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2006年04月11日
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 「サウンド・オブ・ミュージック」・・・オーストリアの憂鬱

sound of music
 
 日本人がオーストリアに対して持っている先入観の一つとしてよく譬え話で使われるものが、「サウンド・オブ・ミュージック」という映画である。日本人ならだいたい一度は見たことか、あるいは名前だけでも聞いたことがあるだろう。またこの映画で歌われた「ドレミの歌」とか「エーデルワイス」などは日本では学校で習うぐらい有名であるが、それに対して、オーストリア人はこの映画をほとんど知らない。もちろん知っている人もいるが、多くの人はこの映画に対して不快感を持つし、そのためオーストリアではほとんど上演されることはないらしい。(それに対して「第三の男」は常にどこかの映画館で上演されているというのは本当らしい。) この映画は、ある意味では政治的な文脈をすっかり切り落とした、非常に誤解を与えやすい問題のある映画なのである。
 この映画の舞台は、オーストリアのザルツブルク(もちろんモーツアルトの生まれ故郷であり、この映画でもそのザルツブルク音楽祭が舞台になっている)であり、美しいザルツカンマーグートの自然を背景に、ジュリー・アンドリュースが扮する修道女マリアとフォン・トラップ一家(ドイツではvonが貴族の称号)の物語が描かれており、普通に見れば、ある種の政治的メッセージ、つまりナチス・ドイツヘの「抵抗」という主題をこの映画から読みとれると、この映画を見る人は誰しもが思うわけである。
 とにかく、見るものをミスリードする要素がいくつもある。例えば、この映画のラストシーンでトラップ一家は、ザルツブルク音楽祭の会場から脱出し、山を越えて外国に亡命する設定になっているが、ザルツブルクから山を越えて逃げたら、ドイツ(当然当時はナチスドイツ)に入ってしまうのである!! つまり、歩いて亡命するという場面設定は、致命的な地勢的な誤解を与えている。しかしそれ以上に問題なのは、主人公の一人であるトラップ大佐の政治的な立場に対する説明不足にある。
 この映画は実話に基づいていて、映画で主人公となっているマリアにあたる女性がアメリカに亡命したのち出版したものであるが、このトラップという人物は、オーストリア海軍のエリートで、中国の義和団の乱や、第一次大戦で活躍している。そして彼は、物語の中では、ナチス・ドイツからの出頭命令を拒絶して外国に亡命するという設定になっているので、一見するとナチスの支配に抵抗して亡命した民主主義者か何かのように見えるのである。少なくとも映画の中ではそのあたりの政治的な背景が故意に切り落とされているのである。確かに、トラップ大佐は、ナチスには抵抗していたが、彼がナチスに反対していたのは、実はファシズムへの抵抗の気持ちからではなくて、映画ではほとんど描かれていないが、彼は、1938年にナチスに併合される以前にオーストリアで政権を握っていたドレフス=シュシュニック(Dollfuss ? Schuschnig Regime )体制の支持者であったからである。
 ドレフス=シュシュニック体制という一種のファシズム体制(この体制をどのように定義してよいかは諸説あるが・・)日本ではナチスの影に隠れてほとんど知られていないのである。実は、ナチスとほぼ同じ頃1934年に成立したイタリア・ファシズムとカトリック教会に支持された権威主義的体制であり、この政権のもとでは、社会民主党や共産党など、野党政党はすべて禁止され、日本の大政翼賛会のようなファシズム的な翼賛組織がつくられていた。この体制をファシズムと見なすかどうかは、議論が分かれているが、しかし少なくとも現在の言うところの民主主義的とはとてもいえない身分制国家であったことには違いない。だから、カトリックとイタリア・ファシズムの後見を成立したドルフスとその後継者たるシュシュニックの政治体制は、自らの支配体制を脅かす意味で、ナチス・ドイツに反対していたのです。(ファシズム体制初期においては、ドイツとイタリアはむしろ対立関係にあり、その対立関係の中にオーストリア・ファシズム体制も組み込まれていた。しかしその対立関係が終焉すると、オーストリア・ファシズムは行き所を失い、ドイツに軍事的併合されることになる。)
 首相のドルフスは、オーストリアをイタリアの影響力から引き離し、直接支配を狙うナチス・ドイツの指示で起こされたオーストリア=ナチスの蜂起によって暗殺され、彼の後を継いだシュシュニックは、1938年にヒトラーにドイツに呼びつけられ軍事的脅迫を受けた際、国民投票によってオーストリアの独立を守ろうとしたが、すでに国民の支持を失っていた。シュシュニックらが拠り所にしていたイタリア・ファシズム(ムッソリーニ)は、彼を飛び越してヒトラーと和解してしまうと、彼らは行き場を失ってしまう。反ナチス勢力として連帯も期待できたであろう反ファシズム勢力は、オーストリア国内においては、すでにシュシュニックらの手で弾圧されてしまっていたという皮肉な結果に至るのである。そのため、トラップのようなシュシュニック支持者は、ナチスと妥協するか、亡命するしかなかったのである。

