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わたしのこだわりブログ(仮)

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2014年04月09日
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12世紀頃は中世世界の転換期にあたるようだ。
建築はロマネスク様式からゴシック様式に変わる。
威厳あるゴシックの建物は人々を驚かせたに違いない。

天に向かって高くそびえる教会の尖塔、きらびやかに光輝くステンドグラスは、驚きと共に、そこにいる者を神の栄光に近づけさせる効果があったろう。
同様にゴシックの建築で建てられた立派な鐘楼や市庁舎の威厳に満ちた存在感は、来訪者に市民の自治の象徴として知らしめ、大聖堂同様に市民の誇りであったに違いない。

中世ブルージュ(Brugge)にはこの両者があった。
それはまさしく市民の力で築いた成功した中世地方都市の輝く栄光。

しかしそれだけではない、ブルージュにはもっと凄い物が存在した。
それは神そのものの化身・・とも言えるイエス・キリストにまつわる聖遺物。
今回はその聖遺物を持つ教会と聖遺物にまつわる話を紹介 スマイル

ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)

聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)
アルザスのティエリー(Thierry of Alsace)(Dietrich)
聖血の祭り
聖遺物(聖遺物収集、聖遺物産業、聖遺物の略奪)

聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)
Heiling BloedBasiliek(オランダ語)  Basilica of the Holy Blood(英語)
pict-聖血礼拝堂 1.jpg
ブルグ(Burg)広場の片隅にバシリカ(Basilica)がある。(円で囲った部分)
バシリカ(Basilica)は(構造だけでなく)一般の教会堂より位の高い教会だそうだ。

もともとはフランドル伯(Comte de Flandre)家の個人礼拝堂として城に隣接して建てられた(1134年~1149年)とされている事から後にバシリカに格上げされた礼拝堂のようだ
※ 2013年1月「真実の口 (Bocca della Verita)」の回、「バシリカ(basilica)様式の教会」を紹介しています。
リンク ​真実の口 (Bocca della Verita)
pict-聖血礼拝堂 2.jpg
礼拝堂は2層式になっていて、当初は西フランドルのロマネスク様式で建築。
15世紀末にゴシック様式で改築。
19世紀にはゴシックリバイバル様式で改修されているので内部はいろんな様式がミックスされている。
(1階から2階に上がるエスカルゴのような螺旋階段にロマネスクの名残が見られる。)

修復中のせいもあるが、一見地味なこの礼拝堂に人が参拝するのはここが聖遺物の中でもスペシャルな聖遺物を祀っているバシリカだからである
pict-聖血礼拝堂 3.jpg
宝(聖遺物)を持ち帰ったのは戸口に飾られている黄金の像
左の黄金の像・・Thierry of Alsace(Dietrich)・・アルザスのティエリー(後のフランドル伯)
戸口の右の黄金の像・・Philip of Alsace・・・アルザスのフィリップ(ティエリーの息子で後のフランドル伯)

アルザスのティエリー(Thierry of Alsace)(Dietrich)
アルザスのティエリーこと、ディートリック(Thierry of Alsace)(Dietrich)(1099年~1168年)

アルザスの領主ティエリーは、もともとフランドル祖家ロベール1世(1071年~1093年)の孫だそうだ。
1128年~1168年彼はフランドル伯(Comte de Flandre)の爵位を継承。
(フランドル伯家はティエリーから3代アルザス家が継ぐ。)

アルザスのティエリーは第2次十字軍遠征(1147年~1148年)に参加し、聖地よりイエス・キリストの血の遺物を持ち帰りこのバシリカに奉納した・・とされている。
・・・と言うのが一般に人気の伝承
である。
pict-聖血礼拝堂 7.jpg

聖遺物にまつわる新説
最近の検証では、第4次十字軍(1202年~1204年)の時、十字軍が陥落させたコンスタンティノープルから持ち込まれた(略奪?)のではないか? と言う説があるようだ。
理由の一つはコンスタンティノープル陥落後にラテン帝国を建国したのがフランドル伯ボードゥアン9世(1172年~ 1205年)だった事。
他には、聖血の祭りの開始時期など史実をさぐっても13世紀以前には該当しないらしいのだ・・。

ここに疑惑がおきた。 (・_・?)はて?
ではなぜ「第4次十字軍の時にフランドル伯ボードゥアン9世が・・」と、しなかったのか?
あくまで憶測であるが、考えられるのは、出時期含めて、聖遺物そのものが略奪、もしくは怪しいルートから街にもたらされた物であったからなのでは? 
中世、聖遺物産業と言うのが存在したのだ。(その話は後の「聖遺物」のコーナーで紹介します。)

聖血の祭り
聖なる血の行進(Procession of the Holy Blood)
1303年に制定? されたと言う中世以来のお祭りは、毎年5月、復活祭から40日目のキリスト昇天祭(毎年変動。今年は5月29日らしい)に行われる時代祭りのパレードである。

