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つれづれの日々 [全473件]
![]() 春日神社から歩いて数分の若宮神社に着く。 ここは鹿児島五社の第四社として信仰されている。 上町一帯は、島津氏が居城とした東福寺城、清水城、内城時代の城下町として市内では古くから開けた所である。そのため鹿児島五社の諏訪神社(南方神社)、稲荷神社、祇園神社(八坂神社)、若宮神社、春日神社には歴代の島津氏が家督をついではじめて鹿児島に帰った時、必ず参詣した。(鹿児島県教育委員会、歴史の道調査報告書 第二集 「大口筋、加久藤筋、日向筋) 余談だがこの日私は鹿児島五社を全部歩いてまわった。 応神天皇、仁徳天皇、神功皇后を祀り、島津の始祖・忠久が鎌倉八幡宮を勧請したとものというが、暦応年間(14世紀前葉)の創祀とも、島津氏が延文元年(1356年)に内城の鎮護神として大隅正八幡宮を観請したのに創まるともいう。平成10年(1998年)境内を発掘したところ、縄文時代後期の遺跡が発見された。(フリー百科事典・ウィキペデイア) ![]() ここの境内にも祠や石像などが数多くあったが、この祠の像は大黒像なのか、あるいは道祖神なのか、面白い像なので写してきた。いろいろ調べてみたい。 ![]() 入り口の左右に狛犬が鎮座されていた。 若宮神社の右隣には若宮公園があった。ここも子供の頃よく遊んだ場所だったが、当時のおもかげを残さないほどきれいに整備されていた。周囲も様変わりである。 ![]() ![]() この橋は案内板の説明通り現在の清水中学校の前に架けられていた「大乗院橋」を1/2にしてここに移設されたものである。もともと清水中学校になるまでに、清水城から大乗院になったという経過をたどっている。水害で流された後には下の写真のような新しい大乗院橋が架けられている。 ![]() 橋の向こう側に清水中学校が見える。私は中学3年生の一年間旧い大乗院橋を渡って通学したものだった。 その中学校前にある「島津氏の祈願所 大乗院」の案内板である。 ![]() (上町歴史散歩 その三に続く)
鹿児島市の上町は新幹線の終着駅である鹿児島中央駅からは数キロ北の方向にある。上町と言っても町名があるわけでもなく、昔本駅といわれた鹿児島駅の一帯を上町と言っているのだ。その上町には、薩摩の、また島津家の歴史を今に伝える史跡などがたくさん残っている。 その上町にこの春は何回か通ったが、まだまだ行きつくしていない。回れば回るほどその奥深さに圧倒されて、回り尽くすことが出来ないでいる。 そういうことで、少しづつ書いていきたいと思う。 小さくて見難いが、大龍小学校ちかくにあった周辺史跡案内図である。 ![]() 鹿児島駅か歩いて15分くらいで、大龍小学校に着く。ここは島津家15代当主・島津貴久が築いた内城であったが、18代家久の時、鶴丸城(鹿児島城)が築かれは廃城となる。後に文之和尚を以って瑞雲山大龍寺が築かれた。 ![]() ![]() ![]() その大龍寺跡の大龍小学校を挟む形で西隣にはあの「篤姫」が生まれた「今和泉島津家屋敷跡」があり、東隣には「重富島津家屋敷跡」がある。この屋敷跡の東端に年代は比較的新しいと思われる武家門があった。この二つの本屋敷跡は、島津御一門四家(垂水・加治木・今和泉・重富)のうちの二つである。 ![]() ![]() ![]() ただこの二つの屋敷跡は現在は公的な建物や個人の居宅として使われているが、残された石垣はそのままで、昔の武家屋敷の佇まいをのこしている。鹿児島県内の地方には麓跡がたくさん残されていて立派な石垣や生垣や武家門を見ることが出来るが、旧鹿児島市内では、私の知る限り常盤の常盤谷仮屋(島津綱貴の別邸)跡の周辺に小規模ながら残されている石垣や生垣とここしかない。 そこを少し東へ歩き左に曲がると春日神社がある。 ![]() 同じ境内にある地神と石仏(この近辺にあったものを諸事情で境内に移したものと思われる) ![]() この近辺は私にとって懐かしい場所の一つである。 それは私がすぐ近くの清水町の住人だった時代があるからだ。中学2年生だった昭和28年から社会人になって北九州に出て行く昭和37年春までの10年間である。