偽物と比べることによって明らかにされる。 誰とでも友だちになると言うことの批判を安冨さんは語っている。誰とでも友だちになろうとすると、本物の友だちは逃げてしまい、偽物の友だちが自分を支配してこようとするのを防げないからだ。そう、偽物の友だちは、自分を支えて、助けが必要なときに支えてくれるような依存をさせてくれる友だちではないのだ。それは、自分の中から利用可能な資質を奪い取っていく、利益のために他者を利用しようとする人間だ。そのような人間を友だちだとは思ってはいけない。 誰とでも友だちになると言うのは、「みんな仲良しの教育」として宮台真司さんも批判的に語っていた。それは人殺しに通じる教育だと。これには共感しつつも、理屈ではよく分からないところがあった。どのような論理的なつながりで、「みんな仲良し」が「人殺し」につながっていくのだろうかと。 安冨さんの論理展開は、そこの所をすっきりと解決してくれた。誰とでも友だちになるという「みんな仲良しの教育」は、ハラスメントを仕掛けて支配してこようとする者とも友だちになることを勧める。そうするとそこにハラスメントの連鎖が起こり、それが「人殺し」につながってくるのだ。 安冨さんは、本当の友だちは、お互いを尊重して、お互いの本当の姿をそのまま認めてそこに美点を見出そうと努力すると指摘する。決して自分の都合のいい像を相手に押しつけて、相手が自分の思うように振る舞うことを要求したりしないという。 像を押しつける人間は、それがその人間の利益であるにもかかわらず、それを押しつける相手が自分の利益と考えるように仕向ける。そのような働きかけを安冨さんはハラスメントと呼んでいるのだが、偽物の友だちの間にはハラスメントが蔓延している。 偽物の友だちに支配されると自分自身を出すことが出来なくなり、主体性を失う。倒錯した感覚を持たなければ、その状態に耐えることが出来なくなる。そのため、人の不幸が自分の幸せのように思えたり、ハラスメントの犠牲者を作ることによって自分のハラスメント被害を埋めようとしたりする。これは精神的に人間を殺すことになり、直接の「人殺し」につながってくる。 安冨さんは、本物の友だちを友だちと呼ぶべきだと主張しているように見える。以前に読んだ橋下徹大阪市長の『どうして君は友だちがいないのか (14歳の世渡り術) 』という本では、本当の友達を作るのは無理だから、ちょっと親しい人間を友だちだと思えばいい、という主張が書かれていた。この本では、友だちがいないことに悩む必要はない、友だちなんてその程度のもので、時間がたって離れていれば忘れてしまう存在に過ぎないと言うことが語られていた。 宮台真司さんは、今の若者が言う親友というのが、我々のような高齢の世代にとってのいわゆる友だちで、親友と呼べるような友だち関係が今の若者には持てていないということを指摘していた。親友というのは、宮台さんによれば、心の奥底を話せる相手であり、絶対の信頼を置ける友だちのことだ。いわゆる友だちは、近くにいたという場の偶然性から親しくなった相手に過ぎない。 今の若者の心理には、相手からどう思われるかと言うことを心配するあまり、相手との関係性を保つために相手に配慮するという傾向があるらしい。その関係性を保ちたい相手を、今の若者は親友と呼ぶようだ。それは信頼を基礎にして、何でも話せるという間柄にいるのではなく、単に関係性を保ちたいために相手にいろいろな配慮と譲歩をする存在のようだ。これは確かに我々が考える親友ではない。 この友だち概念の違いは、安冨さんが語る「本当の友だち」を理解する上では大切だと思う。僕は、以前は宮台さんの分析に共感し、親友という概念が重要だと思っていた。しかし今では安冨さんが語る友だち概念の方に惹かれるものを感じる。親友と単なる友だちを区別してしまうと弊害が現れるような気がする。安冨さんが語る「破壊的構え」、つまり自分を支配し利用しようとする人間とも適当に付き合うような関係を持つ結果になりそうな気がする。 安冨さんは、友だちを創造的な構えを持つ人間と規定し、そうでない破壊的構えを持つ人間とは友だちにならず避けるようにしなければならないと語っている。創造的構えの人間は、互いの本質を理解し合い、互いを尊重し尊敬し合う関係になれる。しかし破壊的構えの人間は、相手を利用しようとしているのであり、自分の本当の価値を見失うように仕向けられる。このような相手とは友だちになってはいけないのだ。 