


内在性レトロウイルスのHERV-Kとは、何なのか? 我々のゲノムに居座って
いるHERV-K(
写真上=赤く着色された粒子)と現生人類ホモ・サピエンスとの
拡散の関係は前回に述べたが、そこでこの元レトロウイルスがなぜ今日まで我々のゲ
ノムで繁栄しているのかの謎を保留しておいた。
◎HERVはヒトの生存に不可欠な存在か
不要なもの、有害なものは、自然淘汰でやがては排除されるのではないか。ちょう
ど真っ暗闇の深海に棲む深海魚が目を失うように。それなのに、第1話で内在性レト
ロウイルス、すなわちHERVはじめ、レトロウイルス由来と思われる配列が全ゲノ
ムの43%も占めているように、我々のゲノムは外来者を排除しているようには見え
ない。
内在性レトロウイルスは、寄生して休眠したガラクタどころか、たんぱく質合成に
発現しているものさえある。いやそれどころか、HERV遺伝子の発現の全く見られ
ない体の組織を見つけようとしても難しいほどだ--『破壊する創造者』の著者、フ
ランク・ライアンは、そう言う。
つまりかつては我々ヒトやそのはるか祖先を激しく攻撃したレトロウイルスも、居
候どころか今では恒久的・不可欠な共生関係になってしまっているというわけだ。
◎胎盤形成に関与するHERVも
ライアンによると、最も新しくヒトのゲノムの中に入り込んだHERV-Kなどは
、実は生物進化に深く関わっていた、と様々な研究者とのインタビューも含めて明ら
かにしていく。例えば宿主生物とレトロウイルスとが共生関係に入り、宿主の核ゲノ
ムと一体化したとすれば、それはもはや新たな種と言えるのではないか、というのだ
。
それどころか、胎盤形成に欠かせない役割を果たすほどになっているHERVもあ
る。ちなみに我々ヒトは、哺乳綱の有胎盤類に含まれる。その分類群のとおり、出産
の前に母体の中で胎盤が形成される。
ここから胎児は、母親から栄養を受け取って生長するのだが、その際に1つ大きな
問題がある。母体の血液と胎児の血液とは、決して混じり合ってはいけないのだ。混
じり合うと、母体にとっても胎児にとっても互いに「異物」だから、母親の血液の側
に異物排除の免疫抗原抗体反応が起こるからだ。
◎胎盤の細胞を融合させて胎児と母体の血液混じり合いを遮断
血液の混じり合いを防ぐために、内膜直下筋層を構成する細胞が融合して、細胞膜
がなくなった1枚の薄い膜(合胞体という)になっている。ところが我々脊椎動物に
は、もともと合胞体を作る遺伝子は備わっていない。だがレトロウイルスなら、でき
る。例えばAIDSの原因ウイルスであるHIV-1は、哺乳類の細胞を融合させる
ことができるのだ。
では、どうしてこのような巧みな能力が獲得されたのだろうか。レトロウイルスが
かんでいるだろうとは予測できた。そして12年前、アメリカの研究者によって、ヒ
トゲノムに入り込んでいる内在性レトロウイルスであるHERV-Wの、元はウイル
スの殻を作る領域から、細胞を融合させて合胞体を作る遺伝情報が見つけ出したのだ
。
レトロウイルスとヒトとの相利共生(互いに利益を得る共生)がヒトの進化に関与
していることを示した、これが最初の証拠であった。
さらにこの3年後には、合胞体生成に重要な役割を果たしているたんぱく質合成の
コードがHERV-FRDと呼ばれる内在性レトロウイルスで見つかった。前者のH
ERV-Wの作るたんぱく質は「シンシチン1」、後者のHERV-FRDのそれは
「シンシチン2」と呼ばれる。
◎疾病を予防するレトロウイルスも
まだ役割はよく分かっていないが、HERVファミリーの中にはヒトの脳内でも活
発に発現し、シンシチンたんぱく質を盛んに生成しているものもあるという研究もあ
る。特に健常者の脳内ではそうなのだが、統合失調症患者と双極性障害患者ではそう
ではないという。精神性疾患から、HERVがヒトを守ってくれている可能性も指摘
されるのだ。
さらに全身性エリテマトーデスなどの自己免疫疾患を防ぐ働きもしているらしい。
自己免疫疾患の発症には、ウイルスが関与していることは広く知られるようになった
が(例えば俗に「小児糖尿病」と呼ばれる1型糖尿病も自己免疫疾患だが、これはウ
イルス感染による)、その発症を防ぐ役割もしている形跡がある。
せっかく新宿主を得て、そのゲノムの中に安住の地を見出し、宿主とともに繁栄し
ているHERVにとって、宿主個体の健康は必須である。個体が死ねば、自分たちも
一貫の終わりだからだ。
◎時には発がんの悪さもするが
