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夢戦士アキランのドリーム戦記 [全60件]
うっかりしてたことがあった・・・『うっかり』は私の真骨頂とも言えるべき性質であり、その偉大なる愛すべき性質は世間一般では決して褒められることはないだろうけれども、すでに自他ともに認めざるを得ないところまで来ていると思われる(笑)。 今回私はうっかり忘れていたことがあった。 それは努力することで得られる価値は、本当に計り知れないものであるということだ。 それは目標が達成できたとか、できなかったとか、成功したとか、失敗したとか、そんなものじゃない。 努力することで得られる恩恵は数知れないけれども、その最大の恩恵は努力そのものが自己を好きなように創造する過程である、ということであろう。 人はふさわしいものだけを手に入れることができる。 ふさわしくないものは一時的には手に入れたように見えたとしても、それはいずれ失ってしまうものなのだ。 今回、私はふさわしくなかったのだ。 だから求める結果を手に入れることができなかったのだと思う。 知恵もあった、勇気もあった、実力もあった(と思う 笑)。 それでも求める結果を手に入れることができなかったのは、きっと私にそれはふさわしくなかったのだ。 そして今回はこの苦しい経験こそが、私が求める自分になるために必要なことだったのだ。 勝利ではなく敗北、栄光ではなく挫折、たとえ最善を尽くした結果手に入れたものがそれだけだとしても、私は努力したことを決してムダだとは思わない。 きっと努力した分だけ、私は成長したはずだ。 悲しみや苦しみを受け入れた分だけ、私は強くなったはずだ。 努力が実らないからといって、そのすべてが無駄になるようなそんな情けない努力はしてないはずだ! それはいつかきっとやさしさと強さに・・・そして愛になる! その日まで私は絶対にあきらめない!
これほど努力したのに失敗することがあるのか? 今回、私は自分の身にふりかかった出来事が信じられなかった・・・。 たしかに敗色は濃厚だった。 でもだからこそ、私は足りない部分を補うため、努力を惜しまずしっかりと準備を整えた。 事実のみに焦点を当て、検証に次ぐ検証を気が遠くなるほど繰り返し、足りない部分を補って勝利への方程式を築き上げたのだ。 そして私には100%完全なものではないにしろ、いままで築き上げてきた愛も、勇気も、正義感も、誠意も、おもいやりも、物事に対するバランス感覚もあったと信じている。 特に勇気。 事態を打開するのは恐怖を乗り越える強い意志だ。 私は元々はとても臆病な人間なので、いつものことながらそこの部分では相当な勇気を要する。 でもそれでも私が小さな勇気を精一杯振り絞るのは、傷つくことよりも怖いことがあるからだ。 それは傷つくことを恐れて始めから何もしなくなってしまうこと。 それこそ私たちがもっとも恐れないといけないことだ、そう思うのだ。 そしてその結果、最善の結果を実現してきたという自信もある。 だが、今回私は最善を尽くし、そして敗れた・・・。 すべてが終わった後で、敗因は私が自覚してない部分にあったことが判明した。 自覚してない・・・それは相当にやっかいな問題だった。 すべての努力はその一点のために無に帰した。 私は絶望と恐怖と不安の中でその事実を受け入れなければならなかった。 惨めだった・・・本当に惨めだった。 いままで積み上げてきたそのすべてが通じなかったのだ。 これほど惨めなことがあるだろうか? どう対応すればよいのかわからなくなった私はなす術もなく敗北した。 だが、そのときに思ったことがある。 「世の中には失敗しなければ分からないことがある!」 そう思った。 負け犬の遠吠えと言う言葉があり、もしかしたらこの言葉はそれに相当するのかも知れない。 だけど、私は失敗したからこそ、気付いたことや理解できたことがたくさんあったのだ。 ひとつ言えることはおもいやりが足らなかったことだ。 相手が訴えていたことがあったのだが、私自身にその自覚がなかったため、その概念を理解できず、その部分が欠落して失敗へとつながってしまったのだ。 もっと相手の話に耳を傾けていたら、もしかしたら今回の件は回避できたのかも知れなかった。 しかし、私は当事者の一人としてそれができなかった。 そう思うと自(みずか)らの思いやりの無さに心が痛んだ・・・。 愚かな私は失敗してようやく気が付くことができた。 気が付くのが遅すぎたのだ。 しかし、だからと言って気が付くことができなかったことに比べるとはるかにマシだと私は思う。 成功とは過程である。 幸せもまたそうである、と私は思うのだ。 今回の教訓が・・・いや、悲しみも苦しみもいつかきっとそのすべてがやさしさに変わる日が来る。 私はそう信じている。
