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迷鷗亭 ★BAKERY FESTE★

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2012.04.24楽天プロフィール Add to Google XML

ジャッキー、愛の逃避行(6・終)
[ 創作 ]  

ハリーは夢を見ていた。
夢の中で、裁判が行われていた。被告はジャッキー。
夫を裏切ったジャッキーは、信用できない女である。今度はいつハリーを裏切るかわからない。
陪審員、評決は?
有罪。
量刑は?
檻に入れろ!逃げられないように手足を切れ!いや、もう殺してしまえ!
陪審員はハリーの気持ちを代弁していた。
ハリーはジャッキーの首に手をかける。
お前はすぐ他の男と戯れる。そして逃げる。檻に入れたら、間男を引きずりこむだろう。手足を切っても、誰かが匣詰めにして連れ去るだろう。誰にも渡さないためには、殺すしかないんだ。
ジャッキーの青い目が見開かれる。
「やめて、ハリー、殺さないで!」
デズデモーナのように命乞いするが、彼女は不義をはたらくと決めつけているハリーは聞き入れない。
「いやぁー、助けて!ジェフ!!」
ハリーは目を覚ます。汗びっしょりだ。
隣で寝ているジャッキーを見る。静かに寝息を立てている。汚れのない少女の顔。
「ちきしょー、俺の夢の中でジェフを呼びやがって・・・」
今すぐ彼女を犯したい衝動にかられる。
しかし、眠っているジャッキーに乗っかることは、彼には二度とできない。

自分がひどく汚れているような気がして、ハリーは二日酔いのときより酷い気分でバスルームに入る。
シャワーを浴びて、今何時なんだろうと思う。カーテンの隙間から光が入っていたことを思い出す。もう朝なんだ。
昨夜、雨で冷えた体を温めるために、浴槽に湯を張ってジャッキーに入らせた。一緒に入ろうと思ったのだが、なんとなく躊躇っていたらいつのまにか閉め出されてしまった。彼女はまた歌っていた。Fly Me to the Moonとか、Singing in the Rainとか、歌いながら踊っているようだった。足を滑らせて転ぶなよ、と言って覗いたら、石鹸を投げつけられた。前はそんなとき、いたずら子ウサギめ!と言って押さえつけて洗ってやったんだが、なぜかできなかった。何を恐れているんだ、俺は?あいつは俺のものだろ?俺以外何も見えないという目をして、あんな可愛い笑顔を向けてくる。俺のものだ。この手の中にいるんだ。

ハリーの心の半分は、ジャッキーを自分のものにしておくためには、こうして他のすべての関係を断ち切って、二人だけの世界に籠る必要があることを知っていた。彼女は、彼以外の男を愛することができる。気に入った相手には、彼に向けるのと同じ優しい眼差しを向け、彼にするのと同じように甘えて・・・。

檻に入れろ!逃げられないように手足を切れ!いや、もう殺してしまえ!

殺してしまえ!!

「いやあああああ!!」
女の叫ぶ声で、ハリーははっと我に返った。

ハリーが起き出してバスルームへ行った気配で、ジャッキーは目を覚ました。いつもは眠りが深いのだが、わずかな物音で目が覚めたのは、頭の中で何かが鳴り響いているような感じがしたからだった。夢を見ていたような気もしたが、覚えていなかった。
彼女は枕の下に何かあることに気づき、確かめてみると、結婚祝いにキレネンコにもらった短剣だった。自分がそこに置いたに違いないが、覚えがなかった。
彼女はベッドの上に座って、短剣を手に持ってとりとめもなく思いを巡らせていた。
これは結婚祝い。旦那様・・・ジェフに会いたい。ぎゅっとしてほしい。・・・プーチンと遊びたい・・・F先輩と一緒にピアノ弾いて歌いたい・・・みんなに会いたい・・・ハリーは好き、ずっといっしょにいるのはいい、でもみんなに会いたい、ジェフと踊りたい、キスしたい、会えないの?もう会えないの?

いやあああああ!!

