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人間が経験しているものはすべて永遠の命である
人間には、生きているという面と、生かされているという面と、両方あるのです。生かされているという面に目をつけると、そこには神の恵みが必ずあるのです。喉が乾いた時にジュースを飲むと、とてもおいしいと思う。なぜおいしいと思うのでしょうか。これが、神に生かされていることであって、聖書はこれをインマヌエル(マタイによる福音書1・警と言っています。人間的に有難いというだけではいけない。インマヌエル(神共にいます)として受け取らなければいけないのです。 人間は生かされているという面に目を向けないで、生きている方面ばかりに目を向けています。生きている面に目をつけている人は、毎日、文句、愚痴、苦情、小言ばかりを言っているのです。自分が生きているのですから、神に生かされていないのです。だから、気にいらないことばかりに、目を向けているのです。 人間は、生きている方に目を向けるか、生かされている方に目をつけるかで、勝負が決まるのです。 本当のことが分からない原因は、生きている方ばかりに目をつけているからです。ジュースを飲んで有難いと思う。自分が有難いと思っている。生かされている方に目を向けないで、自分の恵みの方に目を向けようと努力する。これが宗教観念で、危ないのです。 自分がしているのではだめです。努力するのは宗教観念であって、苦しいのです。努力は掟的な感覚であって、新約の時代(キリスト以後の時代)は、パウロが言うように、常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝できる時代です。これができないといけないのです。 自分がいなければ、余裕綽綽としてこれができるのです。勝ちえて余りありとパウロは言っていますが、そうなれるのです。 自分の方ばかり見ているからいけないのです。損とか得とか、暑いとか寒いとか、苦しいとか、辛いことばかりに目を向けている。これをやめてしまうことができれば、人間が変わってしまうのです。 聖書の勉強は真剣勝負です。合口を抜いて突きあうよう格好で、勉強しなければいけないのです。真剣を抜きあって、切るか切られるかの、果たし眼の気持ちがいるのです。これができないのは、異邦人だからです。 自分の方を見ていても仕方がない。自分の気持ちを覗いてみても仕方がないのです。自分の気持ちを見ている人は、神の怒りの日に、神の怒りを積んでいることになるのです。それを聖書ははっきり書いているのです。 「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔い改めない心のゆえに、あなたは、神の正しい裁きの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである」(ローマ人への手紙2・4、5)。 自分が生きていると思っている人は、無意識にこれをしているのです。なぜこうなるのかと言いますと、人間に理性と良心があるからです。理性と良心は、善悪利害を考えないわけにはいかないのです。 理性的に生きていますと、無意識に善悪利害を考えます。その場合、肉体的に生きていると信じている人は、すべて肉の立場から考えてしまうのです。そうすると、辛いこと、悲しいこと、いやなことがクローズアップされるに決まっているのです。 いやなこと、辛いことが、その人の記憶に残っていきます。これは当たり前です。肉があると思っていると、いやなことはいやだと思います。いやなこと、辛いことが、その記憶に残っていきますが、これがそのまま地獄の火を積むことになるのです。神の怒りの日のために、神の怒りを自分の心の中に積んでいくのです。肉体的に生きている人は、必ずそうなるのです。誤魔化してもだめです。肉の人間が生きていると信じている人は、その人の理性と良心が、辛いこと悲しいことだけを考え、それが記憶になっていくのです。 自分自身に被害妄想のような気持ちがあるために、現世の記憶がほとんど苦いこと、苦しいこと、悩みと悲しみばかりの記憶になってしまうのです。よいことを考えようと思っていますけれど、ほとんどよい記憶がないのです。 霊において喜ぶということは、肉の人間にはありません。喜ぶのも悲しむのも、両方共肉の記憶だけです。 肉の記憶で喜んでいる場合は、ああおいしかったとか、今日は楽だったとか、儲かったと喜びはしますが、それは自分という人間の喜びです。神の喜びにはならないのです。 神を喜ぶという癖がついていない。これが地獄の怒りを積むことになるのです。喉が乾いた時に水を飲むと、癒された気持ちになります。なぜでしょうか。なぜうれしいのでしょうか。 実は、一杯の水を飲むということは、それがとこしえの命だから有難いのです。水があることが永遠の生命があることなのです。水を飲んでもその意味が分からない人は、神に対して栄光を帰していないことになるのです。 水を飲ましてもらって有難いといいますが、とこしえの命を経験してもらって、有 り難いとは思わないのです。 実は、私たちが当たり前だと思っていることは、全部とこしえの命です。砂糖が甘いのも、塩が辛いのも、夏が暑いのも、雨が降るのも、全部永遠の命の現れなのです。 これが分からないと、本当の信仰にならないのです。イエスはそれを知っていました。イエスはいつも父の中にいたのです。父の中にいると、すること為すことがすべて、見ることも食べることも、歩いても走っても、寝ても起きても、すべてとこしえの命を味わっているのです。朝から晩まで、毎日、毎日、永遠の命を経験しているのです。これがイエスの信仰です。 自分の感覚で聖書を見てはいけない。聖書に見られるのです。神に見られるのです。人が聖書の中に融けてしまうのです。 ユダヤ人の悪いところは、いつも自分を主張することです。自分を神より偉いものと考えるのです。ヤコブがヤボクの渡しで天使と相撲をとったが、ヤコブに勝てなかったので、もものつがいをはずしたという事件があるのです(創世記32・22~28)。キリスト教ではこれを大変誉めていますが、これは大間違いです。これはヤコブの大失敗です。 イスラエルは神に勝ったという名前です。人間はこれをするのです。神に勝つのをやめて、神に負けるのです。自分の霊を神に渡すのです。一切わがままを言ってはいけないのです。 生きているのは固有名詞ではありません。生理機能、心理機能が働いている客観的存在がいるのです。これが生かされている面です。自分が生きているという面をやめて、生かされているという面を見ればいいのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年06月22日 04時45分54秒
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