中学2年の秋だったが、それまで住んでいた武町から清水町に引越してきた。学年の途中だったので、3年生になってから清水中学校に転校することにして約半年それまでの武中学校に電車通学をすることにしたのである。当時は春日町電停が終点だった。結局中学2年の半年間と大学の4年間(最後の一年間は清水町まで延長された)朝晩この春日町の電停で乗り降りしたのだったが、赤い建物の春日神社も当時の私にとっては一つの風景に過ぎなかった。 そういう場所を歴史的な観点から見てみようとこの歳になって思いついた私も物好きだが、改めて見てみると結構面白いから不思議だ。 この境内には「薩摩水軍軍港跡」という石碑もあった。 ![]() 説明文によると、戦国時代の港とあり、関が原の戦いに敗れ北進の望みを断たれた島津氏はここから船100余艘、兵3000人の大部隊で琉球を攻め、対明貿易の権益を奪った。 当時は薩摩水軍の軍港であったが、埋め立てられて平地になったとある。 春日神社の道路を隔てて前には初代文部大臣「森有礼誕生地」の石碑と説明文がある。 ![]() ![]() こうしてわずか距離にして200~300mだけの説明に終わったが、また機会をみて続きを書きたいと思う。
昨日5月20日は3年前 会社生活を卒業した日であった。 そしていよいよ今日から4年目に入った。 何も特別なことでもないが、ただこの3年間元気に過ごせたことが何よりも嬉しいことだ。 そういうなかで、先日テレビで藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」第○話の再放送を見た。 そこで思い出したのが数年前に初めて読んだその小説に大きな感銘を受けて、一つのエッセイを書いたことを思い出した。その頃の私が退職後のことを思う心情を書いて、先輩の主宰する文芸誌“ゆーとぴあ”に出稿したものだが、退職3年を経た今、ここに再録してみたい。 ![]() 「三屋清左衛門残日録」のお話 (2007年4月記) 藤沢周平に興味を持ったのは、いつの頃だったろうか。 その動機も時期も全然思い出せない。これも齢(よわい)67を数えるせいか。私も「清左衛門」同様、ぼつぼつ残日録を書かねばならないのかと思ったりもする。大好きなテレビを見ながらタレントの名前が出てこない。妻ともども頭の中では解っていることにしてしまう。 ただ手許にあるこの本の後付を見ると「1997年2月15日 第12刷」とある。しかもまだ私が現在よく利用する「BOOK・・」で買ったものではなく、定価で買ったものらしい。 しかし、買ってすぐに読んだ記憶はなくお得意の“積ん読”の中の一冊だったのだろう。それを何かのきっかけで2年くらい前に取り出して読み、この一冊で一気に藤沢周平ファンになってしまった。その後、藤沢作品を読み漁るキッカケをつくってくれた一冊である。その後「BOOK・・」に行く度に買ってきたので数十冊は読んだと思う。 主人公は52歳で引退しているが、当時の私は65歳、諸情勢からぼつぼつ引退を考え始めていた頃である。主人公 清左衛門は「用人」まで上り詰めて52歳で息子に家督を相続し、藩主の温情により離れの隠居部屋まで与えられる。そして思い描いていた悠々自適の生活をおくろうと考えた。それは「城下周辺の土地を心ゆくまで散策する」ことであり、「たまには浅い丘に入って鳥を刺したり、小川で魚を釣ったりする」ことであったりでそれを考えると「清左衛門の胸は小さくときめいた」ほどである。 時代こそちがえ私にもその心情は十分に理解できるものであり、なにかその夢を現代から見ると、ほのぼのと感じむしろ羨ましくさえあった。 ところが、隠居した清左衛門を襲って来たのは、「そういう開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情だった」のである。 隠居することを、清左衛門は世の中から一歩退くだけだと軽く考えていたが、実際には、それまでの生き方、もっといえば暮らしと習慣のすべてを変えることだったことに気づき驚くのである。 そんなある日、息子の嫁が隠居部屋を訪れ、「残日録」という日記に気づき「でも残日録とはいかがでしょうね」「いま少しおにぎやかなお名前でもよかったのでは、と思いますが」それに対して清左衛門は「なに、心配ない」「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意味でな。