鈴木康博
鈴木 康博(すずき やすひろ、1948年2月18日 - )は、静岡県田方郡修善寺町(現:伊豆市)出身の日本のシンガーソングライター。オフコースの元メンバー(1982年6月30日日本武道館10日間公演を成功させた後、事実上脱退)。血液型はB型。「博」には最後の画「`」が付かない。静岡県修善寺町に生まれ、横浜市磯子区にて育つ。実父は京浜急行電鉄の取締役を務めていた。 中学生の頃からアメリカンポップスに影響されギターを持つ。 聖光学院中学校・高等学校、東京工業大学工学部制御工学科卒業。 大学でロボット工学を学んでいた関係で安川電機に就職が決まっていたが、それを辞退し音楽家の道へ進む。 大学在学中に、小田和正らとオフコースを結成。当初はウッドベースを担当。その後ボーカル、ギターとして一時代を築く。 1983年、アルバム『Sincerely』でソロ・デビュー。 1984年 コカコーラのCFイメージソングを制作し、フジサンケイグループ広告大賞特別音楽賞を受賞。1985年 『City Woman』が黄桜酒造「黄桜マイルド」のCMソングに採用。 1986年 『TOGETHER』(ジョン・F・ケネディ大統領のカヴァー)がキリン「ラガービール」のCMソングに採用。 『エンドレスサマー』が東芝「インバーターエアコン」のCMソングに採用。 1987年 『STEP INTO THE SUNSHINE』が東芝「インバーターエアコン」のCMソングに採用。1988年 『おやすみマイ・ラブ』が三井ホームのCMソングに採用。 1991年 『サンクチュアリー』がシャープ「電子システム手帳PA-X1」のCMソングに採用。 1992年 『あなたに明日を』がドラマ30「ある日、突然…」の主題歌に採用。1999年 『Dream Dream Dream』が日本テレビ系「ぶらり途中下車の旅」のエンディングテーマに採用2000年 デビュー30周年 山本潤子、細坪基佳とユニット“Song for Memories”を結成 小田和正とは中学からの同級生である。知り合ったのは、中学受験のための進学塾。やがて高校時代、フォークソング・ブームのなかで2人を中心としてフォークソングを歌うようになり、これがオフコースの原点となる。生き返りの電車で、汽笛を勝手に鳴らす少年、小田和正をみておどろき、仲良くなり、自らもならす。塾がおなじ、小学からということになる、長い長いつきあいのはじまり。1969年に開催されたライト・ミュージック・コンサートでオフコースは2位となり(1位は赤い鳥)、オフコースはプロ入りする。しかしプロとしての活動にいささかの躊躇を見せ同時に早稲田大学大学院に進学した小田と違い、鈴木は大学院には落ちた?企業の内定を蹴って音楽活動に専念、アレンジの勉強を本格的にしていた鈴木は、小田にとって先生的な存在だった(『小田和正インタビュー たしかなこと』)。一方、鈴木は小田について「小学生のときバイオリンを習っていたので、早くから音楽に習熟していた。僕は小田に楽譜の読み方を教わった」と語っている。引っ張っていたのはたしかに、ヤスであった。オフコースのアルバムは小田、鈴木がほぼ同数の曲を提供していたところ「We are」からそのバランスが崩れ鈴木の曲が減るのだが、これは鈴木自身が曲を書けなくなったためだという。 受ける曲、ヒットするものとそうでないものは、実に不思議なものであり、いいかげんでもあり偶然でもある、しかし、ヤスと小田が同等であったはずが、どうも、さよなら 以降バランスが繰り始める、そういうのは、どこのグループでもあろう、誰でも、全員のコンセンサスを統一してやり遂げるのは本当に困難、上野博氏が、オフコースを売るためには、イメージ的な人間が必要で、小田を前面にだすという路線をだしていったので、バランスが崩れていったという話があるが、僕はそうは思わない。確かに、「さよなら」のヒット以降、1979年にあたりからかなりのファンが増えてコアなファンがチケットを取れないほど、1980年のオフコースファミリーの入会数はダントツおおい、コンサートでやる歌の反応が波を返すように小田の曲が人気なのがヤスのこころをどよめかしたのかもしれない、しかし、「さよなら」のインパクトの部分と、サポートする部分では、間奏の間を大切につなげる彼のすばらしいギターがある、コーラスがある、この音がないと売れなかったとおもう。しかしながら、親の大反対を押し切って、音楽の世界にはいる、自分の選んだ道。かれは、「いろんな音楽をやりたい、(オフコ-ス)という枠になかで、とらわれたくない」といっている。自分の代わりがオフコースにはいればいいとさえ、おもったいたのだろうか、以降、続く。名作ロンド