カーマ『カーマ』ヴァラシの地で、バーラト・マート・マンディール(母なる神殿)を訪れた。 インドを旅して、イスラム教、仏教、ヒンドゥ教のさまざまなご神体を見てきたが、ここでは、巨大な大理石に彫られたインドがご神体だ。 自分たちの住むところを、神聖なものだと思いたがるのはわかるが、実際にこの地を旅してきて見たものは、埃っぽさ汚さ不潔さ、軍人が観光施設や街中を威圧的に闊歩し、どこに行っても現れる物乞いやスリ、怪しげな商品を売る売り子達の姿だった。 歴史的な建物が無残に壊され、王宮の壁に埋め込まれた宝石は、警備員によってほじられ、堂々と持ち出され売られている。 その時の僕は、失恋したばかりだった。 失恋旅行といったら、感傷的過ぎるだろうか。 長年思いを寄せ、親しくもしていた女性に、勇気を出して告白してみれば、彼女の思い人は僕の親友だったという。 笑うに笑えない状況だ。 親友が僕より劣る人間だったらよかった。 せめて容姿とか、親の資産が上だったら、僕は無理やりにでも、彼女の打算だと、くだらない女の一人だったと、自分に言い聞かせることで、自分を慰める事が出来ただろう。 実際には、近藤は、ぱっとしない貧乏学生だった。 だが、中身は、僕が知っている中で、一番の努力家で、しかも友達思いの奴だった。 『矢部・・・。』 近藤が僕を見る眼。 僕はたまらなくなった。 哀れみの眼で見られるなんてごめんだ。 僕は、それから彼らをずっと避けて過ごした。 女々しいと思う奴は笑え! だが、僕は玲子と近藤が仲良くしている姿を、祝福してやるなんて、そんなこと出来やしない。 幸いにもというべきか、すぐに試験が始まり、追試に追われるうち夏休みに突入した。 僕の成績を見た父さんは、 『お前に、大学に通う金を使うのは、無駄な投資だ。』とぬかした。 実業家らしい物言いに、馬鹿らしくて腹も立たない。 ここで、大学を辞めて就職すれば、一番騒ぎ立てるに違いないのは親父自身なのだ。 夏休みにはいって、僕は父さんと、毎日顔を合わせる生活にうんざりした。 一人暮らしをしようか。 だが、母さんが許すまい。 そうなれば、必然的に仕送りは望めない。 しょせんボンボンの僕は、バイトで自活するほどの根性もない。 僕は、心底自分自身がいやになった。 玲子が、僕にほれないのはあたりまえだ。 僕はぼんやりと、自室のベッドに転がった。 『遠くに行きたい・・・。』 どこかここでないところ、僕を知る人間がいないところ。 ほんのひと時でもいいんだ。 ここでは、僕はこのまま、だらだらと腐敗してしまう。 『インドに旅行に行くだって?』 父さんは、読んでいた経済新聞から顔をあげ、僕の顔をじろじろと見た。 『うん・・・デリーから、いろんなところを、まわってくるつもりだよ。』 『向こうは水が悪くて、おなかを壊しやすいそうよ。 何も夏休みに、暑いところに出かけなくっても、今年も軽井沢の別荘で避暑をすればいいじゃない。 玲子ちゃんのご家族も、お誘いしたらどうかしら。』 母さんは玲子がお気に入りだ。 その玲子に失恋したからだ、なんて言えるわけもない。 『行ってこい。』 親父はばさりと新聞をめくった。 『お前の死んだような顔は見飽きた。』 僕は別にどこだってかまわなかったんだ。 ただ、たまたま以前テレビで観たインドに、漠然とした憧れを抱いていただけだ。 神秘の国。 神々の土地。 僕のこの、どろどろとした気持ちが、少しでも浄化できるだろうか? 迷信にも似た思いと、気分転換になるかなという計算。 そんなものをバッグに詰め込んで、僕は久しぶりに、少し弾んだ気分で空の旅人になった。 だが、僕はここに来て2日目に東京に戻りたくなった。 一流ホテルのインド料理は、僕の口にはぜんぜん合わなかった。 しぶしぶと口をつけた肉料理にあたり、僕は一晩中下痢に苦しめられた。 シャワーからは、お湯のかわりに水が出て、僕は思わず飛び上がった。 おまけに突然水圧が下がり、ちょろちょろとしか出なくなる。 