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マックの文弊録

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2008.02.12
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カテゴリ:小言こうべえ
◇ 2月13日(水曜日); 旧正月七日 癸未; 旧七草

絶滅危惧種というと、どっかの田圃の用水に棲んでいる小さな魚とか、里山の隅に咲く花とか、要するに生き物の事を云うのが普通だけれど、生き物でなくても我々の生活に恐らくはこれから甚大な影響を及ぼすであろうものやしきたりの中にも絶滅危惧種が増えていることを忘れてはならない。

銭湯もその一つだ。
僕の子供の頃は借家住まいだった。父親が小学校の教員で、「転勤が多いから」というのが表向きの理由だったが、恐らくはそうじゃなかった。東京から岐阜に移り住んで、そこで小学校教員の職を得た父にとっては、当時一戸建ての家を持つほどの経済的な余裕は無かったのだというのが本当のところだと思う。第一転勤による引越しなど、僕自身は一度しか経験していない。

養うべき家族や母親弟妹を抱え、裕福でもない地方公務員が借りられる家には風呂などはない。というより、家に風呂があるという所帯自体が当時は少なかったと思う。だから、風呂と言えば銭湯だった。
その代り、銭湯はそこいら中にあった。子供の足で歩いても10分以内の距離に、二三軒は有ったと思う。近所の家並みから抜きん出て大きな煙突があり、何故か植物系の名前が付いた、松の湯、桐の湯、竹の湯、梅の湯などという屋号が普通だった。

大抵の男の子がそうだったと思うが、はじめて性に目覚めるきっかけは概ね銭湯であった。(或いは学校にあった「竹登り」という遊具であった。)男の子は小さい内は大抵母親に連れられて銭湯にデビューする。入るのは無論女湯だ。そして小学校の低学年から中学年になる頃に、男湯に行くようになる。僕自身、小学校の3年頃に「未だお母さんと一緒にお風呂に入っているの!?」と誰かに言われて、それまで何の抵抗も無く女湯に入っていたのが急に恥ずかしくなり、それ以降断固女湯に入るのを拒否したことを覚えている。

男湯に「出世」すると、途端に周りの「先輩」たちが気になる。
女湯でお湯をはね散らかしても何でもなかったのに、男湯では途端に怒鳴られる。
乱れ籠に脱衣する時は、下着は一番下に置いて上着を重ね、下着が人目につかぬようにしろ。湯殿に入ったら、先ず掛け湯をして体を清めよ。湯舟の中で暴れるな、騒ぐな。周りに聞かずに冷水で湯を埋めるな。石鹸の泡をはね散らかすな。体の石鹸をしっかり落としてから湯舟に入れ。湯舟の中で手拭を使うな。
などなど、大勢の人が共用する銭湯には、暗黙のうちにこういう決まりが有って、それを守らないと叱られた。親にだけではない、見知らぬオジサンにも容赦なく叱られたのだ。
これは規則ではない。しきたりであり作法なのだ。

僕自身は銭湯が大好きで、こういった作法には極めて従順であった。何より広い洗い場に据えられた大きな湯舟にゆったりと浸かるのが大好きだった。緑色や茶色の湯で匂いのある薬湯や、電気風呂のビリビリくるのも好きだった。それに、高い天井に人の話し声や桶の音が響くのも好きだった。知らない人やご近所の顔見知りが入り混じって全裸で適当に交流しているのも好きだった。

その銭湯が今や絶滅危惧種なのだ。
そうなると銭湯での作法も自ずと滅びる。
銭湯の滅びは「町内」の滅びとも連動している。地価の高騰によってそれまでの宅地が高層住宅化し、風呂付の所帯が折り重なって出現した。同様に地場の商店が大規模店舗によって取って代わられ、ご近所の魚屋さんや豆腐屋さん、床屋さんが銭湯に来る事も無くなった。町内の滅びは、町内の作法の亡びでもある。

作法と云うのはルールとか規則とか云うものとは違う。作法は、要するに何人かの人間が集まって、共通する空間でそれぞれが何かをする際に、お互いを不快にすること無く、折り合いを付けるための「型」であり「所作」である。そしてそれはお上から与えられたものではなく、自ずと守るべきものとして親や先輩から継承されるものである。
作法を守らぬことは、罪ではなく恥である。与えられる罰は、罰金でも服役でも無く、周りからの侮蔑とその結果の孤立である。人間にとって(少なくとも日本人にとって)蔑みを受けることこそ、最も辛い罰であった筈なのだ。

我々が気にかけるべきは、生き物の絶滅危惧種だけではない。
暫く前までは、当たり前であったはずの作法や美風も絶滅危惧種として、大いに心を遣るべきだと思う。生き物の絶滅を防ぐのは非常に難しいことだし場合によっては自然と云うものに逆らうこともあり得る。
しかし、作法は心がけと伝承、教育によって絶滅を防ぐことが出来るのだ。


ところで銭湯が絶滅すると、蕎麦屋も滅びるのかもしれない。

昔は銭湯の隣には蕎麦屋があった。江戸っ子は銭湯の帰りに蕎麦屋に行って一杯ひっかけ、蕎麦切りを一枚すすって帰るのが常だった。だから銭湯の入湯料とざる蕎麦一枚の値段はほぼ同じだった。そういう風だったから、蕎麦屋には本来座敷など無く、片上がりの席だけが有って、其処に片足と尻を乗せて蕎麦を食い終わるとさっさと帰るのが作法だった。「蕎麦屋の長っ尻」というのは、粋じゃないといって嫌われたものだ。
青年時代までは東京に居た亡父から昔教わった話だ。
尤も、父は蕎麦は嫌いでうどんの方が好きだったから、余り信用できる話ではないのかもしれない。






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最終更新日  2008.02.13 02:24:30
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