タイトルの「なぜならそれが正しいことだからだ!」はプリズン・ブレイクに出てきたセリフなのだが、何かをする動機としてこれほどパワフルな言葉はないだろう。 彼は内部告発をしたために、組織に追われる身になってしまい、どうしてこんなこと(内部告発)をしたのか?と尋ねられ、そう答えた。 私たちがこの言葉にパワーを感じる理由は、この言葉が彼の信念に裏打ちされたものであり、彼のスピリットそのものを表しているからである。 スピリットとは、知識と経験に基づいて彼が築き上げた心の姿勢である。 こういった積極的な心の姿勢を、私は人生において何よりも大切だと考えている。 何かをするときに「絶対にできる!」とか「絶対に成し遂げてみせる!」と信じて疑わない人と「そんなことできるかな~?」と疑いの気持ちを払拭できない人とでは発揮できるパワーが違う。 どんなことでもそうだが、なによりも大切なことは「どんなことがあっても絶対にやり遂げてみせる!」という固い決意なのだ。 物事は「絶対に成し遂げてみせる!」という決意で始まり、「もうダメだ~!」と諦めることで終わる。 つまりすべては心の姿勢から始まり、すべては心の姿勢で終わるのだ。 だから自分自身に対するコミットメントが重要なのだ。 これが無ければどれほど卓越した能力を持っていようと、比類なき素晴らしい人格を有していようと最終的には、何ひとつ手に入れることはできないであろう。 物事を途中で投げ出す人間は、結局は何ひとつ手にすることはできない。 最後までやり抜く決意と覚悟、そしてたゆまぬ努力があるからこそ、その努力に対するご褒美として、求める結果が手に入る。 この世界はそういう風にできている(と私は思っている) おもしろいことに、人は同じ知識を持ち、同じ経験を得たとしても、同じ考え方をするとは限らない。 その主な理由は人間としての成熟度にある。(他には、その人がそれまでの人生で培ってきた価値観などがある) 精神的に未熟な人と成熟した人とでは、物事に対する受け止め方が違う。 精神的に未熟な人は自分本位に物事を考える。 そういう人たちは、「私が…、オレが…」と自分を指し示す単語を主軸として物事を展開させようとする。 特徴としては「なんで私がやらないといけないの?」とか「なんでオレがこんな目に逢うんだ?」それは「私がやったのよ」これはオレがやったんだぞ」と会話の内容が自分の主張で大部分を占める。 もちろん、それが悪いとは言わない。 自分の権利を主張し、意見を押し通すことは時としてとても大切なことである。 しかし、自分だけでなく、他の人もまた同じように権利を主張し、その人個人の意見を持っている事実を認め、受け入れようとしないければ、この世界で他人と友好的な関係を築くことはとてもできないであろう。 それに対して精神的成熟度の高い人は、自分の欲求を大切にしながらも、相手や自分の置かれた環境、その時の状況に応じて自分の欲求を上手に変化させることができる。 そしてその結果、自分だけでなく相手までも満足するという素晴らしい成果を手にすることができるのだ。 10人の人間がいれば、10の正義がある。 つまり「正しさ」とは客観的なものではなく、相対的なものなのだ。 そしてそれはやはりその人個人が所有する価値観に基づく道徳的正義と社会正義、そして法律は似て非なるものだ。 大切なことは個人・組織と問わず、そこに存在する様々な考え方を汲み上げ、バランスを取りながら、最善の結果を求める姿勢である。 そうすれば多くの人の協力が得られるはずだ。 人はたとえどれほど尊大な人であろうと、一人ではたいしたことはできないものだ。 そしてそれはほとんど何もできないに等しい。 それぐらいの謙虚さでちょうど良いくらいだと私は思う。 一人では何もできない自分だからこそ、人の助けや協力を得ることができたとき、心からうれしく思い、また心から感謝できるのだ。 とはいえ、やはり不正に対しては、人として出来るかぎり断固とした態度で敢然と立ち向かいたいものである。 そしてそういった正義感を支えるのは信念である。 「命よりも大切なものがある・・・」 間違っているかも知れないが、私はそう考えている。 そしてそれは社会一般では間違っていたとしても、それでいいのだ。 それは私にとっての真実であり、そして私にとっての正義である。 そして「生きる」とは、自分の生き様を魂に刻み込むことだと、私は思っている。 つまり自分の信じる正義のために命を投げ出す行為は、生き様を魂に刻み込むという意味で「生きる」ということであると私は思うのだ。 願わくば、そんな生き方がしたいものだ。
