カテゴリ:屋敷林「いぐね」考
三内丸山遺蹟の出土物展示室に、注目すべき土偶が出品されていた。それは掌に入るほどの小さな土偶である。その表情はムンクの「叫び」と題する絵画のような、大きな口の開いた印象的なものであった。
いまにも哀しい悲鳴をあげそうな、悲しそうなムンクの作品と共通する表情であった。現在、模造品がペンダントになっていて、お土産として販売されているが忘れられない。 なんらかの事情で、子どもを失った親の哀しみが、この土偶を作ったのかもしれない。文字を持たない人間の最大の心理をこの「土偶」は雄弁に語っていると考えている。 狩猟民族として北の果てに生きた、太古の人々の喜びや哀しみを、表情豊かに表現した芸術作品に、人間の可能性を感じることができた。二千五百年後にも、「屋敷林」の人々が同じような感情を持っていた事に驚きを禁じえない。 先に、三内丸山遺蹟人は狩猟民族と書いたが、実際には少し疑義がある。 彼らが食べていた食料の残滓には、ヒエ・アワの他に、栗の実(栽培種)が確認されている。 椎の実・栃の実などは自生種と観察されているが、栗の実その物は明らかに栽培種であることが静岡大学の教授が指摘しておられる。大阪・南港のWTC会場で開催された展示会に、その実物がガラス壜に入れられて展示されていた。 その時は、にわかに信じられなかったが、十三年夏、三内丸山遺蹟を訪れた際、資料室で解説者に説明され、遺伝子から栽培種であることが納得できた。 富山県姫川のヒスイ、新潟県のアスファルト、北海道白滝の黒曜石など、青森県では産出していない遺物が多数出土発見されている。これらの事実から、少なくとも彼らが海洋人でもあり、諸国に交易していたことは、まぎれもないようである。 現場からは、海岸線はごく至近距離ににあり、貝殻・魚類の骨・海洋動物の骨のほか、それらを材料に釣り針、道具類も出ていることからも裏付けされているのだ。 もちろん縄文土器は無数にある。埋葬地近く丘陵地のように見られるところは、実は不要となった食べかす、割れた土器、土偶の破片も試掘溝からでており、地表面から実に四メートルも、広大な面積に堆積していた。 ゴミの堆積からも、この遺蹟は二千年以上にわたって使用されていたことが判明した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 21, 2007 08:06:16 PM
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