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2022年01月02日
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カテゴリ:風景・旅行など
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​2022年1月2日 潤神社、志登神社 初詣​
です。
​潤神社​(うるうじんじゃ)
糸島市にある『潤神社』。住宅街の中、公園の横に鎮座する神社です。
糸島市潤にある。松本潤さんと同じ「潤」という字ですが、「じゅん」ではなく「うるう」と読みます。福岡県糸島市・潤交差点付近の潤公園の奥の小高い丘に鎮座します。嵐の聖地のひとつとして有名です。鳥居は明治41年に合祀され、潤(うるう)神社となった当時に奉納されたものです。(ARNE(アーネ)より、)

お正月2日本日、初詣に訪れた潤神社です。
由緒
糸島郡内で五十猛命を祀る神社は社名は白木神社である。潤神社も元の名は白木神社であったが、配神を祀る七神社を明治40年に合併して潤神社と改めた。
さらに白木神社は新羅神社であったと推定されている。白木神社の近くには半島からの渡来伝承や朝鮮系の遺跡が出ている。 王丸の白木神社の近くの西堂の古賀崎古墳からは朝鮮系の環頭太刀や馬具類が出ている。前原市川付の宇美八幡宮は応神天皇を主祭神とし、気比大神(天日矛)と新羅神が祀られているが、その前を流れる川を白木川と言う。 糸島半島は朝鮮半島と出雲、筑紫を結ぶ入り口の役割をした地域であった。
お姿
小さい砲台形の上に鎮座、木々は多い。近くに志登支石墓跡がある。可也山が遠望できる。
お祭り
潤神社 11月28日 例祭(秋祭)、白木神社 7月第2日曜日 夏祭、12月21日 秋祭(神奈備より、)

また、改めて書かせて頂きました。
御祭神:五十猛命、伊弉册尊、宗像三柱大神、住吉三柱大神
福岡県神社誌は伊弉諾命ではなくて伊弉册命となっている。
木の神 五十猛命をお祀りする神社、
実はここは10日位前にお参りしています、今年に入ってからは初めてですが、ここはご賽銭が入れにくいので注意しましょう。
12月頃に行った時は掃除直後でした、
綺麗に整えられてました。
12月頃は掃除の方以外来られては無かったですが、正月は何人か来られていました。
住宅街の中にあると思えない程静かですよ、
清々しい気持ちになりました、ご祭神の五十猛命、やはり、松潤に似ておりました…(イメージ)、一般的な須佐男命のイメージの一人(他にもいる。)としてこの方かもしれません。
よく分かりませんが、どうも、須佐之男命とは親戚??従兄弟の様、記紀では親子ですが、広島にも八岐大蛇伝説があるようです、戦国時代の話になりますが、阿武山の大蛇退治伝説もあるらしいです。過去に広島で大規模な土砂災害があったのは記憶に新しい、だからそういう伝説があってもおかしくないです。伝説では須佐之男命は三代いたとも、正、岡山か広島の地方の伝説ですが。本当かどうか分かりませんが、そもそも、記紀は地域の伝説から集めたもの、地域によって伝承が多少違ってもおかしくない、こちらでも独自の五十猛命の伝説があった様です。


​志登神社​(しとじんじゃ)
空海との所縁
志登神社は空海(弘法大師)の所縁の宮としても広く知られています。志登神社には神宮寺として蓮華院照光寺が建てられ、明治初期まで照光寺住職が宮司坊を務め、照光寺を本務社としていました。照光寺の開山祖師である権僧都阿闍梨法印𡒝永和尚は、初代志登神社の大宮司・岩隈式部種義の弟で、真言宗開祖の空海(弘法大師)と南岳山東長密寺で修行した友と伝えられています。大同元年(806)日本で最初の密教寺院として東長密寺を博多に開山した空海は、縁ある志登の照光寺を訪ねたと伝えられています。水害に見舞われることの多かった照光寺は、神社の書付・宝物を東長密寺に預けていたとされますが、東長密寺が元弘3年/正慶2年(1333)元弘の乱の兵火に焼かれたことで宝物を消失し、以前の歴史を語るものを亡失します。東長密寺は照光寺に逃れることとなり、3年後に再建されますが半分に満たない規模となり、後の戦乱の中で荒廃します。江戸期に入ると第2代福岡藩主・黒田忠之が真言宗に帰依し、東長密寺は現在地に再興されることとなり、菩提所とされました。その際、照光寺に疎開させていた仏像、什器を元に再建は行われました。その由緒から空海所縁の神社としても知られています。尚、現在の照光寺は、明治期に途絶えていたものを明治後期から大正にかけて銘を頂き、別途、再建されたものになります。(公式HPより、)

主祭神:豊玉姫命(とよたまひめのみこと)​
相殿神:和多津見神(わたつみのかみ)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめ)​
御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。
龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。
社地の近くには豊玉姫命が髪を梳った地とされる岩鏡や、鏡掛松、拝松、古宮、玉ノ井などの古跡が点在しており、南東5kmの高祖山で彦火々出見命を祀る高祖神社、彦火々出見命が龍宮に赴くのを導いた塩土翁を祀る志摩芥屋の塩土神社も何かしらの関わりがあると考えられています。
古くからこの周辺は、海洋交易の要衝で、入江が東西から割り込み伊都国の港を形成していたと考えられています。南東600mにはそのことを裏付ける志登支石墓群が残されています。国指定遺跡の志登支石墓群は、弥生前期(約2500~2200年前)に造られ、朝鮮半島との繋がりを示すものとされています。
天正9年(1581)11月に高祖山城の城主であった原田隆種により再建され、高祖神社の御祭神である息長帯姫命と武内宿禰命の御神体を分霊し、潤村から西太郎丸村まで12丁歩の神田が寄附されました。しかし豊臣秀吉の九州平定(1586-1587)の時、神領を悉く没収され神官社僧も皆農夫となり廃絶の危機に至ります。元禄3年(1690)3月、第3代藩主の黒田光之から神田1町6反の寄附と共に神殿を初め末社に至るまで造立され再興されました。明治5年(1872)11月3日郷社に列格、大正5年(1916)10月12日県社に昇格し、同年12月12日幣帛供進社に指定されました。平成27年(2015)12月に前年の火災焼失から再建されました。(公式HPより、)

厳島弁財天
境内入り口右に鎮座する厳島弁財天は、福徳・諸芸能上達の神、水の神、蓄財の神として信仰される弁財天を祀っています。
たまたま潤神社の帰りに寄りました、実は以前から知ってはいたものの訪れたのは初めて、けっこうこういう事が多いのですねぇ、
社殿は新しいですが、2014年に火災にあって消失したそうです。しかし、地域の人によって、翌年には再建されました。今回はここの方が結構人が来ていました、どうやらこの辺りは一番大きい様です。
2022年1月2日 潤神社、志登神社 初詣でした。​​​​





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最終更新日  2022年01月04日 20時18分23秒
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