相性が悪い、という意味が私には理解できなかった。 人それぞれ考え方があって、それが違うのは当たり前のこと、そして他人の意見を尊重しなければいけないのは言うまでもないことだ。 お互いがそれを踏まえた上でしっかりと話し合うことで少しずつ相手の考えが理解できるのだと思っていた。 だから相性が悪いと言う言葉は私にとって「???」だった(笑)。 ところがいろいろと調べて分かったことは、やはり人間には相性なるものが存在するということだった。 たとえば「他人に甘える性質」を持つ人がいたとしよう。 そういう人でも何事につけても厳しい人に対してはそういう「他人に甘える性質」を出しにくいわけだ。 ところがその「他人に甘える性質」を持つ人はそれを引き出す性質(この場合はやさしい性質ということにする)を持つ人に対しては遠慮なく甘えることが出来るわけだ。 これはつまり「他人に甘える性質」でも相手によってそれが引き出されたり引き出されなかったりするということを意味する。 この観点からすると、自分の良いところを引き出してくれるパートナーは相性が良く、反対に自分の悪いところを引き出してしまうパートナーは相性が悪いということになるわけだ。 ちなみに成功するためには「能力」が大切なんだけど、幸せになるためには「人格」が大切になってくる。 この2つが揃って、はじめて幸せな成功者になれるわけだ。 そして、その中でもパートナーに恵まれる人は思慮分別がある人であり、そういう人は自分の良い部分を引き出してくれる人を見つけることができるわけだ。 相性の善し悪しに気が付くのは当人としても本当に難しいものだと思う。 しかし、願わくば出来る限り相性の良い人たちと付き合い、可能な限り相性の悪い人たちから学ぶべきであろう。
男性は女性を幸せにするために守らなければいけない。 いや、守るどころかそんなことは軽く越えて、「愛すること」に集中することが大切だ そうすれば女性は幸せを感じることができる こうして書くと男性は大変に感じるが、実は女性も大変なのだ 男性がそこまで一生懸命になれるくらい価値のある女性だと思わせることができなければ、当たり前の話ではあるが、そんなことは到底適わない その人の人間性…これは男性女性の別は関係なく、とても大切なことである 人間性を磨くこと そうすればその人は必ず輝く 女性の場合は家族を大切にしているかどうかが大きなポイントである 世の中には自分のことばかり大切にする女性もいる そういう女性はたとえ付き合っても、基本的に相手の男性を大切にしてはくれない 女性の本質的な喜びは人とつながることであり、他者に奉仕することを通じて自分の喜びを見出だせるその性質は、とても素晴らしいと思う ただ、相手に与えすぎると自分(女性)が損した気分になるので、注意が必要だ 家族を大切にしている女性は、自分と他者とのバランスを取りながら、人を大切にすることに慣れているので、気遣いが抜群にうまい そしてこういう女性は物分かりが良く、男性が命懸けで戦っている時は、女性も命懸けでそれを支えようとする だからこそ、男性は「命を懸けてでも、この女を守ってやろう」と思うことができるし、女性は「この人を支えるためなら、何でもするわ」とそう思えるのだ だからバランスの取れた関係は、いつだってフィフティフィフティなのだと思う
私のもっとも大切な夢のひとつは、人生を最後の時を、人生で出会った大切な友人たちに囲まれて、心安らかな時間を過ごすことである。 私や私の大切な友人がいよいよやばいって時には、みんなで集まって、その時にはきっと話しても話しても尽きないくらいたくさんのステキな思い出をみんなで楽しく語り尽くして、その中にはいいことをして良かったな、って思えたり、悲しいこともあったな、ってしんみり感じたり、そうやってみんなで人生を振り返りたいな。 そして最後は「あぁ、本当にいい人生だった・・・」とその人が思うことができれば、それほど幸せな人生は無いだろうと思うのだ。 去り逝(ゆ)く人が本当に満足なら、きっと「ちょっくら行って来るよ」みたいなノリで、そしたら見送る人も「おお、一足先に行っててくれよ。」みたいな軽いノリで返事しちゃったりするの。 人生の最後の瞬間まで精一杯生き抜いたら、きっとそんな心境になるんじゃないか、と思う。 こわいよ~、さみしいよ~、と死んでいくのは本当に惨(みじ)めでかわいそうなことだと思う。 友人たちはそんなに多くなくていい。 