ジャッキーは叫んでいた。ハリーが飛んで来た。彼女が手に持っているものが何であるか、すぐわかった。そっとそれを取り上げて、サイドテーブルに置いた。何をするつもりだったのかと思うと寒気がしたが、それより彼女が泣きだしたことが問題だった。
「ジャッキー、どうしたんだ?怖い夢見たのか?」
子どものように生温かい体を抱き上げ、しゃくり上げる肩と背中を撫でてやる。
「帰りたい・・・」と言って、ジャッキーは声を上げて泣いた。
「ダーリン、どこへ帰るんだ・・・」
ハリーは、足元の地面が砂のように崩れていく気がした。
「帰りたいの・・・ジェフに会いたい、フロイド、プーチン、みんなに会いたい・・・」
「ジャッキー・・・」
駆け落ちしてきて、夫や友人に会いたいとは、何という理不尽。しかし、ジャッキーだから、そのぐらいは想定するべきだったと、ハリーは思った。自分だって、家族も友人もすべて捨ててきたのだと、彼女に言っても何にもならないことはわかっている。
結局、泣かせてしまったことに打ちひしがれながらも、彼はどうにか自分を奮い立たせて言った。
「ジャッキー、ダーリン、もうちょっとガマンしてくれ。どこかで家を借りて、仕事を始めたら、友達もできるし、新しい友達だぞ、またにぎやかにできるさ」
「それ、いつなの?」涙に溺れながらジャッキーが言う。
「もうすぐだ。もうすぐだよ、ベイビー。俺を愛してるだろ?信じてるだろ?」
ジャッキーは頷いた。目も鼻も熱くて、頭がぼうっとしてきた。
ハリーを信じてる。もちろん。ハリーは俺のヒーローだもん。きっと、なんとかしてくれる。
「ジャッキー・・・いい子だ。もう泣くな・・・」
泣かないでくれ、俺の天使・・・。
これが最後の足掻きだという思いを、彼は意識の下に押し込んで、見ないふりをした。他の誰にもできなくても、俺にはできる。絶対やりとげる!と思っていた。
ハリー・ザ・ヒーローの猛進を止めるものがあるとすれば、それは分別でも良識でもなく、これ以上ジャッキーに泣かれたくないという思いだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というわけで、このあとジャッキーは泣いてばかりで、再び出発するけれど、30kmぐらい行った先で、追って来たFとGに捕まって、駆け落ち劇は始まって丸二日もしないうちに幕を下ろしたのでした。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。


Last updated 2012.04.26 11:02:53


2012.04.23

ジャッキー、愛の逃避行(5)
[ 創作 ]  

一方、G君は、特別房に夕食を運び、キレネンコのグラスにワインを注いで、マフィアの連絡網を使わせてもらっていることに礼を述べ、入ってきている情報について簡単に報告した。
キレネンコはいつもの無表情で、聞いているのかいないのかわからなかったが、唐突に
「あいつは短剣を持ってるのか?」と訊いた。結婚祝いにジャッキーに贈った短剣のことだ。
「ああ」とジェフは言った。「こないだ、人に向けたと言うから、取り上げようかと思ったんだけど、護身用に持たせておいてよかった」
キレネンコはそれだけ聞くと、あとは食事以外の何にも関心を失くしたようで、黙々とニンジンステーキを頬張った。
ジェフは、それでもキレネンコは聞いているような気がして、ドアの前に立って独り言のように話を続けた。プーチンは、自分が相槌を打っていいのかどうかわからず、あいまいに頷きながら聞いていた。
「明日、迎えに行くつもりだ。フロイドももう待てないと思ってるころだし。放っておいても、そのうち帰って来るはずだが、ハリーは意地っぱりだから、あと何日か粘って、ジャッキーが疲れちまうといけないから。そんなに粘らないだろうけどな。遠くまで逃げて、そこで新しい生活を始めたら、なんとしてでもジャッキーを幸せにしてやると、ハリーは自分を信じてるだろうけど、その前が問題だ。ジャッキーの躁状態に付き合って、その反動で落ち込んだら慰めて、泣いたら宥めて、その一分一秒が耐えられなくなるだろう。奴はほんとにジャッキーを愛してるから。俺が言うのも変だろう・・・でも本当なんだ。ジャッキーもそれがわかれば、満足するはずだ」
キレネンコが、キョロッと目だけジェフのほうに向けた。ジェフは、「ノイズよ去れ」と言われていると思って、話をやめて房を後にした。

