叙情派フォーク
叙情派フォークとは、いったいどうおうのをさすのか考察してみた、フォークは、岡林、高石あたりが源流となり。彼らに感化された学生が、それぞれ、東京横浜大阪神戸福岡などでカレッジフォークに発展した、メッセージ性があり、反体制、平和運動、学生運動などが主体となり、アマであり、非商業的でもあった。京都では、北山修、杉田ジローなどが活躍、しかし、フォークの挫折は、学生運動鎮圧、ベトナム解放、過激派テロなどによりメッセージが社会的であるより、個人的な問題に移行してゆく。そういうなか、あらわれてきたのが、叙情派フォークでは、ないだろうか。やはり、グレープの登場が大きな影響を音楽界にか持ち出した。彼らの登場は1972年である。オフコースは1969年である。同時期バズ(BUZZ) はフォークグループ。小出博志(こいで ひろし、1951年2月13日 - )と東郷昌和(とうごう まさかず、1952年4月29日 - )の二人組。小出博志は東海大学在学中に「インディアンアップル」というバンドを結成。その後高橋信之を中心としたグループ「ステージフライト」に参加。東郷昌和は中学時代に同級生の高橋幸宏(高橋信之の弟)と「ブッダズ・ナルシィーシィー」というバンドを結成。高橋信之のプロデュースでフォークグループを結成、1972年に『ケンとメリー~愛と風のように~』でデビュー。ふきのとう 1973年にコンテストに多数出場し、ヤマハ・ポピュラーソング・コンテストにて『夕暮れの街』で北海道大会入賞。1974年に『白い冬』でデビュー。以後『初夏』、『風来坊』、『思い出通り雨』、『流星ワルツ』、『春雷』、『やさしさとして想い出として』などがヒット。NSPは、岩手県出身の三人組の歌手。 国立一関工業高等専門学校の同級生であった三人が在学中の1972年に結成した。ガロ ガロという名前は、当時ザ・タイガースのマネージャーで三人の世話役でもあった中井國二が自分の子供にと考えていた「我朗」からとった。松崎しげるらと「ミルク」という名のバンドを組んでいた堀内と日高に大野が加わり結成。当初はCSN&Y(David Crosby, Stephen Stills, Graham Nash & Neil Young) のコピーバンドであった。かまやつひろしのバックバンドを経て、ミッキー・カーチスのプロデュースで、1971年にシングル『たんぽぽ』でデビュー。初期において、高橋幸宏、小原礼などがバックアップメンバーとして参加していた。彼らがそれぞれの世界を構築し、単に ひとつのくくりのするのは、考え物だけど、おそらく、彼らは、サイモントガーファンクルの影響を受けているとおもう。ビートルズの影響もあるが、当時のおそらく土井まさるの深夜ラジオで洋楽を聞いたんだろうとおもう。そして、もちろん、ボブディランの影響も。彼らの歌は今聞いても、ほのぼのした感じがするし、思春期のもやもやとしたものを思い出す。この時期、拓郎が売れまくる、それとは対照的なのが、この人たち。それに、謎のおおい、井上陽水。彼もすごい売れた、長者番付にも拓郎とのる、拓郎は、商業主義的と、初期のフォーク世代から非難などうける。しかし、陽水は非難されない。フォークをこの1970年代全般のアーチストたちは、ライブという形で表現しテレビなどにはでないようにしていた。東芝EMIが、ユーミンやオフコースLIPなどをまとめてイメージとして売るの言葉がニューミュージックという言葉になった。まったくをもって、いまにしても、不思議な言葉だ。1970年後半になると、電気的な要素を入れた演出がはやり、フォークより、ロックが基本となってゆく。そんな中でもスタンスを変えないものや、自己否定しつづけるものやロックにかわるものや、いろいろある。飯をくうためには、プロで、ヒットを出すためには変革していかなけらばいけない。我らがオフコースもそうだし、アルフィーもそうだ。吉祥寺フォークは、もうよくぞ、残っていたとおもう。ぼくがフォーク歌手なら、どう生きただろうか、ずっと、斉藤哲夫のようにやっていたとおもう。