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大阪教会初代白神先生は、目が見えるおかげを頂いた感激をもって、世の難儀な人を救いたい、神様に恩返しがしたい、と大阪で布教を始められました。
しかし、激しいお勤め、修行により、命を縮められました。 白神先生が、病床に伏し、代参をたてられた時、教祖様は、 「白神は、時節を待たず、みだりに心を煩わすな、と言い聞かせておいたのに、世を憂えるあまり、自ら心を痛めて、かくはなったのである。 今となっては、どうしようもない。 しかし、世のため、人のために、身を犠牲にしたのであるから、生きても神、死にても神。 皆、死ぬのを嘆くけれども、月でも見よ、雲が隠すことがある。 この二十日になっても良くなければ、二十四日が安心のできる(亡くなる)日じゃ」と語りました。 白神先生は、我が身を省みて、無理をしたら健康を害するから、無理をしないようにしよう、とは思われなかったのです。 そこまで、人のためを思い、神様のお役に立ちたいと思われていたのです。 逆に言えば、そこまで思われたからこそ、神になられたのです。 人のことを思わず、自分のことばかり考えて、神になれることはありません。 人の助かりを願う、神様に少しでも恩返しがしたい、その思いが、人間の一番尊い思いであり、神心なのです。 その心になれたとき、その人は、神でもあるのです。
この世の道理を説く神は、人を救うのが目的の神ではありません。万物が成り立っていく筋道を示すのが道理に適う信心です。
道理を説かないので、生きる訳が分からずに難義に成ります。その責任は救済的な宗教を説く宗教論者にある。 人間の世界は、健康な人が多く生きている方が正しき姿です。難儀な人が少ない方が良い。 誰が考えても分かる話です。 その道理に適う信心を信じて、自己を確立して自分の人生哲学を書き上げる事が出来ました。 信心とは生きる事なんだ。 難義を救われて心身の健康のお陰を頂いて生きられるように成れば、御取次はお礼参りに成ります。 難義であれば、神様に心配をかけます。 健康に成れば神様が喜んでくださいます。 そう言う事で私は先生の信心には違和感を覚え、押し付けのコメントになり、ご迷惑をおかけしますが、道理に適う金光教の素晴らしい教えを書きたいのです。m(__)m(2010.12.11 19:14:39) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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