いくつかの場面
京都市下京区四条河原町にあったダンス喫茶「田園」でアルバイトをしている時、出演していたサンダースに声をかけられ、沢田はローディー兼ヴォーカリストとして加入する。その後、同じく田園に出演していたサリーとプレイボーイズのメンバーからリード・ヴォーカルとして誘われた沢田は、1965年12月に鴨沂高等学校を中退し、翌年の元日に正式にメンバーとして加入した。沢田の参加を機に名前を"ファニーズ"に改めたバンドは早速、大阪府道頓堀にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションに合格する。そして、その翌月から専属バンドとしてローリング・ストーンズなどの洋楽コピーを演奏するようになった。田邊昭知や内田裕也などに芸能界入りを勧められ、同年の10月にこの喫茶店で行われたオーディションに合格し、翌月に新幹線で上京する。初出演となったCX系列のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」の収録の日にすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられたあと、1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビューを果たした。この頃メンバーのニックネームが決まり、沢田はジュリー・アンドリュースのファンだったことから「ジュリー」と呼ばれるようになった1975年12月、帰京する沢田を待ち受け東京駅のホームに殺到したファンを整理していた国鉄職員の発言からトラブルとなり、相手を頭突いて軽傷を負わせ、さらに翌1976年5月、今度は新幹線車内で男性乗客に「いもジュリー」(「いもにいちゃん」という説もある)とからかわれたことからトラブルとなり、相手の口を殴って怪我を負わせた。一連の騒動によって沢田は6月15日から1カ月間謹慎。同年の「紅白歌合戦」や音楽賞に姿を現すことはなかった。1985年1月からの半年間の休養を経て、沢田はザ・タイガースの一員としてのデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立し、傘下に"株式会社ココロ"を設立。さらにレコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。また、自叙伝「我が名はジュリー」(玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。音楽面では、チト河内を中心に新バンドCO-CoLOを結成して活動を再開し、これまでと異なるアプローチで臨むなど、この年は沢田自身が語るようにターニング・ポイントとなった。1987年には離婚や恩師である渡辺晋の死、3月の京都公演中のステージからの転落事故とそれに伴う左肘骨折による1カ月の入院など、多くのアクシデントに見舞われた。この年の9月には、ファンクラブも解散している。その翌年には3年間活動を共にしたCO-CoLOを解散し、新たにKris Kringlを結成。また、同年の5月20日には、酒気帯び運転でタクシーに追突する交通事故を起こして書類送検され、1カ月の謹慎処分を受けた。なお、沢田自身が「太りやすい体質」と述べるように、この頃から沢田の体型の変化は顕著なものになる。2007年にはデビュー40周年、2008年には自身の還暦を迎えるにあたり、節目ごとに行われてきたような何らかのアニバーサリーイベントの実施が期待されている。現在も、毎年新曲とアルバムをリリースしてコンサート・ツアーを展開。年齢を感じさせないステージングでファンを魅了している。ここ数年はシングルとアルバムの制作、正月とアルバムリリース後のコンサート・ツアー、それに年1-2回の舞台出演がワーキング・パターンとなっている。ここ