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カテゴリ:音楽・ザ・ビートルズ
エリック・スチュワートはウェイン・フォンタナ&マインドベンダーズのギタリストとしてレコード・デビューを果たした。このグループはその名が示すとおりにWAYNE FONTANAがリーダーとなったバンドではあるが、1965年に『THE GAME OF LOVE』が全米1位を獲得した。その後はヒットは出せずフォンタナはバンドを辞めてしまった。残されたメンバーで活動を続行して『A GROOVY KIND OF LOVE』が翌年に全米で2位を記録。バンドは解散後この時のメンバーだったERIC STEWART,GRAHAM GOULDMAN(グレアム・グールドマン)がコンビを組んで後に知り合ったKEVIN GODLEY(ケヴィン・ゴドレー)とLOL CREME(ロル・クレーム)と一緒に結成したバンドが10CCだ。 1973年にレコード・デビューを果たしたバンドは順調に活動をスタートさせて、1975年には最大のヒットでロック史にも残る名作『I’M NOT IN LOVE』を発表した。この曲は全米で2位を獲得するヒットを記録して、度々カバーもされている。中でも1991年にウイル・トゥ・パワーによる現代的なアレンジによるカバーはトップ10に食い込んだ。 しかし、グループは徐々にその方向性を巡って意見の対立が表面化した。結局スチュワート&グールドマンのコンビは10CCに残留し、ゴドレー&クレームは離脱した。後者は80年代に入って映像分野で偉大な足跡を残し、数多くのアーチストのおPVを手がけた。どれも当時は斬新なイメージで作られていて、MTVなどを通して視聴者の度肝を抜いていった。 さて本題のエリック・スチュワートは1979年に交通事故で重傷を負い長期入院を余儀なくされた。ザ・ビートルズの中ではポールが10CCのメンバーとは密接に関係があったようだ。10CCが考案した実験的楽器<ギズモ>にポールも関心を持ち、<LONDON TOWN>のセッションでも用いて実際に演奏までもした。そして、ポールはウイングスが解散後にソロ・アルバムの制作に着手した。固定メンバーを失ったポールは親交のあったエリック・スチュワートを呼んだ。彼も10CCの活動は開店休業状態だったので、ポールのレコーディングに参加した。 参加したのは『TUG OF WAR』~『PIPES OF PEACE』~『GIVE MY REGARD TO BROAD STREET』~『PRESS TO PALY』+アルバム未収録のインスト・ナンバー1曲の期間だ。一方ポールはエリックの10CC名義のアルバムには『...MEANWHILE』、『MIRROR MIRROR』に参加。前者は1曲提供しただけで、その曲は『PRESS TO PLAY』での共作曲で未発表になった曲にグレアムが歌詞を追加したものだ。後者では2曲で参加してうち1曲は共作している。 ポールにとって70年代はウイングスのデニー・レインが常に脇役で支えてきた。80年代は中盤まではエリック・スチュワートが右腕となって支えてきた。最初に三作では演奏とコーラスでの参加だったが、『PRESS TO PLAY』では半分以上の8曲を共作して支えた。しかしこのアルバムはポールの80年代の中でも、結果的には商業的にも音楽的にも振るわなかった。エリックにとってポールは、自分が音楽的に憧れていた人物であり曲調も似ていた。ポールはエリックにジョンのようなパートを求めていたのだろうが、エリックには出来なかった。しかし別にこれをもってエリックの才能が否定されたわけでは決して無いと思う。 当初の二作では曲作り以外のほぼ全ての曲でギターやコーラスに参加。そして何とPVの『SO BAD』ではポール夫妻とリンゴ・スター、エリック・スチュワートのスタジオでの演奏シーンが観れる。このPVは似た内容の二つのバージョンが有るが、演奏するバックにはリンゴとポールの写真とともにエリックのもある。PVでは他に『PRESS TO PLAY』の中の『ONLY LOVE REMAINS』でのスタジオでの演奏でアコギを弾いている姿が映る。 ザ・ビートルズのメンバーとの交流では、自分が知る所ではポールとが一番親交が深いだろう。ポールとは’60年代のビートルズ時代から親交があったとも言われている。リンゴとはポールのアルバムで一緒にセッションをしているが、リンゴのソロ・アルバムには参加してはいないと思う。ジョージとの交流関係は不明だし、ジョンとの交流も無いものと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.08.15 12:44:27
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