 ナチス・ドイツとの併合後、オーストリアの反ナチスの人々は、国外に亡命していったが、その亡命オーストリア人の内訳は様々であった。例えば多くのユダヤ人がいたが、それ以外にも左翼の人々、そしてシュシュニック派のような右翼の人びともいた。これらの人々は、ナチス・ドイツからオーストリアを解放するという点においては一致し、海外で共同戦線を組む場合もあり、その共同戦線の成果は、1943年モスクワ宣言によって、オーストリアがヒトラーの占領政策の最初の犠牲者であり、「自由で独立したオーストリアの再建」が必要であることを連合軍に認めさせたことに示された。このいわゆる「犠牲者論」が、オーストリアにとってはきわめて得難い政治的成果であることは、戦後になってはじめて認識されることにあんった。つまりこの「犠牲者論」(オーストリアは国家として主体的にナチスに荷担したわけではなく、その犠牲者であり抵抗者であるという神話)とオーストリアの独立(ドイツとの切り離し)が、戦後、連合国に占領されたオーストリアの政府の基本政策となっていったのである。(それによって戦後4カ国に占領統治されながらも、ドイツとは違って分割統治されることはなかった。)戦後は、戦争中にナチス・ドイツに加担した人びとでさえも、都合良くこの「犠牲者論」に便乗したのである。その結果、シュシュニックの支持者であっても亡命した者ならば、立派な「愛国者」であるということになった。
 オーストリアは1955年に永世中立国を宣言し、ようやく占領統治を脱し独立を回復するが、その後も長いあいだこの「犠牲者論」は、オーストリア人の政治的原理として生きつづける。オーストリアは、「ヒトラーの最初の犠牲者であったが、現在は永世中立国家として世界平和に大いに貢献している」と喧伝し、ヒトラー支配下で生じた様々な問題は、全てナチスに責任を押しつけ、自らの政治的責任を放棄したのである。もうすこし上品に言えば、少なくとも政治的責任を先送りにしたのである。そのため意外と知られていないが、オーストリアとイスラエルの問題は現在に至ってもなお未解決であり、ウィーンにはイスラエル大使館はまだ無いはずである。
 その意味では、映画「サウンド.オブ・ミュージック」は皮肉なことに、そうしたオーストリア人の心情を、政治的文脈から切り離して、実は見事に描いているのである。(しかしさすがにオーストリア人も、それほど無責任にこの映画を見ることはできないし、古傷にさわると見えて、国内では上映しないぐらいの良心は持ち合わせているのかもしれない。)
 同じ敗戦国で、連合国に占領されていながら、戦後処理においてドイツとオーストリアが決定的に異なる扱いをされた要因が「犠牲者論」であり、ある意味では戦争責任を曖昧にしているという意味で、オーストリアは日本と似た状況にあるのかもしれない。特にこの映画は世界的にヒットしたため、オーストリアの「犠牲者論」を世界に宣伝するには好都合であったのも事実である。そしてこの政治的スタンスは、1950年代の冷戦構造のなかで(まさにオーストリアは社会主義国家に対する壁であったので)、きわめて高度な政治的な判断によって意図的に維持され続けたのです。  