観光地も歴史的建造物も、テレビではあんなに美しく神秘的に見えたのに、ぎらぎらとした暑さの中、埃っぽい空気の中では廃墟じみて見えた。 いっそシヴァ神殿に行き、麻薬入りの飲み物に酔って見ようか。 バーラト・マート・マンディールを出てガンジスに向う。 河は広大だがにごっている。 沐浴をする人々が、迷いもせずその水に全身を浸している。 生まれたばかりの赤ん坊までも、母親の胸に抱かれ水に浸される。 そのすぐ上流では死者が弔われ、同じ河の水に流されるのだ。 ガンジスの西に、見たこともないようなでかい太陽が沈む。 お経のような歌のような祈りの声。 僕は、なんだか泣きたい気分になった。 僕は何のために、ここにいるんだろう。 玲子と近藤は、楽しい夏を過ごしているのだろうか? もし僕が、このガンジスに身をまかせ、漂っていってしまっても、ここにいる人々は、何事もなかったように、祈りを捧げ、沐浴を続けるのではないか? 帰ろう・・・僕は思った。 その時、僕の目の前に、一人の老人がずいっと現れた。 小さな瓶を僕に差し出している。 どうやら物売りのようだ。 『いらないよ。』僕は腕を振り払いのけた。 その時、僕の頭に声が響いた。 『カーマ』 僕は老人を見た。 老人はまた、僕にわからない言葉をまくし立てている。 今のは気のせいだろうか? いつのまにか僕は、老人に瓶を押し付けられ、金を払う目に会っていた。 そのとたん、あちこちから物売りが現れ、僕の体をもみくちゃにする。 冗談じゃない。 これ以上、わけのわからないものを売りつけられてたまるか。 僕は、ほうほうの体でそこを抜け出した。 日本に帰ってきて、瞬く間に日は過ぎた。 僕の生活は、インドに行く前と何の変わりもない。 だが不思議と、胸の痛みは薄れた気がする。 インドで、さんざん感傷に浸ったせいだろうか? 母さんは、僕がおなかを壊した話をしたら、 『だから止めたのに。』と、ぶつぶつとこぼしていた。 父さんは僕の顔を見て、 『ふん。少しは生き返ったか。』と、鼻を鳴らした。 その悲報が届いたのは、大学がはじまる1週間前だった。 『近藤が死んだ。』 僕は、ほうけたように繰り返した。 本屋の前で、バイクに撥ねられそうになった子どもを助けて、近藤は、僕のライバル、僕の親友は、二度と会えない地に旅立ってしまった。 近藤らしい死に方だ。 僕は思った。 近藤の葬式は、しとしとと雨が降っていた。 僕は受付を手伝い、弔問客に神妙に頭を下げる。 『この度は、ご愁傷様で・・・まだお若いのに。』 しとしとと降り止まぬ雨。 低い読経とさざめく涙。 ご愁傷様?誰が? それは残された遺族だ。 黒いワンピースを身にまとい、青い顔をして、それでも涙もこぼせぬ玲子だ。 僕か? もう二度と、顔も見たくなかった近藤の、僕に見せた最後の顔は、冷たくなった白い白い顔だった。 微笑んでいるのか? いいや・・・近藤の顔は、まるで殉教者のように見えた。 どこか悲しげで優しげな顔。 僕の指の間から、さらさらと香が落ちる。 それが、僕と近藤のあっけない別れだった。 大学が始ってからも、玲子は姿を見せなかった。 昔の、ただの幼馴染みの僕だったら、何の躊躇もなく、彼女に電話し、彼女の自宅さえ訪れただろう。 だが僕らは、もう昔のぼくらじゃない。 土曜日の午後、たまたま両親は不在だった。 玄関のチャイムに、だらだらとインターフォンに出た僕の耳に、懐かしい声が響いた。 『真ちゃん?』 僕はあわててドアを開いた。 『これね。お母さんの手作りのケーキよ。』 玲子の声に、僕は近藤が死ぬより前、僕が玲子に告白するより前に戻った錯覚を覚えた。 そうだ、ほんの少し前までは、こんな事は日常だった。 近所で同い年の幼馴染。 両親も仲がよく、幼い僕はずっと、玲子と将来結婚するものだと信じていた。 近藤は死んだ。 玲子は恋人を失い。 僕は親友を失った。 だけど、僕は、玲子は、生きてるんだ。 『あがんなよ。』 僕は照れて、ぶっきらぼうにケーキを受け取った。 