ただし当然のことながら、いいことばかりでもない。HERVは逆転写酵素を持っ
ているので、いつでもゲノムの外に飛び出し、また内部に入り込める。
つまりヒトのゲノムを、(意思は持っていないけれども)自由にいじれるわけだ。
たまたまがん抑制たんぱく質、逆の発がんたんぱく質を作る遺伝領域に入り込むと発
がんの引き金を引く可能性があるということだ。無害だった領域を切り貼りして、発
がん性たんぱく質を合成させることもあり得る。HERVだけでなく、子宮頸がんを
起こすパピローマウイルスなども含め、がん症例の20%はウイルス絡みだとされる
。
実際、最も新しい感染者であるHERV-Kの一部遺伝子が、様々な兆候から発が
んに関与している疑いは濃厚になっているという。だからと言って、生殖細胞のゲノ
ムにも入り込んだHERV-Kなどをもはや追い出すことはできない。追い出せば、
別の不都合が生じるのは間違いない。何しろ10万年前後もヒトと共存してきている
のだから。
◎人類史では負の効果を及ぼさなかったHERV
ただ、ものは考えようである。がんの多くは、個体の老化に伴う疾病だ。小児がん
、子宮頸がんを含む一部の子宮がん、乳がんなどは、若くして患者の命を奪い、残さ
れた家族に深い悲しみをもたらす憎むべきがんだが、そうした一部を除いたほとんど
のがんは、個体が再生産能力を失った後に発症する。
であるとすれば、宿主個体にとってもHERVにとっても、自分の遺伝子は確実に
次世代に受け渡されているわけだから、もう宿主が死んでも生物としての役割は十分
終えていることになる。むしろそれ以前に宿主は、HERV-Kなど内在性レトロウ
イルスから十分な利益を受けており、その不都合を埋め合わせて余りあると言えるか
もしれないのだ。
さらにがんが発症する再生産能力を失った年齢の個体は、人類史の99.8%を占
める農耕開始以前の旧石器時代にあっては、ほとんど死亡していた。旧石器人にあっ
ては、「がん」という病気はほとんど存在しなかったのである。それ以前に、様々な
感染症で死亡していたから。つまりHERVのマイナス効果は、人類においても事実
上存在しなかった。
だから我々のゲノムの中で、HERVは生き続けたのだろう。
◎最後に蛇足的な呟きを
以下は、本シリーズを書いてきたリブパブリの蛇足的な感慨である。あくまでも個人
的な思いなので、中には承服できないという方もおられるだろうが、ご寛恕を。
リブパブリは思うのだが、人間はやたらと長生きしたいと思うべきではない。自分が
生涯で何かを十分にやり終えたと思えば、がんに遭ってもそれが天命と知るべきでは
なかろうか。悔いを残して死にたくはないが、社会に貢献もせず、ダラダラとただ生
き延びることは生物の本性に反するし、後世代の負担になるだけだ。
特に思索を奪われた痴呆になってまで生きたいとは、決して思わない。
その点で、オーストラリア生まれでイギリスの考古学界で活躍し、現代考古学にも
なお深い影響力を残しているゴードン・チャイルド(
写真中央=オークニー諸島の新
石器時代集落址スカラ・ブレで、
下はスカラ・ブレ遺跡)の生き方に深く共感するの
である。
(完=9話にわたっての長い間のご愛読ありがとうございました)
☆これまでの「『破壊する創造者』を読む」シリーズ日記
▼12年2月4日付日記:「『破壊する創造者』を読む(第8話):現生人類の世界
制覇を促したもの」
▼12年2月2日付日記:「『破壊する創造者』を読む(第7話):新種を生み出す
異種交配、ヒトも?」
▼12年1月31日付日記:「『破壊する創造者』を読む(第6話):ミトコンドリ
アとの共生にも関与した?ウイルス」
▼12年1月29日付日記:「『破壊する創造者』を読む(第5話):遺伝子を他種
に移動させるウイルスとウミウシ」
▼12年1月27日付日記:「『破壊する創造者』を読む(第4話):鳥インフルエ
ンザはパンデミックを起こさない!?」
▼12年1月25日付日記:「『破壊する創造者』を読む(第3話):サルと平和的
に共生していたHIV」
▼12年1月23日付日記:『破壊する創造者』を読む(第2話):共生者としての
レトロウイルス」
▼12年1月20日付日記:「ウイルス像を一変させる刺激的書物『破壊する創造者
』を読む(第1話)」
昨年の今日の日記:「30センチもの長大な口吻を持つ蛾とこれまた長大な蜜までの
道=距を持つ奇天烈ランとの共進化」
Last updated
2012.02.06 06:35:55