残る日を数えようというわけではない」と答えている。なんとも心憎い言葉ではないか。その後は藩から隠居はしたものの信頼のおける人柄を買われ次々と難題の解決を頼まれてその信頼にこたえていく。一読を勧めたい本である。私もその後2年間も仕事が続いているが、いずれ完全引退の日がくる。 だがそのときに臨む覚悟とその後の生活設計は出来ていない。 私には現代からみても「三屋清左衛門」の生き方は一つの理想的な指標のように思われる。 (完) いま再録してみると、自分の5年前の心情を映しているが、その後更に2年間仕事を続けることが出来て結局69才と5ヶ月で完全リタイヤした。 引退後の3年間も十分ではないが、自分なりの生き方が出来たと思うしリタイヤ前に心配したことは、いまのところ杞憂に終わっている。 まあ、これからも肩の力をぬいてぼつぼついきましょうか。
5年ぶりの歯医者通いで、毎日のように可愛がってもらっているが、一本は差し歯完了。 火曜日に2本目、3本目が出来上がる予定で主な治療は終わるようだが、先生曰く「まだ穴のあいた歯がいくつかあるので、この際治療しましょう」「そうしないと歯が折れますよ」とのこと。もうこうなれば、開き直って徹底治療をお願いすることにした。 そういうなかで、7月15日の第八回定期演奏会に向けての強化練習がこの19(土)20(日)の2日間行われた。 19日は午後1時からH指揮者の指導で第2ステージの「思い出の男声合唱組曲から」の4曲と、S指揮者指導で第4ステージ「我が青春の思い出」からの5曲を練習した。 16時40分からは、年一回の総会が開かれて、23年度事業報告と会計報告、24年度事業計画などの発表や討議がなされた。 この総会には、例年東京支部や関西、福岡、長崎、熊本、宮崎の各支部の支部長も参加するのだが、今年は強化練習ということもあり、福岡や熊本からは数人づつの参加があり、60人を越える総会になった。終わって18時より定期演奏会の成功を祈念して、近くの中華料理屋で「決起集会」が開かれた。同時に今年還暦を迎えるメンバーを祝う会でもあり、今年は5人。じいさんたちが、花束をもらって嬉しそうだった。宴も終わりに近づくと歴代の指揮者が次々と立って、指揮をする演奏が始まる。そして最後にいつもの「あつい涙」を肩を組んで歌ってお開きとなる。 そして今日9時から12時30分までの練習。今日はT指揮者の指導で第1ステージの「ドイツ・オーストラリアの歌」5曲と今回の目玉「鹿児島民謡からオリジナル」5曲の練習。 私たトップ・テノールは疲れてしまって最後は高い音が出なくなってしまった。 このあと、6月3日は鹿児島県の“合唱祭”があり、一団体6分以内の演奏のため、やっと2曲のステージになる。 これまでの7回の定期演奏会には100人を越えるメンバーがステージに立っているので、7月15日もそれくらいの人数が全国から集まってくるものと思われる。そして、九州では珍しい100人を越える男声合唱がまた実現しそうだ。 それを楽しみに練習に励みたい。
![]() 我が家の雑草園がこのところ賑やかになってきた。 季節は正直なもので、放っておいても、そこそこの花をもたらしてくれる。 自然に感謝! ![]() ![]() この2枚の写真は玄関まわりの花々である。 ![]() 前から気になっていた歯の治療にこのところ通い始めたのだが、予想通り? 抜かれたり、削られたりヒーヒー言っている毎日だ。医者から「5年ぶりですね」と言われたくらいだから本当にもっと早くに行っていればと思うことしきりである。 歴史散歩の写真もだいぶ溜まってきたのだが、なかなか文章を書く気になれずにいる。 でも少しづつ落ち着いてきたので、ぼつぼつ書いていきたい。