誰とでも仲良くするわけではないが、嫌な相手とも適当に付き合うというのが、橋下さんや宮台さんの語っていた友だち概念のように感じる。橋下さんは、親友などほとんどいないと語り、宮台さんは親友を求めはするが、適当に付き合う人間もいると捉えているようだ。両者の考えの中には、そうしないと付き合う相手がいなくなり孤立するという考えが含まれているのではないか。 親友はなかなか見つからない。だが、これを創造的構えを持つ人間として、安冨さんが語るような友だちと考えると、自分が創造的構えを持つことによって、そのような相手が現れたときにそれを感じ取るセンスを身につけることに努力すると発想すればあまり孤立感を感じなくてすむ。自分が創造的構えを持つことが出来るなら、いつかはそういう相手と出会えると思えるからだ。自分に出来ることなら、それが出来る人間はたくさんいるに違いないと思える。 嫌な相手とは、適当に付き合ってもいけない。むしろ自分が創造的構えを持つように努力すべきだ。自分の感覚に正直になり、好きか嫌いかを自覚して決断をする。創造的構えを持つことが出来れば、破壊的構えの人間は自然に去っていく。残るのは創造的構えの人間だけだ。それが<本当の友だち>になると言うのが安冨さんが語る本質ではないだろうか。 本当の友だちというイメージで思い出すのは、重松清さんの小説『きみの友だち』だ。主人公の少女は、交通事故に遭って多くの「友だち」を失う。だがその大部分は、表面的に付き合っているだけの友だちだった。お互いが、相手の受け入れやすい自分の像を作って、友だちの前で演じるという形での「友だち」だった。 しかし多くの「友だち」を失うことで、少女は自分自身を素直に出すようになった。もう相手の感じ方を気にすることがなくなったからだ。どうせもう友だちはいないのだし。自分を素直に表現するようになって孤立するようになった少女に、そのままの姿を受け入れてくれる創造的構えの友だちが現れる。これは小説だから、と思う人もいるかもしれないが、構えが違ったために今まで気づかなかった友だちに気づいたと言うことでもある。これは小説が真理を捉えていると僕は感じた。 新しい友だちも、どちらかと言えば孤立している少女で、多くの子供たちに受け入れられているとは言い難い存在だった。しかしこれはある意味では当たり前で、破壊的構えの人間が多い中では、創造的構えの人間は孤立せざるを得ない。だが、創造的構えを自分で見つけた人間は、今まで見えなかった他の創造的構えの人間が見えてくる。それをこの重松清さんの小説は感じさせてくれる。 「親友」という存在は、どちらかというと感情的な思いが強く出るもので、直感しないとそういうものがつかめない。だが、安冨さんが語る「創造的構え」という概念は、この直感を理論として提出してくれている。直感に確信を与えてくれる理論だ。「創造的構え」こそが親友へとつながる道だ。これの実現を目指して日々努力することにしよう。
「自立とは依存のことだ」というのは、言葉の意味では逆説的で矛盾していることを言っているように感じる。反対の意味のように見えるからだ。しかし僕は、安冨さんの本を読む前から、何となくそのようなイメージを持っていたので、安冨さんの主張をすんなりと受け入れることが出来た。安冨さんの説明も極めて論理的ですっきりしているし。 自立が依存であるというのは、僕の尊敬する三浦つとむさんが、人間は他者の労働を受け入れなければ生きていくことが出来ない、ということを人間社会の原理として語っていたことからそのようなイメージを持っていた。人間は労働によってお互いを作り合う。マルクス主義の人間論として労働生産物を消費することによって人間そのものが生産されるという「生活の生産」について三浦さんは語っていた。他者の労働生産物を受け取らない限り生活は生産できず人間は生きていくことが出来ない。 自立と言うことが、他者に全く関係なく生きることではないというのは自明なことのようにも僕は思っていた。しかしそれを依存と捉えるのはなかなか難しいかもしれない。僕が働いていた肢体不自由児の養護学校では、他者の手を借りずに日常生活の細々したことが出来るようになることを「自立」と呼んでいたから。誰かの手を借りるのは依存であり、それは自立していないものとして考えられていた。 そのことを変だと思ったのは、当時千葉敦子さんという乳がんで亡くなった国際ジャーナリストの本を読んでいたときだった。