せいぜい5~6人くらいでいいと思う。 それでその人たちと一緒に作った人生の思い出をたくさん語り合えば、きっとこの世界に生まれて本当に良かったな、と心から感謝できると思う。 人生最後の瞬間にそう思えることは、とてもすばらしいことだ。 マザーテレサも「あなたを愛しています」と言って死に逝く人を抱きしめ続けたそうだ。 それは人生最後の瞬間を寂しい思いで過ごすのは、あまりにも悲しいことである、という思いから生まれた行動だそうだ。 ナイチンゲールが憧れの的なのは彼女が博愛の象徴だからだ。 私たちは自分の人生に意味を持ちたいのだ。 自分の人生が無意味であることを認めるのは、本当に悲しい。 そして私たちは他者との関わりの中で、自己を確認する生き物だ。 人の幸せの役に立ったこと、困ってる人を助けたこと、などを通じて私たちはそこに自分の価値を見出すことができる。 そういう時、「あぁ、生まれてきてよかったな、他人の役に立つことができて本当に良かったな」そう思えるのだ。 こういう話をするとすぐにそりゃ、「森本さんだからそう思うんですよ」と言われてしまう。 違うんだよ、それは本当に違うんだ! 私だからそう思うんじゃなくて、本当は心の奥では誰でもみんなそう思っているんだよ。 それは以下の話を聞けば分かることだ。 人は赤ん坊の頃は誰でも他人(多くの場合は親)に育ててもらわなければ生きていくことさえできない。 赤ん坊は自分のことができないので、不満があると大声で泣いて訴える。 自分を大切にしてくれ~、私はいま大変なことになってるぞ~、というわけだ。 つまり赤ん坊は『他者にとって大切な存在である』というポジションを得ることができなければ、とんでもないことになってしまうのである。 ここで赤ん坊は『他者にとって大切な存在』になることはとても重要であること(愛されること)を本能的に学ぶ。 赤ん坊からもう少し成長すれば、今度は子供になって親からの愛情を欲しがるようになる。 赤ん坊の時のように大切にしてもらいたいと思うわけだ。 ところが親はいつまでもやさしくしてはくれない。 親も忙しいのだ。 そして子供はどうやらこのまま『何もしなければ』、赤ん坊のときのように大切にしてもらえないのかもしれないな、と思う。 今度は、子供は何かアクションを起こして、赤ん坊の頃のように大切にしてもらわなければいけないと気付くのだ。 そこで泣いたり喚(わめ)いたり暴れたりして自分の欲求を通そうとする。 しかしそのうち「大切にしてもらうためには、どうも良い子になることが良さそうだ」と子供はそう判断するようになる。 しかし、子供は感情面が強く(自制心が弱くと言い換えても良い)、なかなか素直に良い子を演じることができない。 良い子とは多くの場合は『親にとっての』良い子だから、子供からしてみれば窮屈で仕方ない。 そこで、子供は無意識に判断を迫られる。 このまま良い子を演じ続けるか、若しくは苦しい良い子は捨てて他の行動により親の関心を引くか・・・ 子供だって赤ん坊と同じように愛して欲しいのだ。 だけど、その方法が分からない。 そこで仕方ないので、親の関心を引いたり、自分の欲求を満たすために、子供は悪いことをするようになる。 だが、子供だって悪いことをするときは「これが悪いことである」という自覚があるのだ。 それを敢えてするのは、満たされない思いを埋めようとするからである。 つまり分別がなくなっているのだ。 そして自分は悪いことをしているという自覚を持ったままだと、自分の存在自体が危機なので、自分にとって都合の良い自分勝手な理論を考えるようになる。 一方、自分は愛されていると自覚している子供には分別が芽生え、自分にとってそんなこと(悪いこと)はするに足らないつまらないことだと思うようになる。 充分に満たされているので、そんなことをする必要は全くないのだ。 ここまで見れば分かるように子供の頃、適切な愛情を注がれるということは人格形成(アイデンティティ・フィルターと言っても良い)において重大な影響を与えるようになる、ということである。 悪い子というのはかわいそうに『良い子』の席に座ることができなかったので、空いてるほうの『悪い子』の席に仕方なく座ったのだ。 本当は誰だって他人から嫌われたくなんてない。 そんなことをしたら自分が危機に陥るということを本能的に(赤ん坊のときに)知っているからだ。 他者(特に親)から大切にされなかった(本当は滅多にそういうことはないので)、大切にされていることに気が付くことができなかった人間が悪いことをするようになるのだ。 ちなみに悪い人でも立ち直ることはできる。 