ハリーとジャッキーは、夕食を終えて、市街地を歩いていた。飲食店以外の店はほとんど閉まっていた。服飾店のウィンドウには灯が点いていて、鉄格子の中で流行の服を着たマネキンが微笑んでいた。
ジャッキーは、子犬のようにハリーにまつわりつきながら、スキップするように飛び跳ねていた。黄色い耳も尻尾も、踊っていた。捕まえようとするとするりと逃げるが、すぐまたくっついてくる。ずっとこうやって笑って跳ねていてほしいと、ハリーは思った。
頼むから、もう泣かないでくれ、ベイビー!
二人は公園に入った。石畳の通路と、自由に入れる芝生、花壇、そしてベンチがいくつかあるだけの「スクエア」だった。ベンチには、愛を囁くカップルがいた。幸せに陶酔して、周囲の何も見えない、聞こえない。ジャッキーは、立ち止ったハリーの背中にくっついて、ぎゅっと彼を抱きしめた。
ハリーが立ち止ったのは、煙草に火をつけるためだった。彼がふーっと煙を吐き出したとき、ぽつんと雨が落ちてきた。あれっと思ったら、いきなりザーッと降ってきて、ハリーは「ちっ」と舌打ちして煙草を投げ捨てた。ジャッキーが彼の腕をばしっと叩いた。
「いてっ!・・・降ってきやがったな」
ベンチのカップルは、何が面白いのかキャッキャと笑いながら、手をつないで走って去った。
「煙草なんか吸うからです!」とジャッキーが言った。
「公園で吸って何が悪い!」とハリーが言った。
「先輩はポイ捨てするからダメ!」
「オー、ごめんなさい。私が悪うございました!」
全然悪いと思っていないハリーは、上着を脱いでジャッキーの頭から被せようとした。それを振り払って、数歩離れると、ジャッキーは歌いだした。

Raindrops keep fallin' on my head
And just like the guy whose feet are too big for his bed
Nothin' seems to fit
Those raindrops are fallin' on my head, they keep fallin'

「雨にぬれても、か。聞いてたのか?」
ハリーが昼間、車の中で歌っていた歌だ。
ジャッキーに上着を着せかけようとして追いかけると、彼女はついつい逃げながら歌い続けた。

It won't be long till happiness steps up to greet me

ハリーは笑いながら追いかけ、一緒に歌った。

俺の頭に雨が降りかかる
だからって、俺の目は赤くならない
泣くのは俺らしくないから

雨なんか止まなくていいんだ
俺は自由だから
悩みなんか何もないから

Nothin's worryin' me ------

ジャッキーはずぶ濡れになりながら、最後の歌詞を伸ばして歌った。
ハリーが拍手して、「さあ、帰ろう」と手を伸ばすと、ジャッキーはまたくるっと逃げて、別の歌を歌いだした。

I'm singing in the rain
Just singing in the rain

「今度は『雨に唄えば』か!」
最後まで歌って踊りきらないと終わらないと思って、ハリーは一緒につづきを歌った。

What a glorious feelin'
I'm happy again

ジャッキーは、ジーン・ケリーの真似をして、外灯の台の部分に飛び上がり、片手で柱につかまり、斜めに背伸びして、

I'm laughing at clouds
So dark up above
The sun's in my heart
And I'm ready for love

と歌った。空には暗い雲、でも私の心には太陽が輝き、恋をする気でいっぱい。
ハリーが続けて、手を広げて上を向き、顔いっぱいに雨を浴びながら、

Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I've a smile on my face

ジャッキーが歓声を上げて、ハリーの手を取り、二人は舞台に立っているかのように同じ方向に顔を向けて満面の笑みをたたえ、音楽に合わせてウォーキング・ステップ。

I walk down the lane
With a happy refrain
Just singin',
Singin' in the rain

それから、ジーン・ケリーは傘を相手に踊ったのだが、ハリーはジャッキーと向きあって手を取り合って踊った。

Dancin' in the rain
Dee-ah dee-ah dee-ah
Dee-ah dee-ah dee-ah
I'm happy again!
I'm singin' and dancin' in the rain!

