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2011.12.19
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カテゴリ:表沙汰

 理を知らぬ人、感を知らぬ人、全てがいずれであるかは解し難い。少なくとも今は理の時代であり、理の論理が最も輝く時代である。哲学というみじめな物体のなかの、現代哲学は理である。理が"μετρον αριστον,最良の尺度"である事は解る。ちなみに、何か"ひとつのもの"が最良とかではなく"万物が尺度である"ことも解る。しかしながら、理で理解するように自分の脳が出来ていない。ちまちました歴史考証や読解よりも議論が中心になる事は哲学において最も大切だと思う。でもどうも体がついていかないで、ちまちました歴史考証や読解だらけの古代哲学についていってしまう。歴史考証や言語読解なんて嫌いなのに。議論するべき原本として。古代哲学の原本は根拠が無い。だから歴史考証や言語読解で終わってしまう。ただ、それをそもそもはじめようとしていない。現代の哲学の常識になじめない。ある種の理になじめないのだろう。今や現代哲学よりも科学のほうが感の世界、神秘的な世界といえる。妙な理によって哲学本来のみずみずしさや芸術性から遠ざかっていくようだから。かといって古代の歴史考証や言語読解は哲学ではないから嫌い。そう考えると中世哲学が一番面倒くさい。哲学というのはみじめな分野だ。だから、哲学をやっているなどと自称することはないだろう。

 相対主義を信仰している。というのも、自分にとっては心の何処かで極論としては「はい」は「いいえ」であるという論理を持っているから。「万物はウロボロスである」と言いたいのかもしれない。言えたらおもしろいのになと思ってるのかもしれない。言うならば中庸が最も美しいというアレだ。「神は居る」は「神は居ない」と同じと考える。「それは美しい」は「それは醜い」ってこと。+30も-30と同じと考える。そこで最も美しい(sch?nheit)のは+30でも-30でも±30でもなく、絶対値の30だと。それが真実(アレーテイア)に最も近いと。ただ、それがもっとも美しいと思っているだけで、確証は一切無い。人間、確証を得ようとするとそれだけで人生が終わってしまうきがする。だから、ひとは「一巡した、こまけぇことはいいんだよ」が重要なのだと。細かい事を気にしたあとに、細かい事を気にしなくなる事が良いかと。





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最終更新日  2011.12.19 19:30:35
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