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きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

信平醇浩・信子の狂言訴訟

2006年10月29日 12:08:38

 日本の昭和40年以降の全訴訟件数、およそ「千数百万件」のうちに「十数件」しかない、極めて稀な厳しい判決――「訴権の濫用」で断罪された信平狂言訴訟事件

 事件は、独居老人を狙って恐喝まがいの借金をしては踏み倒し、裁判所から断罪され続けていた、地元でも悪名高い信平夫婦“逆恨み”によるものだった。

 創価学会幹部だった信平夫婦は、学会の役職を悪用し、禁止されていた金銭貸借をくり返して問題化。役職を解任されたことを恨み、脱会した。

 その後、日本共産党機関紙「赤旗」(1995年12月30日付)に、信平信子が創価学会を攻撃する内容の「匿名手記」を発表。それは、“金を出さなければ学会を東京の人間に売る”などと述べた、最後の「恐喝まがいの電話」から、約一週間後のことだった。

 さらに3ヵ月後、今度は『週刊新潮』“池田名誉会長の暴行された”などとする「手記」を発表。そして、その4ヵ月後、このウソの“告発”をもとに「狂言訴訟」を提訴した。

 訴えのうち、信子の請求は「時効」が成立しており棄却。「訴権の濫用」との判決は、96年2月、『週刊新潮』の取材の際に“はじめて事件を知った”という醇浩の請求に対してのものである。

 なお、裁判史上に残る「訴権の濫用」との判決が明確に下されたにもかかわらず、『週刊新潮』によれば、この裁判は、学会側が「時効で逃げた」とされている。

 のちに、この「狂言訴訟」は、信平夫婦『週刊新潮』記者の門脇護、日蓮正宗の「妙観講」幹部らによる密談(1996年2月2日)により謀られた「謀略」であったことが、流出した「会話録音MD」により明かされる(「言論のテロリズム」〈山本栄一著 鳳書院〉より)。

 この「デマ手記」は、当時、国会で新進党(公明党も参加)と、その支持団体である創価学会を攻撃するための材料として、対立していた自民党や共産党によって「党利党略」に大いに利用された。『週刊新潮』は政局に絡んで、権力による創価学会へのデマ攻撃を、中心になって、陰で“演出”していたのである。


第5章 「信平狂言訴訟」を仕組んだ「ペンの謀略」

「陰の主役」『週刊新潮』

 信平信子・醇浩夫婦が、「事件」なるものをデッチ上げ、創価学会の池田名誉会長を訴えた民事訴訟――いわゆる「信平狂言訴訟」は、一審、二審の2度にわたって「訴権(民事裁判を起こす権利)の濫用」が認められ、最高裁も信平側の上告を棄却する形で決着をみた。

 2000年5月30日に東京地裁で下された一審判決には、次のようにある。

「本件訴えは、訴権を濫用するものとして不適法なものというべきであり、このまま本件の審理を続けることは被告にとって酷であるばかりでなく、かえって原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」

 訴権濫用による「却下」は、たんに請求が認められなかっただけの「請求棄却」とはまったく意味がちがう。“提訴そのものが不当な目的を持ったもので、訴訟制度の悪用にあたる”と裁判所が判断したからこそ、「却下」となったのだ。「裁判を受ける権利」を国民に保障した憲法32条との兼ね合いから、裁判所が判決で「訴権濫用」を認めることはきわめてまれである。我が国では、1965年から現在までに十数件しか例がないという。裁判の総件数から考えれば、100万件に1件あるかどうかという稀有な判決なのである。

 世の中には傍目から見て被告への嫌がらせとしか思えない提訴も多いが、それでもたいてい、裁判所は請求棄却の形で訴えをしりぞける。訴権濫用が認められるのは、よほどのことなのだ。一審判決も、その点について次のように触れている。

「民事訴訟の提起は、本来であれば、原則として正当であるのであるから、訴権濫用というためには、そうした制度利用を許容すべきではないとするほどの不当性が認められることが必要である」

 訴権の濫用にあたると判断した理由として、判決書は、「各事件について事実的根拠が極めて乏しい」ことを挙げている。すなわち、信平夫婦がいう「事件」など存在しないことを、狂言訴訟であることを、裁判所が認めた判決だったのである。

