テンプル教会は非常に解りづらい場所に存在しています。
テンプル教会と言えばダン・ブラウン(Dan Brown)のダ・ヴィンチ・コード(The Da Vinci Code)の中で紹介された教会でもありますから標識くらいあるのかな? と思いきや広大なテンプルの敷地はわかるのですが、入り口が解らない。
道を尋ねたら「たどり着けるといいね。good luck(幸運を望む)」と言われる始末。
なぜ迷うのか?
それは中世のシティの街がまだその中に残っているからなのです。
※ 中世のシティの街の大半ががテンプル教会の敷地であった事によります。
ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)
テンプル教会(Temple Church)
現在のテンプル(Temple)とは
インナー・テンプル(Inner Temple)とミドル・テンプル(Middle Temple)
これから行くかもしれない方の為に地図を載せました。
写真は全てテンプルなのですが、中には普通の民家やレストラン、パブなどもあり、迷路に近い不思議な造りです。
テンプルバーと呼ばれる昔のテンブルのゲート近くに入口はあります。
※かつて「ロンドン(London) 8 (シティの紋章)」の中でテンプルバーのみ紹介しています。
リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)
写真上のブルーがフリート通りです。
写真左方面がRoyal Courts of Justice (王立裁判所)。
初めての方は黄色のラインを辿って行かれるのが一番分かりやすいと思います。
このラインはMiddle Temple Laneです。
その先ににInner Temple Laneも存在しますが、初めての人には難しいと思います。
但し、簡単そうに見えてこのAとBのポイントを見つけるも至難なのです。
Aのポイントはテンプル・バー跡のモニュメント近く
入り口は今はブランド店の入るビルの下をくぐり抜ける・・と言う形で存在。
つまりこの門がAポイント「Middle Temple Laneに入るゲート」です。
入り口の壁にはこの表札があるから目印に。
反対側から撮影
このMiddle Temple Laneを少し下ると左手にBポイント。上に紹介したような黒い表札があったと思います。
実はBポイントの写真が無いのですが、Bポイントのゲート前には大きな駐車場がありますから目印になります。
因みに駐車場横(ゲートの斜め前)の建物がMiddle Temple Hall(1574年完成)で、シェークスピアの喜劇の名作「十二夜」の初演が行われた場所だそうです。
BポイントはInner Temple方面に入るゲートです。
やはり建物の下をくぐり抜け、中庭を越え、また建物の下をくぐり抜けるとChuch Court (教会の中庭)に出ます。
Inner Temple Hallの前Chuch Court をはさんでテンプル教会(Temple Church)
が建っているのです(教会入り口はこちら)
下の写真正面にある建物がBポイントから通り抜けてきた建物で、この中庭がChuch Court です。
写真左側がInner Temple Hall
写真右側がテンプル教会(Temple Church)
Chuch Court は狭い・・と言うよりテンプル教会全景を入れるにはかなり狭い。
紹介されるテンプル教会(Temple Church)がみんなこちら側からなのが納得。
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テンプル教会(Temple Church)
騎乗しているテンプル騎士の像
一般に使われている教会の入り口。ここは参拝は無料です。
大火や空爆により何度か再建され当初の面影はないかもしれませんが、この円型の教会はエルサレムの聖墳墓教会の円形ドームが元になっていると言います。
十字軍にとって最も神聖なる場所を思い起こさせる・・と言う意味と音響を考えて模したようです。
テンプル教会の創設は1185年。
エルサレム(Jerusalem)のテンプル騎士団の総長によって献堂。
界隈に宿泊施設や食堂、国王が滞在するための建物、貯蔵庫、厩舎なども建てています。
ここはイングランドにおけるテンプル騎士団の本部となり、別の回で詳しく紹介するつもりですが、騎士や教会の財産管理をする本部にもなるのです。
実はInner Temple Laneから入るとここに出られます。
普通は開かない円形ドームの方の扉がたまたま開きました。
現在のテンプル(Temple)とは
イギリスの4代法曹院(Inns of Court)の2つ、インナー・テンプル(Inner Temple)とミドル・テンプル(Middle Temple)が置かれている場所です。
法曹院とは、簡単に言えば裁判官、検察官、弁護士、法律学研究者など法を司る関係者の資格管理等を行う機関です。
法廷弁護士および裁判官は4つの法曹院のいずれかに所属。
ここは教育ばかりでなく、その敷地内に図書館、宿泊施設、ダイニング、チャペル、庭園なども併設。
大学の敷地のような造りになっている・・と感じたのは全てが関係機関だったからのようです。
ウィキメディア・コモンズより四法曹院の紋章
インナー・テンプル/ リンカーン法曹院
グレイ法曹院 / ミドル・テプル
インナー・テンプル(Inner Temple)とミドル・テンプル(Middle Temple)
インナー・テンプル(Inner Temple)もミドル・テンプル(Middle Temple)もその歴史は13世紀前半頃に遡るとされています。
もともとここはテンプル騎士団のイングランド本部が置かれていた場所です。
それ故数奇な運命を辿ったのは騎士や修道士だけでなく、この建物もその一つです。
1307年のテンプル騎士団が廃止されるとイングランド王エドワード2世はそこにあったテンプル教会を王家管理下に置き、その敷地に法学校を創ったようです。
(廃止の理由は次回に)
もともとテンブル騎士団の資産管理などで法学者が集まっていた事。
王によるマグナ・カルタの調印にもここがかかわっています。
王も顧問弁団を持つようになったのはそれ以降なのでしょう。リチャード3世はインナー・テンプル出身者を多く雇っていたと言います。
円形ドームの下から内陣方面
それにしても盛者必衰の理(ことわり)をあらわす・・とはまさにこの事です。
聖地を守り、巡礼者を保護するかたわら巡礼者や騎士の財産を管理し、時には島を購入。教皇より特別な特権を与えられて繁栄したテンプル騎士団は莫大な富を手にします。
巡礼者や十字軍騎士、やがては王侯貴族にまでお金を貸すようになり、いわゆるキリスト教会の銀行にのし上がるのです。
しかし、当然、冨と権力を手にした者はやがて妬まれる。
テンプル騎士団には非情な最後が訪れる事になります。
近年になってテンプル騎士団に対して行われた仕打ちは、フランスのフィリッ4世の独断による「資産狙い」が目的の蛮行で、カトリック教会も公式見解としてテンプル騎士団は濡れ衣をきせられた免罪だった・・と認めています。
彼らの無念を思うと今更何をか云わんや・・と、思うところです。
円形ドームの下は中世の騎士のお墓(次回紹介)
リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)
リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)
テンプル教会を詳しく知ってもらう為にはその設立の始まり、十字軍とテンプル騎士団につい手を見てください。今は忘れられた小さな教会ですが、ここがただの教会ではなかった理由がわかります。
リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)
リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)
ところでサンティアゴ・デ・コンポステーラで大きな事故がありました。
被害者である乗客のおそらくほとんどが25日の聖ヤコブの聖人・記憶日に詣でる巡礼者ばかりだったのでは? とても心が痛みます。
なぜ信仰に対して純粋な人達にまで不幸があるのか? 神のみぞ知るのでしょう。
「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」は2011年5月から9月に特集しています。
興味があったら見てね。
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (サンティアゴ・デ・コンポステーラ)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
つづく