一番いいのは本物の情熱を持って、どんなことでも本気で向き合って、本気でその人のことを心配してくれるすばらしい人物に出会うことだ。 ヘレン・ケラーがサリバン先生に出会ったように・・・。 そうすれば「あぁ、私はこの人のために、立ち直ろう・・・」きっとそう思うようになるハズだ。 人間の思考回路とはそのようにできている。 なぜなら、人は『自分を大切にしてくれる人を裏切り続けること』はできないからだ。 私は、人のこの特性を大変すばらしいものであると思う。 もちろん、すぐに立ち直ることはできないだろう。 失敗することも絶対にある。 だから少しずつでもいいから、確実に良い方向へと向かうことが大切なんだ。 ここまで説明すれば分かってもらえると思うが、、「あぁ、生まれてきてよかったな、他人の役に立つことができて本当に良かったな」そう思うことは決して特別なことじゃない。 心の奥では本当は誰もがそう思っているそう思うんだ。 ただ、それを表まで引き出すには、愛してもらうという手順が必要なだけなんだ。 人と向き合うのはきっと『本気の心』だけなんだ。 本気の人間だけが、本気のメッセージだけが、愛のない世界で凍えそうになってる人の心に届くんだよ。 私はそう思う。
先日、妹の顔を子供がぶったそうだ。 そのとき、妹は「ここでして良いことといけないことをキチンと教えないといけない」そう思ったそうだ。 そこで妹が取った行動はおよそ世間の常識とはかけ離れたものだった。 子供の気が済むまで、自分の顔を打(ぶ)たせたのだ。 「気が済むまで私の顔を打(ぶ)ちなさい」 その言葉に子供は怯(ひる)んだ。 しかし、妹は許さない。 嫌がる我が子に自分の顔を打(ぶ)たせ続けた。 次第に子供は泣き顔になり、とうとう「お母さん、ごめんなさい」と泣きながら謝ったのだ。 そうなのだ・・・悪いことをしてしまったら、自分は悪いことをしてしまった、と心から反省することが一番大切なことなのだ。 しかし・・・我ながらすげえ妹だ。 テクニックや技術の発達によって、自分と向き合うこともずいぶんと楽になったようだ。 能力開発でもその傾向はすでに主流を占めている。 しかし、血を流すべきときに、自分だけ無傷で済まそうなんて一事しのぎの考えは、いつまでも通用はしないだろう。 いつかは正面から向き合わなくてはいけないんだ。 苦しみや悲しみを感じることは、それだけ摩擦が大きいことを意味している。 それは心がソレを受け入れることに抵抗していることを示している。 だが、それこそが本当に受け入れなければならないものだ。 その結果、もしかしたら人は自分がどれほど無力で無価値な人間であるかを思い知らされ、激しく打ちのめされることになるかも知れない。 自分には価値がない、それを認め受け入れることは人間として、とても辛く悲しいことだ。 しかし、そこで終わりではない。 いま、たとえどれほど惨めであろうとも、そこから立て直せばいい。 自分で認めない限り、人生にKO負けはない!(ユダヤ人大富豪の教え) 私はその言葉を信じている。 そしてどれほど苦しくても悲しくても最後は自分で立ち上がり、そして歩き始めるしかないのだ。 最後の最後に頼れるのはやはり自分なのだ。 どれほど仲の良い友人でも、自分にとって大切な人であっても人生を肩代わりすることなんてできはしない。 だからこそ、自分を高めることが大切なのだ。 最後まで自分の人生に情熱を持って生き抜くために・・・。 やがて人生が幕を閉じるその瞬間まで、情熱を持って生きることをあきらめたくはないものだ。 ネガティブだが非常にパワフルな思考法がある。 潜在意識の法則からは外れてしまうが、それは「拒絶」することである。 この「拒絶」はとてつもなくパワフルな方法だ。 たとえばこんな風に使う。 私は貧困を決して認めない 私は病気を絶対に受け入れない 私は無責任な批判には断じて屈しない などなど・・・。 これこそ世界中から攻撃されたオプラ・ウィンフリー(だったと思うが名前が少し違うかもしれない)が使った力だ。 彼女は彼女に対する批判・攻撃を受け入れなかったのだ。 ジャンヌ・ダルクもそうだ。 愛する祖国が退廃し、他国の支配に屈するという状況を彼女は認めなかったのだ。 人生に対する情熱を持って生きることは、自分の命に誠実である生き方である。 いっぱい学んで、いっぱい経験して、いっぱい失敗して、でもそれを乗り越えることで人は更なる輝きを放つことができるようになる。 それこそが成長であり、自分の人生に責任を持つということだろう。 |一覧| |
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