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 alpen@ Re:JAZZベーシスト 伝法諭 さんのこと(07/29) オフィスDENの電話番号を見つけることが出…
2006/05/16
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カテゴリ:BATON & OPINION
ブログでの発表の限界。使えない言葉達。
しかしそれでも吐露、 あるいは示唆、しておきたい事柄いくつかの覚え書き
検証中個人メモと、全く自分のための非公開日記への走り書き。
(つまりはコメント無用ですが、ご教示いただけるのは大歓迎ということで。)


決して捨てることのないよう、いずれコーさんにもらっていただきたい愛読書3冊。
■「魔神の海」前川康男著
:講談社少年少女現代創作文学8(S45/5/15第2刷)

■「北海道の農業」西村正一:北海道新聞社(S62/2/28)
■「備前物語」・・・愛読書という割には・・みつからない(苦笑)



絶版本を投票で復刊!
特に、「魔神の海」
私のすべての考察はここから。

この本が出版された1969年時点でさえ、なお、手直しされながらも廃止されずに残されて運用されていた旧「北海道土人保護法」・・・保護としながら、「日本人」入植者との著しい処遇格差(実に数百倍以上)を実現させた、徹底搾取の法律。

1789年=寛政元年(江戸中期、天明の大飢饉直後:フランス革命の年)
「クナシリ=メナシの乱」商人:飛騨屋(場所請負人)らの暴力的搾取に対するアイヌの蜂起で71名の和人が殺害され、松前藩はアイヌの実行責任者セツハヤアイノ等を含む37名を処刑。

この71(後に72?)名の犠牲者の石碑が後年、偶然漁師の網にかかることにより海底から引きあげられて、現在は根室の国後等を臨む場所に安置。(但し碑文にある「この地」はクナシリ=キナシリのこと)

組織的なアイヌ蜂起の最後となったこの事件は、幕府の松前藩への不信につながり、
1799年、蝦夷地は幕府の直轄領となる。
が、この事件の1789年時点でもまだまだ分け入ることが困難な、標津内陸部(現在の別海・標茶寄り)について触れた文献は殆んど見当たらない。
江戸末期については、別海の噂の「加賀家文書」、公開は平成10年。海沿いの記録ではあるだろうが、興味津々。


1802年蝦夷奉行創置(のち箱館奉行と改称)、
1807年西蝦夷地の幕府直轄領
1821年松前藩の再興、東西蝦夷地を再び松前氏に返還→場所請負制が復活
1822年日露和親条約締結に伴い、再々度、蝦夷地を幕府直轄領とする。

1853年日露会談。ここで、対ロシア政策上、アイヌを「日本人」であるとし、千島列島を 「日本固有の領土」と位置づける。
1854年箱館奉行設置
・・・松浦武四郎と親交が深かった秋田出身の加賀伝蔵が残したとされる「加賀家文書」はこのあたりか?
1868年(明治元年)蝦夷地→北海道(命名者:松浦武四郎)
1869年(明治2年)場所請け負制度の廃止
この年にアイヌに大変慕われていた松浦武四郎が、明治政府の北海道開拓使において「開拓判官」になりながら、わずか1年で辞職した理由は?


明治以後日本はアイヌの同化政策(被差別皇民化)の道をひた走る。
1878年(明治11年)・・・旧「北海道土人保護法」「住居の地所」を「官有地に編入」
(明治12年の別海の東京府への編入の経緯との関連。この処置に判官の職を賭して反対したとされる松下十郎とは?)

1878年に東北・北海道を訪れた初めてのヨーロッパ女性、イギリス人にして「日本奥地紀行」の著者、イザベラ・バードが絶賛するアイヌ文化
家屋はポリネシア人のそれに似ていると言い、容姿はエスキモー人に似ていると語っている。
またある一人については、純粋なアイヌには見えず、髪も髭もところどころ金褐色に輝いていると語る。この人物についてはさらに
「高貴で悲しげな、うっとりと夢見るような、柔和で知的な顔つき」
「サー・ノエル・パトンの描くキリスト像の顔に似ている。彼の態度はきわめて上品で・・略・・」
と、それまで彼女が語る「日本人」の無礼さ・野蛮さ・不潔さに関する記述との大きな違いに驚かされるが、率直な感想であろうことは疑う余地無し。。。
白老近辺のアイヌについては特にこのような賛辞が多い。
この本の中で一際私の注意をひいたのは、アイヌによって密かに守られている日本式神社と義経崇拝

イザベラ女史はさらに日本人の馬に対する扱いの極悪非道振りを激しく嘆き、怒りの余り、非難する言葉(単語)の意を問う通訳兼の日本人助手:伊藤に「デヴィルより悪いという意味」と、異訳。

別海の駅逓は1910年(明治43年)の開設だから、イザベラ奥地紀行の30年以上後のこと。



1951年サンフランシスコ条約において、日本は千島列島を放棄。
1956年・・・圧制の元に「同化」させたアイヌ民族を「日本国民」として、いわゆる「北方領土」を、かつて日本国民が居住していた「日本固有の領土」と位置付けた「返せ!北方領土」外交は、どうにもスッキリとしない。
飛躍:飛騨屋請負人の万蔵と重なってイメージされるムムム某。

ダムに沈んだ民族の聖地、二風谷
ダムに沈んでしまった後の、アイヌ地主の裁判勝訴。
今さらながらに「返す」と言われたアイヌ民族の新たな苦悩。
誰が為に鐘は鳴るやと問うなかれ、などと、日本人は決して言えない

アイヌ文化史と中央政府の植民地政策にも似た北海道開拓史
これは切り離して語ることはできないが、一緒くたにしてもならない。





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最終更新日  2006/05/18 06:52:52 PM
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