リビングに上がると玲子は、キョロキョロとあたりを見渡した。 『なに?』 『ううん。変わってないなと思って。』 玲子はふふふと含み笑いをした。 僕は気持ちが舞い上がるのを感じた。 『だって、玲子が最後に遊びに来たのが、3ヶ月前だろ? そんなに変わるわけないよ。』 『そうよね。 たった3ヶ月しかたってないのよね。』 玲子の声は静かだった。 『紅茶でも入れるよ。』 僕はソファーを立ち上がった。 『またどうせ、砂糖を大盛り3杯も入れるんだろう?』 僕は笑いかけた。 『どうせ蟻んこですよ~。』 玲子がむくれて見せた。 僕はほっとした。 ここにいるのは昔どおりの玲子だ。 台所で僕が手にしたのは、インドで老人に売りつけられたガラス瓶だった。 忘れっぱなしになって、部屋に転がっていたのを、母さんが見つけた。 ガラス瓶の中身は紅茶だった。 『そんな怪しげなもの飲んだの?』 僕が言うと、母さんはのん気に、 『あら、けっこう上等の品よおいしかったわ。』と、答えたもんだ。 意外と、いい買い物をしたわけだ。 ポットとカップを温めてから、茶葉を入れる。 一杯、二杯、三杯・・・人数分とポットの分。 ゆっくりとお湯を注ぎ、砂時計を逆さにする。 僕に紅茶の入れ方を教えたのは、母さんでなく玲子だった。 砂時計の砂がさらさらと時を刻む。 もう戻らぬ時を。 なにを! 僕は思った。 玲子は僕のそばにいる。 幼い頃からずっとそうであったように。 ポットの紅茶をカップに移し、その琥珀の液体に、角砂糖をそえて、僕は玲子のいるリビングに戻った。 『お待たせ~。』 僕は、わざとひょうきんな口ぶりでドアを開けた。 『紅茶の砂糖漬けを持ってきたよ!』 振り返った玲子の顔を見て、僕はそのまま固まった。 玲子の頬は濡れていた。 『ごめんなさい。』 玲子は言った。 『私ね。 ずっと泣いてなかったのよ。 近藤君が亡くなったって、知らせを受けたときも、お葬式のときも、今までも・・・。 なんでだろうね。 ずっとずっと泣けなかったの。』 僕はテーブルに紅茶を置くと、玲子の隣のソファーに腰掛けた。 玲子の頭に手を回し、僕の胸に抱きしめた。 『僕は近藤が好きだったよ。 僕はあいつになりたかった。 なりたくて、なりたくて、あいつを憎んだ。 だけど、それでもあいつが好きだったんだ。』 『そうね・・・だから私、近藤君を愛したのかもしれない。』 玲子の告白を聞いて僕は驚いた。 『私と真は、ずっと一緒だった。 同じ遊びが好きで、同じ物が好きで、私たちいつも一緒だった。 まるで双子の兄妹みたいに。 真ちゃんが、近藤君を親友だと私に紹介したとき、私、彼に嫉妬したわ。』 『僕は・・・でも玲子に持っている気持ちとはぜんぜん違うんだ。』 玲子は顔を上げた。 『わかってる・・・でも、あの時は、あなたの一番近くにいる権利を、取られたような気がしたの。』 玲子は微笑んだ。 『気がつかなかったでしょう? 私、近藤君に嫌がらせしてたのよ。 彼、私たちと違って、貧乏だったでしょう? だからわざと3人で会うところは、高級なところばかり指定したりして。』 玲子が?嫌がらせ? 『でも彼は、いつも古ぼけたジーンズとよれよれのセーターで、馬鹿みたいに笑いながらやってくるのよ。』 玲子の頬を新しい涙が滑り落ちた。 『私、いらいらしたわ。 彼の笑い顔が頭にこびりついて、眠れないくらいだった。 それでね。 恋に落ちたの。』 変でしょう?と玲子は笑った。 『可愛さ余って憎さ百倍じゃなくって、憎さ余って恋しさ百倍なんて。』 憎くて恋しくて、好きで憎んでいて。 僕と玲子は、本当によく似ている。 玲子は涙を拭いて、僕の胸から身を引いた。 できることなら、そのまま抱きしめたかったが、僕にはその勇気はなかった。 僕たちは黙って同時にカップを持ち上げた。 カップの煙の向こうに近藤の姿が浮かんだ。 『カーマ』 僕は思い出した。 インドの神。 恋愛を司る若き神。 死んだ後に、肉体のない真の愛の存在として、妻のもとに戻ったという。 |