 「信平狂言訴訟」が東京地裁に提訴されたのは1996年6月のことだが、信平信子は提訴に先立って、『週刊新潮』“告発手記”なるものを寄せていた。

 同誌96年2月22日号に掲載されたその“手記”は、信子は3度にわたって受けたとする“被害”について“告発”する体裁をとっていた。新聞広告や雑誌の中吊り広告でも大きく扱われた。『週刊新潮』は、この手記掲載から5号連続で関連記事を掲載し、そのいずれにおいても信子の言い分を鵜呑みにした形で報じた。

 6月の提訴から、ほかの週刊誌もこの“キャンペーン”に参加してきた。しかし、各誌がこぞってこの裁判を記事にしていたのは、提訴直後の一時期のみ。『週刊新潮』以外の週刊誌は、やがて信平訴訟報道から手を引いていった。

裁判が進むにつれて信子の“告発”の矛盾点が明らかになったため、「深入りしないほうがいい」という意識が働いたのだろう。

 しかし、『週刊新潮』だけは、信平訴訟が終わるまで一貫して大きく扱いつづけた。一時期には、口頭弁論が開かれるたびに記事化していたほどである。

 私は96年9月の第1回から2001年の控訴棄却まで、信平裁判の口頭弁論をすべて傍聴し、月刊誌『潮』などにその傍聴記を寄稿してきた。だからこそ、『週刊新潮』の信平訴訟報道がいかに一方的な偏向報道であったが、よく分かる。

 『週刊新潮』“信平ネタ”で計35本もの記事を作ったが、そのいずれもが、信平夫婦の言い分を一方的に報じ、彼らにとって都合の悪いことにはいっさい触れない内容であった。そして、記事の本文や見出しでは、池田名誉会長を中傷しつづけた。

 民事訴訟では本来、原告と被告は対等な立場である。また、起訟前に訴えの中身が厳しく吟味される刑事訴訟とは違い、民事では訴えの中身がどうあれ、書式上の不備さえなければ訴状は受理され、裁判が開かれる。さらに、刑事告訴の場合、訴えの中身が虚偽と判明すれば原告は虚偽告訴罪(かつての「誣告罪」)に問われるが、民事の提訴に虚偽告訴罪は適用されない。たとえ訴えの中身が虚偽であったとしても、請求がしりぞけられるだけなのである。

 だが、裁判に疎い一般人にはそうした違いがわかりにくい。たとえ民事訴訟であっても、誰かが訴えられたと聞けば、被告のほうが悪人であるかのような印象をもってしまいがちだ。

 だからこそ、著名人に狙いを定めて狂言訴訟を起こせば、その訴えが大々的に報じられることで相手を貶めることができる。訴えが事実であるかのようにいう偏向報道がつづけば、民事訴訟であっても、無理の人間に凶悪犯のようなイメージを塗りたくることが可能なのである。

 「信平狂言訴訟」は、まさにそのような謀略であった。だからこそ、判決で「原告(のぶひら)の不当な企て」という強い言葉が用いられ、訴権の濫用による却下という稀有な判決が下ったのだ。

 そして、当初から捏造報道を策謀し、ほかの週刊誌が手を引いてからもなお信平夫婦への“援護射撃報道”をつづけた『週刊新潮』こそ、その謀略の「陰の主役」であった。

 かりにもジャーナリズムを標榜しながら、虚偽の告発を検証もなしに鵜呑みにして報じることは、それ自体許されない。だが、『週刊新潮』が計35本に及ぶ信平報道でやったことは、さらにひどいことだった。

 一連の“信平もの”記事を担当した『週刊新潮』記者・門脇護氏(現編集部副部長)は、“手記”掲載に先立って、信平夫婦と謀議を巡らしていた。「取材」ではない。まぎれもない「謀議」である。その謀議の模様は、ジャーナリスト・山本栄一氏(元『読売新聞』編集委員)の著書『言論のテロリズム』鳳書院)に詳述されている。