千葉さんは四肢の麻痺がある箙田鶴子さんとの共著で『いのちの手紙』という本を書いていた。この中で、しばしば障害者が介助を受けることを論じていた。 それは何かを手伝ってもらうというのではなく、介助されることが生活の一部として組み込まれているのであって、依存というような誰かにもたれかかっている状態ではないと言うことが論じられていた。当たり前の前提として考えなければならないことだと。この頃は、まだ依存という言葉に悪いイメージがついていたので、依存ではないと言うことを語っていたように受け取っていたと思うが、実は依存というものがもたれかかるのではなく、信頼を基礎にした助け合いなのだと理解すると、千葉さんたちも、正しい依存について議論していたように感じる。 依存というものを、誰にも頼らずにすべて自分でやることだと考えると、実は大きな落とし穴があるのを指摘しているのが安冨さんのこの本の第一章のような気がする。三浦さんも語るように、人間が社会で生きていくというのは相互に依存し合うことを原理としている。それなのに誰にも依存しないで生きようとすると、どこかで自分をごまかさないとならない。 誰にも依存しない状態がいいもので、依存しないことが自立として推奨されると考えるとそうでないときに後ろめたいものを感じる。そのような後ろめたさが負い目になり、実は依存せざるを得ない人がいたときに、その依存が必要以上に重いものになり、単に寄りかかるのではなく支配されるという関係にまで進む恐れがある。他の誰にも依存できず、その人間だけに依存するという関係を築けば、その依存がなくなったときの恐怖と不安によって、その依存している相手の支配を受けずにはいられなくなる。この指摘は深い共感を感じるもので、しかも他の誰も明確な形では指摘してこなかったもののように感じた。安冨さんの視点と考察のすごさを感じるところだ。 依存というイメージを、手垢のついたものではなく新しい概念として捉えると、相手への信頼が基礎になった関係で、援助を得ることに対して負い目を感じることなく、自分が困ったときは助けてもらうし、相手が困ったときは逆にこちらが助けると言うことを、何の疚しさも計算もなく素直に出来ること、というように言い換えられる。これこそが正しい依存だ。 このように依存を新しいイメージで捉えると、依存する相手が増えるほど、自分の感覚に素直に行動できるようになり、自由を感じることが出来る。それが自立というものにつながるのではないか。自分を正直に出せるような人間こそが主体的に生きることが出来る。 「あんたは。私の言うことだけ聞いていればいいのよ」という言葉は、依存を寄りかかりのものにさせ自立を阻む。このような依存しかなければ人間は自立が出来ない。だが、このような支配を受けている人間は多い。僕がこの本を読ませたいと思った友人も、子供時代のトラウマによって、このような言葉に支配されているのではないかと言うことを感じさせる。この本によって真の依存と自立を発見して欲しいと思う。
岩上安身さんによる安冨歩さんへのインタビューは岩上さんのインタビュアーとしての素晴らしさが見事に出ているものだった。出だしこそ難しい話が語られていたが佳境に入った話では実にわかりやすく面白かった。分かりやすさを引き出したのは岩上さんの力だと思った。 その安冨さんの話で印象に残ったのは、肩書きが重すぎる人間が生の自分の魅力を認めてもらうのは極めて困難だというものだった。東大出の人間が、東大出という肩書きを超える魅力を身につけるのは大変なことであり、評価される事柄の一番に数えられるのが東大出と言うことになる。生の自分が評価されることがない。 生の自分への評価というのは、宮台真司さんが語る尊厳の確立に関係があるように思う。尊厳というのは、自分が自分であることへの誇りを持ち拠り所となるものだ。生の自分が評価できないと尊厳の確立が出来ない。自分に対する自信が基本的なところで持てなくなる。尊厳は、自分だけの思い込みではなく、誰か評価してくれるものがいないと確立できない。尊厳には承認というものが必要だ。そう宮台さんが語っていた。 生の自分というのは、河合隼雄さんのカウンセリング理論でも語られていた。子供の成長においては、丸ごとその存在を認めてくれる人が必要で、そのような存在がいないと子供の成長には何らかの障害が出てくる。子供が尊厳を確立できなくなるからだろう。丸ごと承認してくれる存在は、河合さんによればファンタジーにおいてよく語られるという。