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久々に骨太の本を読んだ。全485ページに渡る盲人登山家による半生記である。じっくりと二度読んでみた。
感動した、という陳腐な言葉では感想を述べたくない。こういった類の障害者が絡む本を(差別的な意味ではなく)毛嫌いする文筆家もいるようだが、きちんと中身を読んだ上で批判しているのだろうか。まあ、あからさまに批判していた評論家さんは先日お亡くなりになってしまったが。とにかく「盲人」ということを抜きにして一登山家の手記として読んでもそれだけでも読み応えがある。でも、やはりこの一節を読むと、何故盲人が山を目指すのか、少しわかったような気がする。 「私のこの視野では、アカンコグアの頂上といえども、息を呑むような展望を提供してくれない。目の前からはるか彼方まで展開する、目のくらむような大眺望を提供してはくれない。それは私にとって、冷たい金属の十字架を突き立てた、岩石の乱雑な積み重なりにすぎない。だが、頂上には、眺望以上のものがある。これは偏見かもしれないが、人々が、眺望を得るために頂上へ登るというのが、私には信じられない。ただ単に美しい眺望を得たいだけなら、誰も、山登りのあの苦しさを求めたりしない。頂上は、山のとある一点にとどまらない。頂上は、私たちの心の中にある。それは、ささやかな夢の実現であり、私たちの生が有意義であるということの、紛うことなき証である。山頂は、一つの象徴なのだ--強い意志の力と共に、脚力や背筋力、二本の腕の力を発揮すれば、私たちは自分たちの生を自分たちの選択したものに作り変えることができる、ということの象徴である。」生きることの証として、彼は山に挑み続ける。 登山シーンばかりでなく、前半部分のどうやって光を失っていったか、中途失明者としてどんな苦労を重ねてきたかがよくわかる。ここのところは重要だ。我々晴眼者にとって、どんなに見聞きしてもわからないような細かい記述で書かれているので、ブラインドのサポートをする際に大いに役に立つ。笑ったのはこんな場面、彼がレストランに行くと、ウェイターは相手が盲人なのに何を勘違いしているのか、大きな声でゆっくりと「ご・ち・ゅ・う・も・ん・は?」と聞いて来る。要するに聾者とごっちゃにしているのだ。そして、勘定に立つとお金を払っているのは彼なのに、店主はおつりを同伴者に渡す。彼を1人前の人として扱っていないのだ。これは実際に私が盲人をサポートしていてよくある光景だ。私の例で言えばこんなことも。ある盲人と飲みに行って、山手線の列車の中で「じゃあね」と言って別れようとすると、隣りにたっていたおばさんが「エッ、この人はこの盲人を電車に置き去りにして勝手に降りていく」といいたげに、怒りの表情で私を見ている。さも自宅までサポートするのがあんたの役目、とでも思っているのだろうか。まあ、そんな偏見もこの本の前半部分を読めば認識も新たになるだろう。この著者はスーパー盲人登山家ではあるけれど、街では一介の頼りなさげな盲人に過ぎないのだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Mar 13, 2003 04:36:53 PM
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