 同書によれば門脇氏は、信平夫婦との謀議の中で、次のようなことを夫婦に“進言”していたという。

 1 “(起訴前に厳密な捜査にさらされる)刑事告訴ではなく、民事でやるべきだ”などという訴訟戦略

 2 “手記掲載に合わせて記者会見を開いたほうがいいが、それを『週刊新潮』がセッティングするのはまずい”などという、騒ぎを大きくする戦略

 3 『赤旗』(日本共産党機関紙)が最初に報じてしまうと、党派性が前面に出てしまい、一般メディアは後追いしにくくなるからよくない”などというメディア戦略

 詳しくは同書に譲るが、要は、『週刊新潮』側がむしろ信平夫婦をリードし、創価学会を効果的に攻撃するための戦略が練られていったのである。

 そして、事態は『週刊新潮』が企図したとおりに進んだ。たとえば、“手記”を掲載した『週刊新潮』が発売された直後の96年2月23日、東京の新宿ワシントンホテルで、信平信子が記者会見を開いている。

 『週刊新潮』「陰の主役」であるという意味が、おわかりいただけたであろう。

 以下、私が信平訴訟を狂言と断ずるに至った根拠をかいつまんで説明し、先導した『週刊新潮』の責任を問いたい。

政争の具となった“逆恨み狂言訴訟”

 信平信子・醇浩夫婦は、 いずれも元創価学会員である。

 夫婦が学会を脱会したのは、複数の学会員から借金踏み倒しをくり返して問題化し、学会での役職を解任された末のことだった。金銭トラブルが原因で役職を解かれた“問題夫婦”が、そのことを逆恨みして、学会および池田名誉会長を貶めるために起こした狂言訴訟であった。

 信子は、提訴に先立って『週刊新潮』に寄せた“手記”の中で、“自分が名誉会長に宛てて事件を告発する手紙を出した直後、理由もなく解任された”としている。そして、金銭トラブルについては、学会側がデッチあげた「架空の金銭貸借」だと、その存在を否定している。

 だが、借金を踏み倒された被害者(その多くは一人暮らしの老女などの弱者)の一部は夫・醇浩を相手取って借金返還訴訟を起こしており、醇浩の敗訴が相次いでいる。すでに醇浩の敗訴が確定したものだけでも、返還請求額の総計は5300万円以上にのぼる。借金踏み倒しは、裁判所も認めた厳然たる事実なのだ。

 創価学会は会内規約で、会員間の金銭貸借自体を厳禁している。信平夫婦の場合、たんなる金銭貸借ではなく借金の踏み倒しであり、しかもそれが学会幹部の立場を悪用する形でくり返されていた。夫婦の悪行を知った学会側が役職解任に踏み切った(92年5月)のも、当然のことだった。

 ところが、役職解任を逆恨みした信平夫婦は、93年暮れに学会を脱会。その後の夫婦の動きは、逆恨みがしだいにエスカレートしていく過程とみることができる。

 醇浩は95年1月に、“会員時代に購入した(学会所有の)厚田墓園の墓地代金を返せ”と学会側に要求する民事訴訟を起こしている。が、同年4月、函館簡裁はこの請求をあっさり棄却した。墓地代金は「永代供養料」であって土地購入の対価ではないのだから、返還に応ずるいわれはなく、当然の判決であった。

 ただし、棄却の直接の理由は、醇浩が池田名誉会長を被告としていたことだ。学会の実務上の最高責任者ではない名誉会長をこの訴訟の被告とするのはそれ自体おかしい。だが、これは無知による間違いというより、最初から名誉会長への嫌がらせが目的であったと考えられる。いわば、後の「信平訴訟」の原型ともいうべき裁判だったのだ。

 醇浩はその後、95年9月から12月にかけ、学会本部に脅迫めいた電話をくり返しかけた。“墓地代金を返さなければ池田名誉会長を詐欺罪で告訴する”などという内容の電話である。だが、「詐欺」にあたる事実はなく、学会側は要求に応じなかった。

 信子が『週刊新潮』“手記”を発表したのはそれから2カ月後で、「信平訴訟」の提訴はその4カ月後のことである。

 こうして並べてみれば、役職解任からの信平夫婦の一連の行動が、1本の線でつながっていることがわかる。学会に対する“逆恨みの仕返し行為”が徐々にエスカレートしていった果てに、“手記”発表と狂言訴訟があったのだ。

 信平訴訟の判決も、そうした経過をすべて事実と認め、次のように述べている。

「(学会側が要求に応じなかったため)仕返しとして、信子の手記をマスコミを通じて公表し、その延長上のものとして、とくに訴訟上又は訴訟外における有形、無形の不利益を与える目的で本件訴えを提起したものであると推認されてもやむを得ない」(カッコ内は引用者補足)