祖父母がその存在になることが多い。利害関係を持たず、孫であると言うことだけで愛してくれるものになるからだ。 人間というのは、良い資質を持っていればそれによって高く評価される。生のむき出しの自分が評価されるというのは少ない。しかし成長の過程においては、まだ資質が花開いていないのであるから、子供の時には生の自分のままで評価され愛されることが必要であるというのは頷ける指摘だ。この難しい課題を解決するのが家族の絆というものかもしれない。家族であると言うことが愛することの基本にあるなら、それは他の資質を必要とせず、生の自分を愛し受け入れることを可能にする。 夜間中学のドキュメンタリーを撮影した森康行監督は、夜間中学を訪れるとほっとするという感想を漏らしていた。そこは暖かく迎え入れてくれるところで、日常での様々なストレスがあっても何か癒されるものを感じると語っていた。それは生の自分のままでいても受け入れてくれる場だったからではないかと感じる。夜間中学にはそのような場としての力があった。 夜間中学に来る人たちは肩書きを何も持たず、社会の片隅でひっそりと生きてきた人たちだ。その人たちは自分の感覚に正直に他者を評価する。その基本は、夜間中学にいる人たちはみんないい人だというものだ。だからすべての人を受け入れるという素地を持っている。それが暖かみのある、自分が生のまま受け入れられているという感覚を作る。 夜間中学では普通の教員が、生徒から信頼される教員になる。不登校で他人に対する不信を持っていた人間が、仲間を信じ支えられることによって、自分も他者を支えることが出来る人間へと成長する。いずれも生の自分を受け入れられているという感覚がそのようなものをもたらしていると感じる。 それにしても生の自分を受け入れるというのは難しいものだと思う。それも評価されるような価値を何も持たない人間を受け入れるというのは大変だろうと思う。価値を持たないどころか、マイナスの価値を持っていると思われるような人間を受け入れるのはさらに難しいだろう。 最近購入した昔のアメリカのテレビドラマ「宇宙家族ロビンソン」を見ていると、この難しさを新たな視点で考えることが出来る。ロビンソン一家はいずれも勇敢で誠実で優秀なもの達ばかりだ。尊敬すべき資質を持っており、愛される資質を持っている。家族としてお互いを愛していることはもちろんのこと、その家族にふさわしい人間として自分が振る舞わなければならないという高潔な思いを持っている。 だがそこに登場するドクター・スミスという人物は、これ以上マイナスの資質がないと思われるくらいにひどい資質を持っている。ウソつきで利己的で、他人のことを全く考えずに、自分のことしか考えない人間なのに何の反省もない。これ以上ひどい人間はない。全く愛される資質を持っていない。 ところがロビンソン一家は、このドクター・スミスをありのままに受け入れ、特に末っ子のウィルはドクター・スミスに愛情さえも感じている。そのままでドクター・スミスを受け入れている。この感情はどのような資質から育まれているのだろうか。 この物語は昔のSFなので、登場人物は科学の先端を行くもの達だが、彼らの生活はキリスト教の習慣に満ちているようにも見える。祈りの場面がしばしば入る。神への信仰というものがこの他者の受け入れの基礎にあるのかもしれない。 生の自分を受け入れるというのは、理屈では出来ないようにも感じる。家族への思いは、たとえば自分の子供を愛する気持ちというのは、単にそれが自分の子供だからと言うこと以外の理由は見つからない。たまたま自分の子供であるだけなのだが、それは他の誰よりも愛おしく感じる。もし家族でないものも、そのように生のまま受け入れるとすると、その基本に宗教的な信念がなければ出来ないかもしれない。 夜間中学にもいろいろな生徒がやってくる。中には理屈においてはとても愛することが出来ないような人もいるかもしれない。しかし、一度夜間中学に来たという関係を持ったから、生徒として敬愛するという基礎があれば接し方が違ってくる。だが、その反対に、夜間中学にふさわしい生徒像というものを持っている教員は、その生徒像に合わない生徒がやってくると、その資質において生徒として敬愛することが出来なくなる。このあたりに、生の自分を受け入れることの秘密が隠されているかもしれない。 |一覧| |
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