会津の由来
奥会津を流れる只見川
会津という地名の由来をご存知でしょうか?
諸説ありますが、たくさんの川が集う場所、という意味で「相の津」が語源ではないか、というのがあります。
実際に会津盆地にはたくさんの川が流れ込みます。
尾瀬からは只見川、南会津町からは大川、猪苗代湖からは日橋川、飯豊山からは押切川と、会津盆地の東西南北からいくつもの川が会津盆地中心部に向かってくだってきます。そして、やがて川は合流して阿賀野川という一本の川となり、越後山脈を越えて新潟県から日本海側へと流れ込んでいきます(この地理的条件が会津の土壌を作り食味を豊かにする一因とされていますが、それはまた別の話…)。
そのため、江戸時代までの会津は舟運が発達しており、阿賀野川も日本海側と会津側の交易路として重要な役割を果たしていたとされています ("津"という漢字には現在も渡し場などの意味があります) 。
現在でも多くの川はダムとして水力発電に利用されており、会津という土地で川が果たしている役割の大きさが伺えます。
古事記
そんな「相津」という地名ですが、日本最古の歴史書である「古事記」にも名前が登場します。
「古事記」は「日本書紀」とともに7世紀に天武天皇により編纂された歴史書です。一般的に、年代を追って記述する編年体方式の「日本書紀」の方が客観性が高く、「古事記」は神話性や物語性を強くおびた書籍とされています。
さて、そんな「古事記」の中で語られる日本神話の中で会津はどのようにでてくるかというと…
-------------------------------
かれ、大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。
(現代語訳)-----------------
ところでオホビコノ命は、先の詔に従って越国の平定に下って行った。ところが東方に遣わされたタケヌナカハワケは、その父のオホビコノ命と会津で行き会った。そこでそこを会津というのである。-古事記(中)p98 次田真幸訳 講談社学術文庫-
-------------------------------
と、これだけじゃ分かりづらいですね。
簡単に背景を説明すると、第10代天皇である崇神天皇の時代に、大和朝廷の支配領域を拡大するために全国に4人の将軍(四道将軍)が派遣されました。
その中で北陸に派遣されたのがオホビコノ命、関東・東北方面に派遣されたのがタケヌナカハワケでした。二人は親子でもあったのですが、二人が各地方の平定後に落ち合った場所が会津だったそうです。
もちろん、これは神話上のできことで、実際にこういった将軍が実在したのか史実として判明しているわけではありません。
しかし、世界的に神話上の物語は実際におこった歴史的事実を反映しているとも考えられており、会津地域が早い段階で大和朝廷下にあったと考えられています。また、当時の人たちが、奈良からどういったルートで会津にやってきたかの想像も膨らみます。
伊佐須美神社
会津美里町には、上記の神話を由緒にもつ神社である「伊佐須美神社」もあります。
会津総鎮守とも称され、歴代の会津藩公から信仰も篤かった歴史ある神社です。
現在でも、初詣では大変賑わい、会津で最も人気のある神社の一つです。
ぜひ、お立ち寄りになられた際は、会津の古い歴史を感じられる神社の由緒もご覧になられてください。
伊佐須美神社
東山温泉の千代滝・新滝からはお車で30分弱です。(上記の地図は千代滝で設定しています)
会津東山温泉 くつろぎ宿 千代滝・新滝
東山温泉郷を一望できる、高台に位置する千代滝HP
千代滝
東山温泉街中心部、川沿いに位置する新滝HP
新滝