根室振興局地域政策課のヒストリー・ハンター(仮)裕です。隔週ペースで根室管内の遺跡・遺産をご紹介します。
古くから漁場として栄えた根室管内は色々な人たちが暮らしてきました。その足跡は様々な場所で、いろんな形で残っています。古代から近代までねむろの歴史とともに、地域の話題を簡単にお伝えしていきたいと思います。
わたしと一緒に、ちょっと昔に思いを馳せてみませんか?
前回の「ちょっと歴史たび」では蝦夷の測量についてご紹介しました。
これは、「日本の姿を知りたい」という知的好奇心に加え、「北方から来航するロシア帝国に対抗する」という目的も含まれていました。
幕末には、仙台藩を初めとしたいくつかの藩が蝦夷地の警護をしています。
今回は、根室管内を警備した藩――会津藩のお話です。
安政6年9月(西暦1859年)、会津藩(今の福島県)は時の幕府から今の標津、斜里、紋別を会津藩領として与えられ、北方の警備を命じられました。警備には約200名の藩士が交代で当たったそうです。
当時建てられた屋敷跡は見られないようですが、彼らが生きた証は確かに残っていました。
今回は「会津藩士の墓」にご案内します。
<地図の出典>
この背景地図等データは国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものです。地図閲覧サービス(ウォッちず)はこちら
当時の会津藩は、京都守護職として新撰組の監督をしていました。また、元治元年(西暦1864年)には、蛤御門の変にて長州藩を相手に激戦を繰り広げるなど、大河ドラマの題材になりそうなくらい、活動的でした。
一方で、財政的にはひっ迫していたらしく、当時の記録「蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造日記」には、シベツに役所を建てるための経費を捻出するのに苦労した様子が残されています。
その会津藩士の墓は野付半島の付け根――フラワーロードの傍らにあります。
墓石は角が欠けてはいましたが、彫りはしっかりと残っていました。
「旧字体の「会」の登りの元にお墓があります」 「合掌の後、写真を撮らせていただきました」
この墓石の正面には花畑が広がっていました。
野付半島は5月から10月までは次々と花が咲きかわり半島を賑わせます。
「この日は一面ノハナショウブが咲き誇っていました」
「7月が時期のノハナショウブ」 「6月が時期のエゾカンゾウ」
一見穏やかな野付半島ですが、冬の野付湾は一面の野付湾は一面の氷に覆われる、厳しい様相を見せます。
幕末に書かれた「蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造日記」では標津の冬を「格別極寒之土地」と表現しています。
「氷に覆われた野付湾」
一方今日、冬の野付半島は野鳥観察でにぎわっています。写真に写る氷上の鳥たちはオジロワシでしょうか。野付半島にはオオワシも多数飛来してきます。
会津藩士にも野花や野鳥に心を和ませていた方もいたかもしれませんね。
それではまた次回の更新でお会いしましょう。
ヒストリー・ハンター(仮)からのお知らせです。
標津町では
9月30日(日)10:00~標津サーモンパーク特設会場にて
「しべつあきあじまつり」が開催されます!
歴史探訪と併せて、ぜひ足を運んでみてください!
*上の図は根室振興局商工労働観光課観光振興係が年に8回発行しているねむろ地域イベント情報から抜粋しました。完全版はこちら