メインはブルージュの宝であるキリストの血とされる聖遺物。
聖櫃(せいひつ)に収められた聖遺物は礼拝堂の外に出され、市中を行進する。それはあたかもブルージュに聖血がもたらされた時のように・・。
pict-聖血礼拝堂 4.jpg
2階にある礼拝堂
この礼拝堂は歴代のフランドル伯だけでなく、金羊毛騎士団の祈りの場でもあったそうだ。

金羊毛騎士団はブルゴーニュ公フィリップがこのブルージュで結婚式をあげた時に造った騎士の爵位である。(これについては長くなるので別の機会に・・。)
リンク ​​​金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​

pict-聖血礼拝堂 5.jpg
バシリカ自体の見学は10:00~12:00 昼休みはさみ14:00~17:00まで。
写真右の球形の鍋のような物は、実は「講壇」である。(非常にめずらしい形です。)

この礼拝堂の右にバシリカ(列柱)があり、その奧の部屋で毎日決められた時間にちょこっと「聖血の遺物」が開帳されます。
(バシリカへの入場は無料だった気がしますが聖遺物を見せて頂いた時は別途、多少のお布施をお願いします。)

撮影は禁止されています。当然聖遺物もこっそり撮る事はできないのですが、特別許可の写真でしょうか? ウィキペディア・コモンズで公開されていたので借りてきました。
pict-聖血礼拝堂 6.jpg
黄金の装飾のついたガラスの筒に入っているのはキリストが流したとされる血のついた羊の革らしい。

伝承ではゴルゴダで十字の貼り付けより降ろされたイエス・キリストの体をアリマタヤのヨセフが拭き取って保存していた品だとされている
まだ割と生々しく赤いのだ。血は固まって黒ずむ(酸化する)はずなので、あきらかに怪しいのは言うまでもない。
何しろ2000年前の血液ですよ びっくり

聖遺物(聖遺物収集、聖遺物産業、聖遺物の略奪)
聖遺物と言うのは、宗教上の崇拝する主にまつわる遺物の事だ。
少し前にケルン大聖堂に祀られている「マギの聖骨」について触れたばかりであるが、今回もキリスト教関連の聖遺物である。
しかもキリスト自身の血液とされているので、聖遺物の中でも最上位のランクだ。

キリスト教の聖遺物と言えば、イエス・キリストを筆頭に聖母マリア、12使徒、キリストに関係した人々、他にバチカンで公認された聖人列伝に叙せられた諸々の聖人に関する遺物は全て聖遺物である。
内容もいろいろである。着衣の破片や、遺骨もあるし、分割されすぎて指1本・・と言う場合も・・。
イエス・キリストが磔刑にされた十字架の木片は家が建つほどあるらしいし、打ち付けた釘は数十本になるとか・・。大笑い

聖遺物収集
そもそも聖遺物収拾は古代ローマ帝国でキリスト教が公認された時から始まった
その筆頭が前に聖墳墓教会の所で紹介したコンスタンティヌス帝の母ヘレナである。
今風に言えばヘレナは聖遺物収集のマニアであった。何しろその為にエルサレムまで詣でたのだから・・。
実際彼女の探してきた聖遺物はどれもレベルが高い。(信憑性は別として・・。)
そう言う意味で言えば、ヘレナ同様、十字軍の参加者の中には聖遺物収拾を目的に出かけた者も多かったはずだ。

聖遺物には霊力が宿っているとされた。そして聖遺物を所有する者は聖遺物に選ばれた人となり、自身にも神の栄光が降り霊験を得られると考えられた。
信仰心だけではない、貴重な聖遺物を所有するという事は名誉であり、社会的地位を確固たる者にした。

欧州の王侯貴族や、聖職者などは財力を駆使して聖遺物を手に入れようとした事実は計り知れる話だ。

聖遺物産業
需用があれば品が欲しい。聖遺物は高値で取引できる商品になった
聖遺物の偽物が大量に出回ったのがまさに十字軍遠征中の欧州である。
しかも製造の本拠はコンスタンティノープルだったと言う。
確かにコンスタンティノープルで手に入れた品なら信憑性も高くなろう・・。

十字軍の参加者は観光土産のようにそれらを手にして国に帰ったわけである。

聖遺物の略奪
特に酷かったのは第4次十字軍遠征の時だ。
聖地エルサレムでなく、進路を東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに向け同じキリスト教徒の同胞を征服し、軍隊は略奪の限りを尽くした。
聖遺物は本物も、偽物も略奪され、欧州に売られて行ったのだ。

聖血礼拝堂の「聖血」は本当はどこから来たのか?
第二次十字軍に参加したアルザスのティエリー(フランドル伯)が持ち帰った・・は、その信憑性を高める為のフィクションかもしれない。

本物か? 偽物か?  それでも「聖血」が街に人を呼んでいる。
観光客は沢山のお金を落として行くではないか。
「聖血」は真に霊験あらたかな聖遺物になってしまったのかもしれない。

ブルグ広場終わりますが、ブルージュはつづく
リンク ​ブルージュ(Brugge) 8 (Rozenhoedkaai)

※ 聖遺物についてはあちこちで書いています。
リンク ​デルフト(Delft) 4 (新教会 ・聖遺物の話)
リンク ​ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)
リンク ​聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)







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Last updated  2020年12月13日 03時55分39秒
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