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マックの文弊録

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2010.01.22
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カテゴリ:よもやま話
☆ 1月23日(土曜日) 旧十二月九日 癸酉(みずのと とり) 友引: 上弦、奈良若草山山焼き

【官僚社会って凄いねぇ!】
暫く前から霞ヶ関周辺では官僚制度に関する議論がある。
官僚の天下りを全面的に規制するという話だ。国会で官僚の答弁を禁じるという議論も有る。これを一言で「脱官僚」と云っている。

殆どの国民は、「なぜあんなに官僚や官僚制度を眼の敵にするんだろう」と不思議に感じていると思う。官僚ってそんなに悪い人なの?・・・私もそう感じていた。

大きな企業では普通親会社というのが有って、その下や周りに子会社が幾つか有る。親会社に入社した人間は、往々にして子会社のトップや上層部に天下っていく。それが普通である。子会社の生え抜きからすれば、面白からざるところがある。あるけれど、それはそれでしょうがないと思っている。世の中とはそういうものだという諦念もある。

官では、誰かがピラミッドの上方に昇ればその同期は去るという不文律があって、実際に今までそのように運用されている。該当外の同期は未だ若く、そのまま勇退して悠々自適の生活に移るなど出来ない。それに日本の官僚の給与は、民間大手企業の同期と較べて廉い。受験戦争を勝ち抜いて優秀な大学を卒業し、難しい選考を経て、日夜公に奉仕してきたのに、これでは不公平だ。まだ充分働ける人材を活用しないのは、わが国の資産の無駄でもある。そうであれば、「天下り」は止むを得ないし、むしろ当然のことだ。官僚に、一律全面的に「天下り」を禁止してしまうのは、個人の職業選択の自由を奪うのと同じで、酷い話ではないか。

官僚の国会答弁を禁じるのも同じだ。
行政の現場に携わり、その詳細を知悉する人間が、国会で答弁をするのはむしろ実際的ではないか。国会の場で官僚の答弁を禁止のは、これも言論の自由を保証した憲法の精神に悖るではないか。

大多数の国民の「印象」を要約すれば、大体こんなところに落ち着くのではなかろうか?


先日、海堂尊さんの「イノセントゲリラの祝祭」を読んだ。(2010年1月、宝島社刊)
私の読み方が偏っているかもしれないが、これを読むと官僚機構がどういうものであるかが分かるような気がして来る。
そういうものを分かった上で(或いは分かった積りになった上で)、官僚の天下り規制や、国会での発言禁止の動きなどを改めて眺め渡してみると、こういった動きの最終的な帰趨はさて置くとしても、少なくとも「脱官僚」の動機は分かってくるように思える。

これに関して感じたことを、思いつくまま適当に列挙してみよう。

(1) 官僚たちにとって官僚機構は至上のものである。
国益という言葉がある。われわれ国民はこの国益を素朴に「国のための利益」と考える。そして「国」の中には当然自分たちも含まれると無邪気に思っている。つまり私たちは「国益=国の利益」と考え、「国 ⊇ 国民 ⊃ 自分たち」と考えているのである。そうでしょ?
しかし国益を具体的に考えるのは意外に、しかも結構難しい。利益とは遍在するものではなくて局在するもの。局在することで初めて利益と呼び得るものである。万民に遍き利益など分かりにくいし、事実有り得ないのだから。

官僚は「国益=省益」と考えるようだ。
一見思い上がりであるように見えるが、必ずしもそうではない。日本の官僚機構は明治の構築以来営々と磨かれてきた精緻な構造体である。日本の中でも頭脳の最も優れた部類に属する人たちによる、世界に冠たる組織である。そこには一貫して「日本国のため」という信念があった。だから国益という曖昧なものを捉える時には、「省(庁)益」という物差しで優秀な頭脳が考えるのが最も確実だし、信頼できる。
そういう理屈が成り立つのである。