 裁判所は多数の証拠に基づいてこうした判断を下したのだが、なかでも判断の決め手となったと考えられるのは、信平夫婦の肉声を収めた一連の録音テープであった。そのうち一本は、創価学会函館平和会館において、学会副会長らが夫婦に役職解任を伝えた際のやりとりを収めたもの。残りは、役職解任後、夫婦がそれぞれ学会本部にかけてきた電話を収めたものである。

 法廷内にそれらのテープを流す形で証拠調べが行われ、私も傍聴席で聴いた。テープの中では、夫婦とも金銭トラブルの存在を認めており、逆に“事件”についてなど一言も出てこなかった。

 テープの中で、醇浩はヤクザまがいの怒声を終始張り上げ、差別用語を織り交ぜて、応対した学会副会長を罵倒しつづけていた。『週刊新潮』が作った「正義の告発者」のイメージが一気に吹き飛ぶ内容であった。

 そして、信平夫婦の虚偽の告発は、信子が『週刊新潮』“手記”を発表した96年2月から、一部政治家・マスコミ、日蓮正宗などによって最大限に利用されていった。衆院選(96年10月)を間近に控えていたこの時期、信平夫婦“告発”は、当時の野党第一党・新進党(すでに解党)の最大の支持団体であった創価学会のイメージダウンをはかる、格好のネタだったのだ。

 たとえば、96年2月から5月にかけては、3人の国会議員がなんの脈絡もなく国会で信子の“手記”を取り上げ、騒ぎ立てた。また、3月と4月には、『週刊新潮』の信子の“手記”だけを「抜き刷り」したものが、各種団体に郵送されるなどして各地に配布された。6月の提訴は、『週刊新潮』をはじめとする週刊誌や夕刊紙などがこぞって大きく取り上げ、信子を「正義の告発者」としてもてはやした。

 つまり「信平訴訟」は、一夫婦による不当訴訟であるにとどまらず、学会と利害を異にする勢力がこぞって信平夫婦を利用した、学会攻撃の一大謀略となったのだ。判決書でも、日蓮正宗や創価学会被害者の会」なる団体と信平との間に、「一定の協力関係」があることが認定されている。

綿密な証拠調べの結論は「事件はなかった」

 この裁判の経過は、部外者にはたいそうわかりにくいものだった。夫婦二人を原告として始まりながら、途中で信子の請求がすべて棄却され、醇浩の請求の一部だけは「弁論を分離」されて審理が続くという異例の展開をみせたからだ。

 そのような展開となったのは、提訴時点で信子の請求がすでに民事訴訟の時効にかかっていたにもかかわらず、醇浩は「96年2月に妻の受けた“被害”を初めて知った」と主張することで、時効による棄却をまぬかれた(=形式上、96年2月から時効の進行が始まる)ためだ。

 信平訴訟の経緯を学会側弁護士団が振り返った『判決 訴権の濫用』(宮原守男ほか著/日本評論社)によれば、学会側弁護士は当初から、のちに法廷に提出された信子の“告発”の虚偽性を立証する証拠類を、すべて揃えていたという。

 しかし、「それらの証拠を無思慮に出したのでは、裁判の長期化は避けられない。その間、裁判報道に名をかりた悪宣伝が続くことになる」(同書)との判断から、“裁判が長引くほど名誉会長の報道被害が甚大になる。時効援用によって棄却してほしい”と主張したのだった。そうした学会側の主張を裁判所は受け入れたが、醇浩の請求の一部については時効による棄却ができなかったのだ。

 醇浩は、96年2月に『週刊新潮』の記者が信子を取材にきた際、信子が記者に“被害”について打ち明けるのをそばで聞いて、初めて“被害”を知ったと主張した。判決書はこの点について、「第三者がいる場において初めて夫である原告に告白するというのは、いかにも不自然」と、時効回避のためのウソであることを示唆している。

 信子の請求が棄却されたことを不服として夫婦は控訴したが、東京高裁にも控訴を棄却され、上告を断念した。そのため、信子の敗訴は99年の段階ですでに確定していた。2000年5月30日に東京地裁で下った一審判決(本稿でここまで何度も引用したもの)は、残っていた醇浩の請求に対してのものである。

