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2016/04/22
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カテゴリ:由来や歴史
小牧山の築城時の労働力は如何にして確保したのだろうか。
食料確保の為の農地開拓と城下町作りに多くの労働力が必要である。農地開拓で出た岩石は築城のための石垣に使用することにした。当時の信長の直轄常備軍は数百名程度であり、足軽を含めても1千数百名程度であろう。寄騎を加えても2千数百名位であろう。当然ながら財力もそんなにない。西国の大内氏や越前の朝倉氏が越後の上杉氏が大名とすれば小名クラスである。


戦闘集団の全てを築城に回す訳には行かない。
地侍・土豪や農民に賦役を多く課せば反発を招く。
設計、施工、管理、監督者である信長は人集めから始めた。
そこで目をつけたのが様々な職種で雇われていた武装集団である。特に農地を持たない特殊な人々です。争い事がなければ暇人である。

熱田神宮、津島神社などの神人、わたりと呼ばれる陸運関係者、川並衆と呼ばれる水運に携わる人々、山人と呼ばれた鉄鋼や鍛冶・鉱山開発者、坂の者は甲冑製造者、大工・石工や土倉等と多種多様な職種で雇われていた武装集団を集めて得意な分野の仕事を割り当てた。
当然ながら日当は支払ったであろう。


しかし、それより大きいのは働きによって武士に採用することではなかっただろうか。地侍や半農半兵では好機に戦闘を開始することが困難である。信長としては常備軍が増えるし、土地を持たない武装集団は武士としての地位と名誉が与えられる。
民間の武装集団の代わりを信長軍が行えば今までより秩序が守られる。民間の業者は進んで冥加金・運上金を支払うであろう。
双方に損はない。信長が兵農分離をしたと言われるが、現実は民間にあった武装勢力と農民・商工業者を分けたと言うべきであろう。
小牧山築城時にこのような仕組みが出来上がったのではないか。
特にリーダーシップが取れるような士官クラスの人材を採用し美濃と対等の戦闘能力を得たのではないか。
人も金も集まりいよいよ美濃へ攻め入る時がきたのである。

民間での武装勢力が一掃されたことにより楽市楽座のような自由な市場経済体制の準備が整った。
尾張地区の寺社の僧兵は少なかったと思われる。この問題は比叡山まで持ち越されることになる。
どうも兵農分離は江戸時代の身分制度と誤解されているようである。
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最終更新日  2016/04/23 01:35:27 AM
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