(2) 官僚は常に「我が省益」の拡大を考える。
社会や世界は常に動いている。それに対して行政の側、つまり官僚機構にも動態対応が求められる。その際に問題になってくるのは、事態が変化し動いていることによって生じる境界領域だ。こういうところは、権限や責任の所在が従来の官僚機構では想定されていなかった、所謂グレーゾーンになってしまうことが多い。又、既存の事柄であっても、複数の官庁の権益が重なっている場合がある。これは、社会や世界が本質的に、常に動いて変化しているのだから当然である。
こういう場合官僚は必ず、「我が省」の既得権を守り、出来るならば(出来る限り)それを拡大すると考えるようだ。

官僚にとって「我が省」は聖域である。「我が省」の高度に鍛え上げられた機構と、優秀な人材が力を揮える局面が多いほど、結果として国益の伸張に繋がる。そのために他の省庁に、既存であれ新しいものであれ聖域を譲るなど、国のためにも国民のためにも悪である。むしろ、「我が省」は他省庁を圧して自らの領域を獲得していくべきである。
それに他の省庁も同じ理念で、同じ目的意識を持って、同じことをやろうとするから、当然そこには競争が生じる。そういう競争は当たり前のことだ。その結果、より洗練された、強力な行政機構が実現され得るのだから、大所高所から見ればむしろ国のためになる。

再びそういう理屈が成り立つのである。


(3) 官僚は地位に恋々としない。
再び、キャリア官僚達は「頭が良い」。しかし、「頭の良さ」にも色々な定義があってよく分からない。どうかすると哲学的な議論にまでなるのでここでは止める。少なくともキャリア官僚になるためには最優秀の大学に行って、最難関の一つである選抜試験に勝たなければならないから、頭が悪くないのは当たり前だ。

頭の良い人は、一瞬の間に一つのことを多様な側面から考えられる。そして更にその先、つまり「我が省」の利害得失までを考えることが出来る。一つのことに熱くなって、凡人と喧々囂々するなど愚かである。静かに承って旗色を顕わにしない方がよほど賢明だ。

頭の良い人は、ここでは高級官僚は、従って物静かである。声を荒らげることなどしない。そんな事をすれば、相手と同じレベルに堕ちる。官僚の本分は広範な意見や異見を聴取し、それを行政に反映していくところにあるのだ。
官僚は言葉遣いも慎重で、決して単刀直入な物言いをして不用意に言質をとられたりはしない。「公平中立」ではなく「偏向偏重」と疑われるからである。
だから漢語を多用する。漢語は、難しい漢字を使うし響きは重々しく、背後に深い思量と識見を感じさせてくれるのだ。

海堂さんの小説にも「医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室」が「発展的に」解消され、厚生労働省医政局長の私設懇談会『診療関連死死因究明等の在り方に関する検討会』が設立されたりしている。これを一息で舌も噛まずに言える人は、官僚になる素質を多少はお持ちだといえる。且つ、言えるだけでなく意味が分かり、おまけにその背景や意図まで読み解けるのであれば、これはもうかなり官僚の素質があるといえよう。

但しここで一つ注目すべきは、高級官僚は大半が「無私」だということだ。「国益=省益」という等式にはその先に「私」という項は含まれていない。つまり、官僚はその頂点に近いほど省益(つまり国益)に忠誠を誓っており、自らはその省益(つまり国益)を支える、重要ではあっても一つの機能要素だと考えている節がある。
だから人事異動に際しては淡々と辞令に従うし、同期が次官になれば潔く去る。官庁で事務方(官僚のことをこうも呼ぶ)が異動したといって、それが大々的にニュースに報じられたことは無い。又、ヒーローや有名人として騒がれたり讃えられたりする官僚がいないのも、同じ理由である。
官僚は官僚機構の守護者であり、無私の奉仕者である。但しこの奉仕は直接国民や社会には向かわない。常に「我が省」を通してのものである。そこに官僚としての誇りと矜持があるようだ。そしてそういう考えが畢竟国の為になるのだという信念がある。その信念に邪念も私欲もなく、従って「省益=国益」という等式は無矛盾に成立し続けるのだ。