 信平側の“時効回避策”で裁判が引き延ばされたことで、むしろ、信平夫婦の告発の虚偽性がより鮮明になった。と言うのも、信子の請求は実体審理(証拠調べなど)に入らないうちに時効によって棄却されたのに対し、醇浩だけが原告として残った分離後の法廷では、綿密きわまる証拠調べがなされたからだ。そのうえで、「事件はなかった」との結論が下されたのである。

 たどった経過の複雑さゆえか、『週刊新潮』「学会は時効で逃げた」とする執拗な偏向報道のせいか、その点を理解していない者は、報道関係者の中にさえ少なくない。いまだに、信平訴訟について「実体審理が行われないまま、裁判は門前払いで終わった」とする記事が散見されるのだ。それは明らかな事実誤認、もしくは故意の曲解である。

「モグラ叩き」さながらの主張の変遷

 信平訴訟の経緯を虚心に眺めれば、誰もが信子のいう“事件”の存在を疑わざるを得ないだろう。信平側の主張には、常識的・客観的に見ておかしい点が多いからだ。

 たとえば、事件があったとする日時や場所など、訴えの根幹をなす部分についての主張が、クルクルと変遷している点である。

 信子は、『週刊新潮』に寄せた“手記”の中で、自分が受けたという“3度にわたる被害”について、それぞれ場所と日時を明記していた。ところが、“手記”発表からわずか4カ月後に裁判所に提出された訴状では、“被害”の日時や場所があいまいになっていたり、手記とは変っていたりした。

 たとえば、手記では1991年8月16日朝7時半頃ごろに受けたとしていた3度目の“被害”について、訴状では同年8月17日頃に受けたことに変っている、という具合である。

 この裁判の過程でも、信平側は“被害”の日時や場所についての主張を何度も変更させてきた。

 2000年2月に開かれた第13回口頭弁論では、なんと“被害”の回数まで変えてきた。信平側はまったく唐突に、「じつは、信子が“被害”になったのは3回ではなく計4回だった。1982年と83年に2年続けて“被害”に遭っていたのだが、信子は“被害”のことを忘れよう忘れようと努めていた結果、2つを混同して1回だと思い込んでいた」(趣意)と言い出したのである。

 “被害”の回数という訴えの最重要項を、提訴から3年8ヶ月も経って突然変更したのであり、横紙見破りというほかはない。この変更について、判決書が「極めて不自然かつ不合理」としたのも当然だろう。これは、記憶違いで説明のつくような変更ではない。“被害”が事実なら、こんなムチャクチャな主張の変更をするはずがないではないか。

 しかも、こうした主張の変更は、学会側の反証によって自分たちの主張が突き崩されるたび、それをかわすために行われていた。

 たとえば、“手記”と訴状で日時等に変更があるのは、“手記”発表から提訴までの間に、学会側が機関紙上で信平側のウソを逐一暴いたがゆえの姑息な弥縫策であった。変更された点は、いずれも、その変更によって学会側の反論をかわす形になっていたのだ。

 “被害”は3度ではなく4度だった」と突然言い出したこともそうだ。信平側が“83年8月に受けた2度目の被害”の現場としてきた、創価学会函館研修道場内の喫茶「ロアール」は、82年6月に道場で行われた大規模な会合のために一時的に作られたプレハブ建てで、会合終了後には撤去されていた。したがって、83年8月にはすでに存在しなかった。林野庁撮影の航空写真(撮影年月が明確)などからそのことが明らかにされたので、それをかわすため、「じつはロアールで“被害”を受けたのは82年のことで、83年に屋外で受けた“被害”と混同していた」と、なんとも苦しい言い逃れをしたのだった。

 学会側の主任弁護士をつとめた宮原守男弁護士は、信平側のこうした主張の変遷について、口頭弁論で「まるでモグラ叩きをやっているようです」と論難した。言い得て妙である。信平側の主張について、学会側が真摯に証拠を積み上げて論破すると、信平側はそのつど、身をそらすように主張を変えてしまう。そのさまはまさしく「モグラ叩きゲーム」そっくりだった。

