ついに登場、待っていました--それが、日経新聞朝刊の連載コラム「私の履歴書」の昨日9日の記事である。1月は、作家の渡辺淳一の番で、作家の生い立ちから現在までの自叙伝である。
◎青春の忘れがたき女性
渡辺淳一個人にまつわる本人に忘れがたき2つの事件と言えば、青春真っ盛りの高校時代の早熟な天才少女画家との出会いと別れ、そして後に医師・整形外科講師として勤務する札幌医科大学での和田心臓移植事件(1968年)であろう。いずれも、後に小説のテーマとしている。
その高校時代の天才少女、加清純子がいつ登場するのか、と待ちわびていた。渡辺淳一が、北海道内一の進学校である札幌南高に入学した記述は6日だった。7日は、その札幌南高での国語の教師との出会いであり、8日は後の作家への基礎となる短歌に親しみ、短歌誌に投稿した記述であった。
9日、その加清純子がついに登場した。だがなぜかこの記事では、「加清純子」でなく、「加瀬純子」となっている(写真上=記事中のカット写真とキャプション)。加清純子の遺族に配慮したものなのか不明だ。
9日は、その出会いだけだった。本日10日の記事で、その全体が回想されるに違いない(本日記を書いている時点で、まだ10日付紙面を見ていない)。
◎奔放な高校女生徒
出会いの時の印象は、かつて叙情的私小説『阿寒に果つ』で書かれていたことと同じだった。色白で、絵が飛び抜けて上手く、中学生の時から北海道内で「天才少女画家」として有名だった、とある。
渡辺淳一が札幌南高2年生の春に、学区制改革があり、一挙に男女共学化された。加清純子は、女子高と統合されて南高に来て、しかも同じクラスとなった。
天才少女画家は、奔放な性格でもあった。デッサン会や東京の展覧会があるから、と学校を勝手に休み、また授業にも遅刻して出たり、途中でエスケープしたりしていた。それを教師たちが見て見ぬふりしていたのは、それだけ「有名な文化人」だったからで、いわば別格である。
◎出奔の日から間もなく61年
その天才少女画家が、深く話し合ったこともない渡辺淳一の机の引き出しに「付け文」を入れる。「今度のあなたの誕生日、わたしが祝ってあげる」とあった(写真中央=加清純子と渡辺淳一、高校2年の時)。
これが作家・渡辺淳一の出発点、となる。
天才少女画家に翻弄されて、やがて捨てられる青春のほろ苦い結末は、厳冬の冬の夜、純子がそれまで付き合っていた男たちに赤いカーネーションを置いて出奔することで終わる。それが1月15日夜から翌日未明にかけてだった(写真下=純子の行方不明を伝える当時の新聞記事)。
あの日から間もなく61年。どんな思いをこめて今日の純子像を素描しているのか、楽しみだ。
なお、過去に本日記で渡辺淳一と加清純子を主テーマにしたことがある。下記に掲載しておくので、ご一読下さればも加清純子という女性が短くも、いかに数奇な人生を送ったかお分かりいただけるだろう。
・11年4月17日付日記:「没後59年の1人の天才少女画家と作家・渡辺淳一、そして戦場カメラマン・岡村昭彦」。
昨年の今日の日記:「極北アイスランドにもマリモ、それは日本から渡ったものだった」
追記 本日掲載の「純子の誘惑」と題したエッセイの冒頭に、「加瀬純子」は「加清純子」の間違いでしたという訂正の文章が出ていた。渡辺淳一の青春時代に鮮烈な記憶を残した女性の名前を間違えようとは、渡辺淳一も耄碌したのではないか? それ以上に、編集者が過ちを事前に直せなかったのは怠慢だ。
さて、本日の回では、まだ純子の出奔にまで筆が進んでいない。戦後間もなく、昭和20年代半ばのウブな高校生のデートの模様が淡々と述べられている。