官僚の中にも、独自の思想や理念を掲げ、且つ自己顕示欲の強い人だって居る。しかし、そういう人は遅かれ早かれ政治家になっていくのだ。

官僚はあくまでも怜悧で寡黙で目立たない事を通じ、省益と精緻な官僚機構を護持していく、清廉で高貴な上流階層なのだ。


(4) 官僚と政治家。
こういう構造の官僚機構とうまく折り合ってきたのが、長きにわたった自民党政権である。自民党はいい加減なごまかしを言わない(本音がバレるからだ)。自ら国を構成する、ある地域や団体の利権代表であると公言はしないが、さりとて隠しもしない。しかし国会や、国権を発揚する局面では、これを国益として止揚しなければならない。そこで、「無私」であり省益=国益を至上とする官僚機構との相補的な関係が生じる。自民党政権にとって、官僚機構は頼りになる顧問であり執行者であった。官僚機構にとって、政権自民党は自らの聖域を保障してくれる守護者であった。
以前の歴代の総理大臣は、具体的な事を問われると、「その辺は、各省の司々が・・・」と答弁するのが普通であった。そうだったでしょ?

官僚は執行者だと書いたが、実は執行者というより「執行に際しての制度設計者」と言うほうが正しい。優れた頭脳を駆使して、実に精密に制度設計を行うが、その結果を実際に執行していくのも、その結果の良し悪しを実際に受け取るのも官僚ではない。執行の結果に際して責任を負うのは省にとって危険である。だから、人事異動を行って担当者を入れ替えたりして、具体的な責任をぼかしておく。官僚の言葉に漢語が多用され、つまりはどうとでも取られるようなものになるのも、自己防衛のための手段なのだ。

官僚との共存期間が長くなると政治家の言葉遣いも似てくる。
「良く知らないけれど、本当なら残念だねぇ。でもワタシは悪くないよ。謝らないよ。」というのは、
「そのような事実があったとすれば、まことに遺憾な事だと存じます。」となる。

「そんなに云うんなら考えてもいいけれど、あんたが言うほど単純で簡単じゃないよ。いつになるか分からないよ。何なら自分でやってみな。」というところは、
「ご指摘に関しては、慎重且つ包括的に総合的見地また国際的な見地からも検討を重ね、総合的に且つ可及的速やかに対処すべく鋭意努力をして参る所存でございますので、何卒ご支援のほどお願い申し上げます。」となる。

ちょっと気になるのは、今週から始まった国会で、民主党の鳩山さん辺りに良く似た表現が見られるようになったことだ。

民主党の政権交替の意義は、国益=省益の構図を変え、国益=国民益にするところにあった筈だ。
だから、「脱官僚」が象徴的旗印になり、その結果官僚機構からの大同団結した反撃を、特に官僚を敵に回した本陣に喰らっているとも云えなくない。
かつての与党は搦め手からこれを応援しておけば、清潔な政治という大義名分を振りかざすことが出来る。それによってあわよくば権力を再び奪還できるチャンスもあるし、その場合には以前の官僚機構との関係を修復、再現できる。

私は海堂さんの小説に影響され過ぎてしまったかもしれないが、民主党の掲げる脱官僚の思想と、今国会での政治献金問題は関連しあっているものであり、それだけに今後とも尾を引いていくという気がしてしょうがないのだ。
そして、やはり官僚機構というものは不気味だし、白を黒だといい、黒を白だといって、実は灰色になったと思ったら、最終的には無色になったというのは、ミステリーとしては面白いけれど、現実にはやはり気持が悪い。

しかし、いずれにしても「国益=国民益」という等式を(間に省益が入ったって少しは良いと、私は思うけれど)しっかり組み上げ、そしてその「国民」には、あなたも私も確実に含まれているように、ちゃんと見守り、必要に応じて声を上げたり、場合によっては行動も辞さない心積もりをしておくことが大事だと思うのだけれど。





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最終更新日  2010.01.22 19:55:18
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