 ほんとうに「犠牲者論」は正しくはないのか? ここで問題となるのは、1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合であるが、これは1910年の日韓併合とはだいぶ意味合いが違う。1938年3月12日にナチス・ドイツの軍隊がオーストリアの国境を越えたときに、抵抗する者は一人もなく、3月15日にウィーンのHofburugのHeldenplatz「英雄広場」では、ヒトラーの歓迎集会が開かれ、50万の群衆で埋めつくされたと言われている。そして引き続き4月10日に実施された、この「併合」の是非を問う国民投票では、実に99.73%が賛成票を投じたのである。(ただシュシュニックが国民投票を行っていれば、ナチス反対票が過半数を占めていたのではないかという意見もある)
 オーストリア人が当時、経済的・軍事的・民族的な理由で、ナチスを受け入れたという事実は否定できず、積極的ではないにしろ、ナチスの政策を支持し、これに加担したのは事実である。例えばオーストリアは、他のドイツの地域と比べても、ナチス党員の割合が最も多い地域だったのであり、ヒトラー自身は元々オーストリア出身であり、例えば、「ユダヤ人問題の最終的解決」つまりユダヤ人の絶滅政策で有名なアイヒマン(「スペシャリスト」というドキュメント映画で話題になったが)もオーストリア人であります。オーストリア人は、ナチスのシステムの中では後発であるが故に、むしろ積極的に加担していったことも考えられる。
 この「犠牲者論」が見直されるきっかけとなったのが、長らく国連の事務総長(後にオーストリア大統領)であったヴァルトハイムが、ナチスの将校として非人道的な行為を行っていたのではないかと国際的な問題になった時のことである。この問題によって、ナチスの犯罪におけるオーストリア人の責任の問題、オーストリアをナチス支配に導いたのは誰なのか、そして国民をファシズム的体制に組み入れ、ファシズム体制の抵抗者たちを弾圧したシュシュニック体制には問題は無かったのかということが、問われるようになった。ナチス・ドイツとオーストリアのファシズムの間には大きな落差がなかったことが徐々に認識され始めたのである。例えば、戦時中オーストリアがユダヤ人から没収した美術工芸品の扱いが時々話題になる。エゴン・シーレの展覧会をアメリカで行ったときに、アメリカ在住のユダヤ系亡命オーストリア人が、その絵画が自分の家族の財産であったとして、裁判所に所有者確認の裁判を起こしたのである。それ以来オーストリアはその種の危険のある美術品をアメリカに貸すことは控えているそうで、オーストリア友人が語ってくれたところでは、オーストリアはただ時を待てばいいということである。そうすれば、すでに老人になっている相続人たちは、自分の所有物を手にすることなく天国に召されるのであるから。
 シュシュニックに同調することで「愛国者」であったと主張できる時代は去った。それと呼応するように、逆にハイダーのような民族主義を掲げる者が登場する。すでに「犠牲者論」が通用しなくなった現在、逆に開き直るしかないのであるが、もちろんハイダーのような下品な政治家は多くはないが、しかし市民の率直な感情においては、かつての栄光あるハプスブルク帝国がこんなに小さくなってしまった現状のオーストリアにおいて、これ以上の対外的な屈辱にはやはり耐えられないのである。それは未来への展望がはっきり持てない国民、EUに頼らざるを得ないがその組織の中でも絶えず妥協を迫られる現状を目の当たりにして、はっきりその焦燥感が見て取れるのである。
(2005年1月10日)







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最終更新日  2006年04月16日 18時21分41秒



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