![]() 4月30日、蒲生からの帰り道、平松城跡、重富麓を訪ねた。 御仮屋跡は平松城跡の重富小学校になっているが、校庭が本丸だっという。写真に写った現在の校門は県庁舎が鹿児島市の公民館地にあったころの県庁門で払い下げを受けて移設されたものだという。(姶良町郷土誌) 平松城跡の歴史は下の写真の通りであるが、天文23(1554)年島津15代当主・貴久が帖佐渋谷氏を討ち島津義弘を岩剣城に移した。岩剣城は山上が険しかったので、平松城を築き平常はここに居住した。更に慶長5(1600)年、関が原戦後しばらくここに住み、又慶長11(1611)年にもここに住み、翌年加治木に移った。(姶良町郷土誌) ![]() この城は周囲690m、石垣2.5m野面積の石垣である。 ![]() 平松城が出来る前にあった岩剣城は重富小学校の右後方の標高210mの岩剣山頂にあった。麓には岩剣神社がある。 下の写真は岩剣城のあった岩剣山である。 ![]() 岩剣城は祁答院良重が建設したと伝えられるが、築城時期の詳細は不明である。天文年間、祁答院良重は菱刈隆秋、蒲生範清と組んで島津貴久に反旗を翻した。天文23年菱刈・蒲生連合軍が島津側の武将・肝属兼重の居城である加治木城を攻め、貴久は加冶木城を救援するため祁答院良重の住む岩剣城を息子の義久・義弘(当時忠平)・歳久に攻めさせる。そして落城する。(フリー百科事典・ウィキ・ぺディア) この時期の戦いは15代当主島津貴久から16代島津義久が三州(薩摩・大隅・日向)平定の足がかりを作った大きな転換となったものと思う。 麓には麓馬場や武家門がきれいな形で残されている。 ![]() ![]() 最後の写真は重富小学校の校門手前の道路手前にあったこの辺一帯の案内板である。 ![]() この写真では読み取ることは出来ないが、次のことが書いてある。 “重富郷の歴史” 重富郷は再建された越前島津家の領地として帖佐郷の脇元村、平松村、船津村、春花村、触田村(吉田郷内)の五カ村をまとめて元文(1739)年創設されました。重富という郷名は越前島津家ゆかりの越前国重富の地名に因んだとされています。 “越前(重富)島津家の由来” 越前島津家は島津家初代忠久の二男・忠綱を元祖とし、戦国時代の15代忠長の時に朝日山の合戦で敗れ途絶えていました。 約200年後の藩主継豊の弟・忠紀が16代として越前島津家を再興しました。 その他、“外城(とじょう)制度(郷士制度)”の解説や近辺の史跡「平松城跡」「岩剣城跡」「越前(重富)島津家墓地」「招魂石」「脇元浦」「御石山」「帖佐八幡神社の大銀杏」古帖佐焼宇土窯跡」「島津義弘居城館跡石垣」「天福寺跡磨崖仏」「米山薬師」「宮田ヶ岡瓦窯跡」の解説が書いてある。 この日は他の用事もあり、平松城跡と麓を散策しただけで終わってしまった。 いづれゆっくり時間をかけてまわってみたい。
![]() 霧島錦江湾国立公園の表示看板がある鹿児島県姶良市の重富公園に30年ぶりくらいにに行った。家族全部で徳山を引き揚げて鹿児島に帰ってきたのが昭和56年(1981年)のことだったが、その後すぐ今は亡き叔父など親戚10数人で重富海岸に行って以来である。 ここの風景は変わることはなく、松林もそのままでほっとさせられる。 鹿児島市からいつも眺めている桜島を、横から眺めてなにか桜島も新鮮に見える。 連休で気候もいいので、釣りを楽しむ家族連れも多く出店も出て賑わっていた。 ![]() 昼は蒲生に足を伸ばし、健康の駅「ファンタナの丘かもう」に行く。 温泉・宿泊・物産館・レストランを備えた新しい施設で駐車場も広い。ここの写真は撮りそこなった。食べることに一生懸命だった?せいか。反省! 昼食のあと、午後4時からのおじさんコーラスの練習のため、3時までには一回自宅に帰らなければならないので、もうその時点で1時間くらいの余裕しかない。 そこで、帰り道にある“重富麓”だけに寄ることにして、ファンタナの丘かもうをあとにする。重富麓については後日の記事にしたい。 帰りに国道10号線を走っていると突然(といっても今年はもう400数十回の爆発をしている)桜島が爆発した。デジカメを助手席に渡して写してもらった。 ![]() しばらく走って竜ヶ水あたりに差しかかると、このように流れて錦江湾上に流れてきた。この日は最終的に鹿児島市の吉野台地方面に流れた(降灰がある)のかな。 ![]() 桜島を久しぶりにいつもと違う角度から眺めて、しかも噴火まで見るという一日になってしまったが、時間制限で行動が制約されたのが、悔やまれる。 しかし、あれもこれも全てパーフェクトの楽しみたいとするのが無理な話だろう。 |一覧|Recommend Item
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