 判決書も、「主張を変遷させていることそれ自体が訴訟上の信義則に反するばかりでなく」「事件の事実の存在に強く疑いありとする評価を招くものと言わざるを得ない」と、信平側の不誠実な態度を厳しく批判している。

破綻と矛盾に満ちた信平側の主張

 主張の変遷以外にも、信平側の主張には常識的にありえない不自然な点がたくさんあった。たとえば――。

 信平側は、彼らのいう“3度目の事件”について、提訴以来3年以上を経てようやく、創価学会函館研修道場の銀月門付近」で受けたものだと場所を特定した。しかし、当の「銀月門」は公道からわずか十数メートルの場所にあり、門付近は車が頻繁に通る公道から丸見えなのである。

 しかも、信平側が事件の日時とした91年8月16日から18日間(『週刊新潮』の手記では16日、訴状では17日としていたが、信平側は最終的に18日に主張を変更)には、池田名誉会長の迎えて行われていた会合のため、道場内に多数の警備役員が24時間体制で配置されていた。その役員らが常駐していた「警備室」の、銀月門のすぐ近くにあるのだ。しかも、信平側は事件を早朝に起きたとしていた。

 早朝、衆人環視といってもよいそんな場所で、当時64歳の信子が“被害”受けたとする信平側の主張は、常識的にもありえない荒唐無稽なものだ。判決書も、「いつ何時人が通りかかるかもしれない屋外で、原告主張のような事件が発生したということは、経験則上にわかに想定し難い」と、信平側の主張をしりぞけている。

 また、学会側は、91年8月16日から18日にかけて撮影された、研修道場での会合の模様を写した大量の写真を証拠として提出。これも、信平の“告白”の虚偽性を暴く決め手となった。

 信子は、この“3度目の事件”によって「額が大きく腫れ上がるほどの傷害を受けた」(訴状の記述)と主張し、『週刊新潮』“手記”では、“早朝に被害に遭ったため、朝9時半から会合参加者が行ったラジオ体操に出られなかった”旨を記している。

 ところが、証拠提出された写真の中には、当の信子はなんの屈託のない笑顔で写ったものや、平然とラジオ体操をする姿をとらえたものが、多数含まれていたのである。

 以上の2点だけを取り上げても、信平側の主張がいかに破綻し、矛盾に満ちているかがわかる。そして判決書では、信平側の主張のことごとくが、「明らかに不自然」「論理的にあり得ない」「およそ信用性に乏しい」「極めて不合理」などと否定されている。その積み重ねのうえに、「事件についての事実的根拠は極めて乏しい」との結論が出されたのだ。

 一審が「訴権の濫用」によって却下されたにもかかわらず、信平側はなおも控訴。東京高裁に舞台を移した控訴審の過程でも、信平側はさらに支離滅裂な主張の変更を行った。

 なんと、「事件」の回数について、“じつは計6回だった”と言い出したのだ。

 信平側弁護団によれば、「執拗に信子から被控訴人との関係をすべて問いただした結果」「事件の全貌」がようやく明らかになったのだという。また、これまで信子当人は、「事件を忘れようと努力していた」結果、記憶の混同を生じ、“実際には6回だった事件を3回だと思い込んでいた”のだという。

 こんな支離滅裂な主張を、いったい誰が信じるというのか? ニ審の判決書も、この主張の変更には「何ら合理的な理由を見いだすことができない」として、あっさりしりぞけている。当然であろう。土壇場になって事件の回数が根拠もなく増えていく裁判など、聞いたことがない。「事件」が事実なら、最も根幹をなすはずの「事件の回数」についての主張が、これほど大幅に変わるはずがないではないか。

 そもそも、当初主張していた“3回の事件”と、後から追加された事件とでは、季節すら異なっている。判決書もその点について、「季節感についてまで誤認混同があったとするのは、極めて疑問と言わざるを得」ないとしている。そしてそのうえで、主張の変更が『訴訟を攪乱してともかくその引き延ばしを図ることだけを目的』にしたものと取られてもやむを得ない」と、信平側の不誠実な姿勢を難じている。

 2001年1月、東京高裁は、一審判決を全面的に支持して控訴を棄却。信平側はなおも上告したが、最高裁も同年6月26日に上告を棄却。96年の提訴から丸5年に及んだ「信平狂言訴訟」は、かくして幕を閉じた。

