カテゴリ:フィリピン旅行記
日本は太平洋戦争で敗れました。これは歴史的必然なのでしょう。そして、勝者の理論から、日本=悪というレッテルを貼られました。これも歴史上の必然なのかもしれません。確かにそれは否定できないことでしょう。そして戦後日本人はそれを深く反省して参りました。しかしながら、フィリピンではフィリピン人犠牲者の大半はアメリカ軍の無差別爆撃によるものと言われています。日本だけが悪で、アメリカが100%正義といえるのでしょうか?
そしてこんなことも考えるのです... その当時、確かに日本に協力してくれた人がいました。その日本に協力してくれたフィリピン人ってどんな人だったのでしょうか?もちろん勝ち馬に乗るっていう人もいたでしょう。日本軍が怖いからっていう人もいたでしょう。しかしながら、それ以外に日本人の勤勉さに憧れた人がいたのかもしれません?多少なりともスペイン型搾取が残っていたと思われるアメリカ型統治に反対だった人もいたのかもしれません。そうした人には自国に欧米勢力が蔓延るインドシナ半島、インドネシアの人々とある種の共通認識(植民地政策を続ける反欧的な考え)があったのかもしれません。もちろんこれはあくまでも勝手な想像です。 そして、もし日本が覇権主義ではない純粋な気持ちの大東亜共栄圏なるものを作ることができていたなら、今のフィリピンやバングラデシュの貧困などはなかったのかもしれない... こういったことを考えると、何故、軍部の独走を防げなかったのか、何故、日本は孤立へと進み、日英同盟は破棄されていったのか、何故、日米開戦は避けられなかったのか...日本を孤立へ向かわせた欧米の隠された意図はなかったのか...そうした歴史の必然を考えると、この太平洋戦争の多大な犠牲がより悲しいものとなってしまうのです。 ドラグを出発して次の目的地ブラウエンに向かう途中、ガイドが「少し他と異なるシュラインがある」と言って、そこに案内してくれた。シュライン???神社??? ドラグを出発して5分後くらいか、そのシュラインはありました。『CAPT. ISAO YAMAZOE SHRINE』です。 山添大尉の記念碑。 鳥居がゲートになっています。 本当に優しそうな方である。 その碑文です。 確かに戦争中ということもあり、残虐な行為もあったのだろう。しかしながら、もともと日本人の多くは平和主義者のはずです。このSHRINEは山添大尉らを奉ってはいますが、多くの日本兵のこころは、この山添大尉と同じではなかったのでしょうか。 セブでも以前『ルテナント中村は生きているか。彼はとっても優しかった』とか、ネグロス島シライ市の博物館に行ったときなど、その館員が、『米軍が来たとき、ここの守備隊は町で戦うことが出来たのに、この美しい町を放棄してくれた。』とか... この記念碑を訪れて、日本が世界から孤立せず、日米が開戦しなかったら...と深く考えさせられたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[フィリピン旅行記] カテゴリの最新記事
|
|