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カテゴリ:山大新聞会
私は初めての記事を書いた。
私の大学では1960年の5月から6月にかけて、学生や教授たちは何をしてどのような思いであったのか、説明ではなく、事実でもって表現しなくてはならない。 つまり、インタビューの内容でそれをすべて表現しなくてはならない。 私は何度も書き直しを命じられたはずだ。 しかしすでにインタビューは終わっている。 新入生に再インタビューの申し込みは酷だと先輩は判断したのであろう、文章的な誤りは直しが何回も出たが、文化部のOKは出た。しかし、編集会議でのOKが必要である。 編集長K氏や次期編集長H氏はやはり根本的なところを突いてきた。 「安保とはどういうものかなのか、これでは分からない」 K氏は三回生経済学部の先輩。実に温厚な人だった。少しのミスにはこだわらない、親分型の人で、どれくらい助けられたか分らない。H氏は同じ人文学部でやがて研究室まで一緒になる二回生だった。非常に鋭い人で、この人だけが卒業後記者になった。 「安保がどういうものかわからない」書いている本人が分かっていないのだから当然といえば当然であろう。しかし、それを地の文で説明しようとすると、半分くらい説明だけの記事になることを先輩たちは分かったのであろう、私は本来聞くべきだったそのあたりのことは何一つ取材ノートに書き留めていなかった。一言二言の直しが入って、 結局、強行採決をした政府に対し、「このままでは日本の民主主義がだめになる」という危機感で、安保反対のデモの波が広がった、 というような「歴史発掘」になったのである。 私はそれはそれで大切な事実だと今でも思っている。 しかし「本質」はそれだけではなかったろう。 安保自体が持つ危険性に対して、戦後初めてそして最大の民衆エネルギーが対峙した、それは歴史的な瞬間だったのではある。 事実でもって本質を描く、それは 取材しているときにすでに本質を掴んでいなければ、描き得ないものなのである。 私は闇雲に突っ込んで「本質」の端を少しかすっただけなのである。 この場合、「支配する側」に立つのか、 「支配される側」に立つのか、 それが問われていたある意味「分かりやすい例」であった。 もちろん記事の内容は支配される側に立たなくてはならない。 そういう広い観点で現代史を見なくてはならない、新入生には「難しい例」ではあったが、自分はこっちの側に立つのだと「選択」すれば、後は学習すれば書く事のできる記事ではあった。しかしその「選択」は学習によってなされるのではない。決意、によってなされるのである。 ちなみに記事の第二段はがらりと変わって吉田キャンパスのグランド隅になぜか建っている山口大学埋蔵文化財センターの取材になった。山口大学は遺跡の上に大学移転したのである。今の私が取材したならば、大好きな考古学のこと、非常に充実した記事になっただろうが、このころの私は何の関心も無かった。たんに「キャンパスは遺跡の上に建っている」ということを伝えただけの記事になった。これぞ「歴史発掘」だとO先輩は慰めてくれた。 以下次号。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年09月28日 22時36分03秒
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