355981 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

マックの文弊録

マックの文弊録

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2010.09.13
XML
カテゴリ:よもやま話
☆ 9月13日(月曜日) 旧八月六日 丙寅(ひのえ とら) 先勝: 

9月8日には旧暦でも八月になった。この日は二十四季の「白露」でもあった。さしもの連日の「記録的」猛暑もそろそろ秋の空気に主導権を譲るであろう。そうあって欲しい。本当に。

さて、先日私の書いた全国高校生クイズ大会に関するブログに、「・Hさん」という方からコメントをいただいた。この方から戴くコメントには、侮るべからざる慧眼が透けて見え、読み流すにはもったいない話が出てくる。今回は・Hさんのコメントに触発された内容で書いてみることにした。

先ず、面白いクイズ(算数の問題?)から:(以下・Hさんからのコメントを、そのまま引用掲載します)
『多分ご存知だと思うのですが、『遺言で、3人の息子に馬11頭を、長男には1/2、次男には1/4、三男には1/6を与える』と言う問題です。
もちろん、このままでは旨く分けられないので、1頭借りてきて、12頭にして、長男には6頭、次男には3頭、三男には2頭に分け、余った1頭は返すと言うのが答えになっていて、解説では 1/2+1/4+1/6=11/12 で1にならないからそれを利用して配分した・・・となっていた筈です。
全体が1にならないように財産を分けるのでは余りが出るはずなのにそうならない分け方は正しくないとずっと思っていました。しかし、連分比に分けると言う解説に出会って氷解しました。
つまり全体を 長男:次男:三男 = 6:3:2 となるように整数で分ける問題だったならすぐ解けるが、全体を12で除して分数にして解り難くした問題と考えれば良かった訳です。
 長男:次男:三男= 1/2:1/4:1/6 = 6:3:2
これならば完璧な解説だと思うので、数学だって答えが変わる事もある(?)かもと思いつつ、小学生時代から悩ましつづけた解説者でてこ~い! と言う気分でもあります。』

これは、ちょっとトリックみたいに感じられる問題だが、分数についての私達の先入観(?)が邪魔をしているようだ。
私達は多分小学校の頃に、一つのもの(多分お饅頭とか大福とか、何れにしろ子供の興味を引くようなもの)を幾つに分けるか、という形で分数を教わったのではないかと思う。
だから、「長男には1/2を、次男には1/4を・・・」と聞くと、それぞれのフレーズの前には「全体の」とか「全部の」という接頭辞(?)を無意識に冠して考えてしまうのではないだろうか?つまりこの場合、「何分の一」というのを相対数で考えているのだ。(相対数は自分自身では定まった値を持たない。)

だから長男から三男までの「全体に対する取り分」を合計すると11/12になってしまって、遺産の馬を全て「余りなく」、且つ「生きたままに分ける」という(これも問題の暗黙の前提になってしまっている)話にはつじつまが合わなくなってしまう。

一方で分数は、絶対数と考えることも出来る。1/2=0.5でこの値は一意的に決まる。1/4=0.25で、1/6=0.16・・・・だ。この3つの数を整数比で表すと・Hさんのコメントにある「連分比」になるのだ。ここには「全部」とか「全体」という概念は全く無い。
実際長男の「馬6頭」というのは、全体の11頭の1/2ではない。

そうすると、この問題は分数に対して、教育の過程で出来てしまっているかもしれない先入観を取り除くためのものなのだろうか?

ところで、遺産相続の際に、父親は「お前には馬11頭の1/2を・・・」と、本当は言ったのではないだろうか?
父親は口蹄疫や何やらで、畜産業の辛さや大変さを厭というほど痛感してきているので、息子たちには同じ苦労をさせたくない。それに息子たちにも、今まで自分が体験してきた苦労に耐えていけるほどの能力も無さそうだ。
それで、遺贈にあたっては、馬を処分して馬肉にしてそれを分けろと、暗に言ったのではないだろうか?最後に残る1/12の部分は、・・・屠殺・解体業者への手間賃だ。
そうなると、このお父さんの、出来の悪い息子たちへの愛情と、深慮遠謀が見えてくるではないか?

もう一つ、・Hさんはコメントの中でこうも仰っている:
『確か法的には、クイズ番組の正解は、製作者側が事前に用意した答えと一致したら正解で、仮に事前に用意した答えが誤りで解答者が正解を言ったとしてもそれは『番組上解答者の誤りとして処理して良い!!』となっていたと思います。
受験と言う公的な場面では正解か誤りかが客観的に論議され、正しい方向に導かれるのですが(多分)、クイズ番組と言う閉鎖的な環境下では誤りが大手を振るうこともあると言う恐るべき判例だったのでなんとなく覚えているのですが、うろ覚えなので間違っていたら御免なさいです。^^);』

