月の虹 後編
気がつくと翔太は、この野原にいた。足を見下ろすと、靴を履いていたから玄関から飛び出したんだろう。いつの間にか泥んこだらけで、あちこちすり傷もあった。どうやってここへ来たのか、ここはどこなのかもわからない。ひりひりとした痛みが、翔太にまだこの体が死んではいない事を教えてくれる。胸の奥もぎりぎりと痛んで、ああ心も死んでいないんだと翔太は思った。冷たい手でぎゅっと自分を抱きしめると、まるで絞られたように、今まで出なかった涙が溢れてきた。お母さん。お父さん。お母さん。お母さん。苦しくて、苦しくて、うんうん唸りながら泣いた。たくさんたくさん泣いて、大きな声で懐かしい名前を呼んで、草を引きちぎり地面を蹴飛ばし、まるで小さな野獣のように翔太は喚いた。そうして、いつしか泣き止んで、ぼんやりと草の中に座り込んだ翔太の視界に、にじむように黄色い花が映った。月が昇り日の光は消えていた。傍らの花に手を伸ばした。周りには踏みにじられ、ちぎられた草が横たわる。・・・ああ良かった。翔太は愛しむように、両手でそっと花を包んだ。摘まないまま、そのひんやりとした花に、熱く濡れた頬を寄せる。さわ、と風が吹く。そして歌が。『残酷な神様?』『そうよ。』歌うように少女は言う。『とても大好きな人がいたの。私をこの春お嫁に貰ってくれるって。』嘘つき。少女は微笑みながら、そう言った。『もう見えないのに、触れもできないのに。それでも忘れさせてくれないの。』死んでしまったから。『辛いのに、悲しいのに。だから願ったのに。私の全てを捧げるからって。全部いらないからって。だからお願いだから私の代わりに生きてって。』少女はうっとりと目を閉じた。『そして、いつまでも私を覚えていてって。』お母さんもそう思ったんだろうか?小さな小さな赤ん坊が死んでしまったとき。もしお母さんの願いが叶ったら、お母さんは赤ん坊の弟の代わりに、あの時死んでいたんだろうか?『そんなのは駄目だよ!』さあーっと冷たい風が渡る。突然ぱらぱらと舞い落ちた雨が、一つ二つ三つ、数え切れぬほど花を打つ。雨の帳の中で見上げた空に、うっすらと白い弧を見つけて、翔太は目を細めた。今にも消えてしまいそうなかぼそい光。少女がぱっと立ち上がったので、翔太は思わず光から目を離した。『天気雨だわ。』少女がぴょんと輪を描くと、そこには金色の瞳をした獣。ふさふさの尻尾をした犬に似た獣。『狐だ!』翔太はぽかんと口を開けた。ぱらぱらと雨の降る月夜の野原。淡く輝く弧に向かって、狐は大きくジャンプした。まるで鳥になったような、それはそれは見事なジャンプ。それから何が起こったのだろう?実を言うと翔太は覚えていない。翔太が目を開けたとき、目の前にはお母さんがいた。翔太の顔を見て、笑いながらたくさん涙を流した。まるで翔太をその温かい水で溺れさせるかのように。お父さんが、お母さんの肩を後ろから片手で抱いて、もう一方の手で、翔太の手をぎゅっと握っていた。あったかくて大きな手で。『ああ、ありがたい。神様。ありがとうございます。』後ろでおばあちゃんが、手を合わせた。残酷で、そしてとても優しい神様。翔太が行方知れずになって、一晩中村は大騒ぎだった。あたりには深い山。深い藪。深い川。夜になって雨も降り始めて、土地勘もない5歳の子供がただ一人。朝日がさす頃、ようやく見つかった翔太は、一晩中雨に打たれてびしょぬれだった。意識も戻らぬまま、一日たち、二日たち。罪の意識にしぶしぶと、家のものは父親を呼び、父親は母親を呼んだ。母親とその母である祖母と、二人の女が震えながらこの家に着いたとき、まだ目覚めぬまま翔太はシーツの中で溶け込みそうなほど白い頬をしていた。母親は泣きながら言った。『どうか神様。翔太の代わりに私をあげますから。』そのとき、不意に翔太が声を発したのだ。『そんなのは駄目だよ!』はっと、思って翔太の顔を見ると、ほんのわずかに唇が開いている。母親は、その唇に自分の唇をつけて、息を吹き込んだ。どうか、どうかお願いします。すべてをあげますから、私を全部あげますから。翔太の顔にぱらぱらと涙が落ちる。わずかに開いた翔太の瞳に、ほんのりと輝く白い顔が映る。『それで、狐はどうなったの?』帰りの電車の中で、翔太はお母さんの膝にもたれかかる。『行儀が悪いぞ。きちんと座りなさい。』向かいに座ったお父さんが叱るけど、翔太は聞こえない振りをした。『天気雨は、狐の嫁入りがあるのよ。』お母さんも、お父さんの声が聞こえない振りをしている。『だから、狐は月にお嫁にいったのだと思うわ。』かぼそい月の虹を渡って。死んでしまった恋人を追いかけて。『お母さんも、月に行きたい?』翔太はぎゅっと、お母さんのスカートを握り締めた。『いいえ。』翔太はじっとお母さんの瞳を覗き込んだ。その中に入り込もうとするように。お母さんの笑顔は、ずっとお日様みたいだと思っていた。でも、今のお母さんの笑顔はまるでお月様みたいだ。静かで優しくて、どこか悲しい光。『月なんて行きたくないわ。』嘘つきなお母さん。『家に帰ったら、引越しの準備をしなくっちゃな。』お父さんの言葉に、翔太の顔が上がった。お母さんとおばあちゃんは、不思議そうにお父さんの顔を見てる。『あなた?』『お義母さん。いきなりですが、親子三人お世話になります。』おばあちゃんが、下げられたお父さんの頭を見て、おろおろと声をつづる。『でも、翔一さんの通勤に不便じゃあ?』『ようやく事務所の移転手続きが取れました。今よりはずっとお義母さんの家から、職場が近くなりますよ。』おばあちゃんの顔が、くしゃくしゃになった。『翔太にも寂しい思いをさせてごめんな。』お父さんとお母さんと翔太とおばあちゃん。これからは、皆で一緒に暮らすんだ。 白くてまぁるい月の夜は、皆で一緒に月を見よう。 もし雨が降って、そうしてもしも白い虹が出たら。 僕の弟のために、おじいちゃんのために、お母さんの弟のために。 金色の瞳をした狐のために。 花を飾って、そうして皆で歌を歌おう。 まるで子守唄みたいな月の歌を歌おう。