こんにちは。根室振興局地域政策課のヒストリー・ハンター(仮)裕です。隔週ペースで根室管内の遺跡・遺産をご紹介します。
古くから漁場として栄えた根室管内はいろいろな人達が暮らしてきました。その足跡は様々な場所で、いろんなかたちで残っています。古代から近代まで根室の歴史とともに、地域の話題を簡単にお伝えして行きたいと思います。
わたしと一緒にちょっと昔に思いを馳せてみませんか?
第15回、第16回、第17回と根室港を見て来ましたが、日本最大の砂嘴・野付半島の先端も海上交通の要所でした。
さらに、こんな伝説が残っています。
幻の街「キラク」と呼ばれる歓楽街があった
第2回でも話題にした野付半島を再び訪ねてみました。
半島の中ほどのオンニクル遺跡には、擦文文化期と思われる竪穴住居跡があります。国有林の中にあり、見学はできませんが、100戸近くが確認されているようです。
遺物が採集されていないため、どのような暮らしをしていたかは分かりませんが、おそらく、野付湾内で漁をしていたのではないでしょうか。
安永3年(西暦1774年)には飛騨屋久兵衛が、根室および国後場所を請負い、本格的に漁業開発が始まります。
他方、野付半島は国後への海路の要所でした。
そのため、寛政11年(西暦1814年)には、野付半島の先端部に幕府により会所としての建物が整備されました。
当時の船はあまり大きくなく、海が荒れると出港できませんでした。そのため、海が静まるまで待つ「日和待ち」を行い、宿泊施設である会所が必要不可欠だったのです。
会所はその後、改築され、止宿所、通行屋などと称されました。
位置関係はこのようになっています。
(この図は振興局で所有している野付半島の空撮写真を元に作成しました)
通行屋遺跡付近
通行屋遺跡は、近年の水位上昇あるいは地盤沈下により海水の侵食を受け、2004年には緊急発掘調査が行われました。2013年4月では写真のように、かろうじて土塁(赤いライン)が分かる程度です。
通行屋遺跡
海底には当時の遺物が残っているらしく、今でも時折、打ち上げられるそうです。
打ち上げられた遺物
通行屋遺跡の周囲には、当時のお墓や畑跡もありました。
当時のお墓
通行屋は多くの文献史料に記録が残っており、松浦武四郎も「東蝦夷日誌」に挿絵を残しています。
しかしなんといっても重要なのは、加賀伝蔵が残した「加賀家文書」です。
加賀伝蔵は文化元年(西暦1808年)に現在の秋田県に生まれました。
父と兄に従い、北海道に渡った彼は、アイヌ語を学び、通辞(通訳者のこと)として働きました。最終的に標津場所支配人になった彼の記録は、地名解など多くの情報を今に伝えています。
残念ながら、キラクの情報については、記述がないようで、歴史の海に消えてしまったようです。
加賀家文書やその他資料は別海町郷土資料館附属施設・加賀家文書館にて展示・公開されています。
これをご覧のあなたも、幻の街を探しに別海町にいらしてみませんか?
参考文献:野付半島総合調査報告書・昭和52年~53年実施(根室自然保護教育研究会 編)
参考文献:野付通行屋遺跡I・自然崩壊に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(北海道別海町教育委員会 編)
・ここでヒストリー・ハンター(仮)からのお知らせです。
野付半島の付け根に位置する尾岱沼では、
平成25年6月29日(土)、30日(日)に第53回尾岱沼えびまつりが開催予定です。
歴史ロマンとともに別海を堪能しにいらしてください。
・加賀家文書館の情報は
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