・・・へぇ、そうなんだ。
そうだとすると、最近頻繁に行われる世論調査なども怪しくなってくるな。あれは、三択とか四択のクイズみたいなものだ。最終的「正解」は用意されていないけれど、答えの候補が調査の主催者側で用意されていることは変わりない。
それに問題(調査の設問)の作成は調査する側の恣意に任されている。

「○×党が消費税率のアップに言及した事に対してどう思うか?」;(1)賛成、(2)どちらかといえば賛成、(3)どちらかといえば反対、(4)反対、(5)どちらともいえない。
世論調査の際の典型的なパターンだが、これなど設問の文章に工夫すれば、(「今の経済状況が続くとして」などと前提を述べる、或いは逆に前提には全く触れない。又は「国民の生活にとって重要な意味を持っている消費税ですが・・・」などという「前句」を入れるなどなど)幾らでも答えの傾向を誘導できる。

政党支持率や時々の政治の案件など、或いは最近では死刑の是非や、臓器移植の問題で頻繁に世論調査が行われ、その結果が報道され、私達はそれを「世論」だと、そのまま比較的素直に受け取ってしまうところがある。且つそれが政策などに「国民の意向」ということで採用もされる。

世論調査も元々「正解の無い」クイズである以上、そこに何がしかの意図が働く(又は働き得る)ということになるとすれば、私たちとしては大いに注意してかからなければならないと思う。


クイズの「正解」が極めていい加減なものであり得ることは、・Hさんのコメントでよく分かったが、これはやはり受験の世界でも大同小異であると思う。

例えば、私たちの年代は、「大化の改新、虫五匹」と覚えた。つまり大化の改新は西暦645年の出来事であったと。ところが最近は646年であると聞いたことがある。

つまり、皇極天皇4年(西暦645年)6月12日、中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となって、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺した。これを乙巳の変(いっしのへん)というが、それを以って大化の改新としていたのが、私たちの教わった日本史の「正解」だった。

ところが、乙巳の変の後、孝徳天皇2年(大化2年:西暦646年)春正月に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革を「大化の改新」とする。これが「正解」だとされる説もある。
そうだとすると、今私たちの年代が受験すると、少なくともこの問題では「不正解」になるのだ。

また、生物の分野では、私たちの頃は「人体必須アミノ酸」は10種類とされており、ブログでも書いたとおり私達はそれを「雨降り一色バス」と覚えた。それが正解だった。
今は、アルギニンは成人では体内合成が出来ることが分かり、人体必須アミノ酸は9種類が「正解」になっている。「雨降り」の「ア」が無くなってしまったのだ。これも、私達は「不正解」となるのである。(但し、アルギニンは幼児期、成長期には産生能力が低く、成長期の需要には追いつかないため、この時期に限っては「必須アミノ酸」扱いされているそうだ。)

こういう問題は他にもいくつもある。
私たちの頃は、「水金地火木土天海冥」が太陽系の惑星としては「正解」だったが、今では冥王星は「準惑星」に格下げになってしまったので、「太陽系を構成する惑星は8つ」というのが正解である。

こうして見ると、「正解」というものには絶対性が無いということが出来そうだ。
時代によって、或いは学問の進歩によって、場合によっては社会制度・政治体制の変化によって、その都度「正解」とされるものは変わり得る。
そうなると受験だってクイズだって、前提条件や断り書きを付けなければならなくなるから、問題文は長ったらしく煩瑣になりがちで、特にクイズの場合には面白くなくなってしまうだろう。

結局「知識」よりも、「考える能力」を評価するのが、特に受験などの場合には大事になるが、この「考える能力」は、一律に評価するのが殆ど不可能なくらいに難しい。それに「考える能力」は、やはりある程度までは知識に裏打ちされたものでもある。

さて、・・・どうなんだろうか?
高校一年で高等学校の全過程を終えてしまい、後はひたすらに受験勉強にいそしむ(といわれる)開成高校なのか。
大学入試がなく、自由に活動できる(といわれる)慶應高校か。
或いは、高校時代から大学の教師を招いて、大学基礎級の内容も教える(といわれる)浦和高校か。

或いは、いっそのこと高校や大学などどうでもいいから、「大人」になってから興味や関心の赴くままじっくり勉強する方を重視するのが良いのか。
実際、友人の話によると、今は大人の知的好奇心や向学心を満たすための、本格的な学術書や準学術書が隠れたブームになっているのだそうだ。

色々考えてみると、日本の大学というものが、最高学府として真理を探究する場としての性格と、社会の様々な現場で活動していくための知識・技術を習得する場としての性格を共に併せ持ち、それぞれが相互に整理されていないというところに行き着くような気がする。
この問題は、重すぎるため又何処かで取り上げてみたいと思う。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2010.09.13 16:16:45
コメント(0) | コメントを書く
[よもやま話] カテゴリの最新記事


PR

プロフィール

求連帯而懼孤立!

求連帯而懼孤立!

ニューストピックス

カレンダー

バックナンバー

2024.06
2024.05
2024.04
2024.03
2024.02

カテゴリ


© Rakuten Group, Inc.