“捏造手記”を再録する厚顔無恥

 『週刊新潮』は、係争中には毎回の口頭弁論をくり返し報じたのに、裁判が「訴権の濫用による却下」という形で信平側の惨敗に終わったときには、そのことを記事にしなかった。係争中には信平側の言い分だけを報じ、信平側が敗訴したらダンマリを決め込む――呆れるばかりの一方的報道である。

 いや公正を期して記せば、信平側の敗訴後、『週刊新潮』がふたたび信平信子を登場させたことはある。ただし、すでに控訴も棄却されてからのことだ。しかも、その登場のさせ方もじつに『週刊新潮』らしいあくどいものだった。

 それは、同誌の2001年3月8日号でのこと。『週刊新潮』「創刊45周年記念特大号」となったこの号には、信平信子の“告発手記”が、「45年を飾った画期的記事」の一つとして一部再録されたのである。

 くり返すが、この“手記”は、裁判所が厳格な審理をふまえて「事実的根拠が極めて乏しい」と認めた狂言を、事実であるかのように一方的に報じたものである。そんな欠陥記事を「画期的記事」の一つとして再録する神経は、常軌を逸している。『週刊新潮』の厚顔無恥のほどこそ「画期的」というべきであろう。

 再録部分に添えて、信平信子当人がコメントを寄せている。そのコメントの中で、信子は自らの訴えが裁判所から「却下」されたことに、次のように不満を述べている。

 「私の裁判の過程で、実はさらに3度、池田の被害を受けていることを申し立てました。しかし、回数が増えたことで裁判所は逆に“信用ならん”というのです」

 これはもちろん、控訴審で信平側が行った、“被害”はじつは3回ではなく6回だった」という噴飯ものの主張変更を指したものである。

 “私は3回被害に遭ったと主張してきましたが、よく考えてみたら、実は6回も被害にあっていたのです”――裁判が二審に入ってから突然こんなムチャクチャな「申し立て」をする原告を、信用しろという方が無理な相談である。こんなコメントを臆面もなく使う『週刊新潮』編集部は、はたして信子の言い分を「信用」することができたのか?

 『週刊新潮』は、信平裁判が決着をみたあと、この開き直りのような“手記”再録をしたのみ。以後、現在に至るまで、一連の信平報道について謝罪をしていないし、責任も認めていない。

 こうした姿勢は、道義上問題があるばかりではなく、報道被害をさらに拡大する点でも捨て置けない。

 信平訴訟は、夫婦の提訴時には多くの週刊誌・夕刊紙が大見出しで報じたのに、敗訴時にはどの週刊誌も報じなかった。一部の全国紙がベタ記事で、信平の名前は入れずに敗訴を報じた程度である。

 つまり、信平夫婦の言い分をそのまま報じた記事は圧倒的に多量なのに対し、彼らの告発が虚偽であったこと報じる記事はほとんどなかったのだ。そのため、信平夫婦の訴えが真実であると信じこんでいる人はいまでも少なくないはずである。その意味で、池田名誉会長の報道被害はいまもつづいている。

 なお、今となってはブラックユーモアというよりほかないが、一連の信平報道の発端となった『週刊新潮』掲載の“手記”は、97年度「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」のスクープ賞(週刊誌部門)に選ばれている。信平信子の告発が虚偽であると判明してからも、この授賞を取り消そうという動きはない。

 これがたとえばアメリカのピュリッツァー賞なら、受賞作が虚偽を含んでいるとわかった時点ですぐさま授賞取り消しになるだろう。もっとも、この「雑誌ジャーナリズム賞」は、米国のジャーナリズムにとって最高の栄誉であるピュリッツァー賞とは比較するのもためらわれる小さな賞だが……。

 一審判決書には、明らかに『週刊新潮』の報道を念頭に置いたであろう一節がある。

 判決書は、巨大宗教団体の最高指導者である池田名誉会長は「さまざまな立場の論者から批判されることそれ自体は甘受すべき」としている。そしてそのうえで、次のように述べているのだ。

 「しかしながら、被告が相応の批判を甘受しなければならないとしても事柄によりけりであり、本件のような事実的根拠が乏しい事柄について、しかも、スキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはないというべきである」

 この言葉は、まさに『週刊新潮』に向けられた根源的批判にほかならない――。





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