それから、間奏を口ずさみながら、二人は競争するようにタップを踏み、外灯の周りを回り、ベンチに飛び上がったり飛び下りたり、ハリーがジャッキーをリフトしたりぐるぐる回したり、めちゃくちゃな振り付けだがなぜかぴったりシンクロして踊った。子どものように水溜りの水を蹴散らし、笑いながら歌いながらダンスの勢いは止まらず、池があったら飛び込んだに違いない。
ジャッキーは激しい動きに息を切らすこともなく、歌詞を適当に繰り返して、雨雲まで届くような声量で歌った。実際、公園の外の道を行き交う人々は、何事かと思って傘の下やコートの襟の上から、思わず公園を覗き込んでいた。

I'm happy again!
I'm singin' and dancin' in the rain!

土砂降りの雨の中、薄暗い公園で、ジャッキーの表情は晴れた日のヒマワリ畑のように明るかった。歌が終わると、彼女は見えない観客に投げキスを送り、水晶と共鳴するソプラノで笑いつづけた。
笑ってるのか泣いてるのかもわからず、ふらふらになっているジャッキーの腰を支えて、ハリーは言った。
「ダーリン、ホテルに帰ろう」
笑いウサギはクスクス笑いがまだ止まらない。
「風邪ひくぜ」
ジャッキーは、トロンとした目をして、両手をハリーの肩にかけて言った。
「あたためて・・・」
ハリーは、雨が湯気になるような熱い体で、彼女を抱きしめた。

つづく。


Last updated 2012.04.25 11:01:37

2012.04.22

ジャッキー、愛の逃避行(4)
[ 創作 ]  

ハリーは、車内で地図を広げていた。
「先輩、今どこにいるの?」とジャッキーが尋ねた。
「このあたりだ」ハリーは鉄道の近くの一点を指した。
「うちからどのくらい?」”うち”というのは監獄のことだ。
「400キロ近くは走ったな」と言いながら、監獄のあたりを地図上で指す。
「それだけ~?」
「昨日はほとんど移動してねえし・・・」
ジャッキーにとって、数字はそれほど意味がなく、問題は来た道の長さに比して海がはるか遠いということだった。
「はぁー・・・」と、彼女はため息をついた。
旅に飽きてきたのだろうか、とハリーは思った。彼女が、先へ進むという目的のことだけを考えて単調な道に耐えることができるなら、一日15時間ぐらいひた走ることができるのだが、現実はこのとおり。昨日から、控えめに言ってもイベントの多い旅だったはずだが、少しの間でも刺激が続かないと、退屈になって気分が落ち込んでしまう。
せめて行き先や、そこで会う人が決まっていれば、それを楽しみにしてテンションを保てるのだが・・・。
「ダーリン、大丈夫だ。俺がちゃんと連れてってやるから」と、ハリーは自分のためにも言った。「途中がつまらなかったら寝てろ。海に着いたら起こしてやるから」
「にゃ・・・」
「海の向こうは日本だぞ」
「日本・・・」
ジャッキーは地図の隅っこに描かれた島国を見た。
「日本て、せまい。何人ぐらい住んでるの?」
20人ぐらいしか住めそうにないと、ロシアと比べてあまりにも小さな面積を見てジャッキーは思った。
「1億ぐらいいるらしいぞ」と、ハリーは地図をジャッキーに渡して、エンジンをかけながら言った。
「1オク?!そんなに?それじゃ、俺たちが行っても立ってる場所もないんじゃない?」
「はは・・・大丈夫、そのぐらいはあるから。汽車や自動車も走ってるし、国内線の飛行機もあるらしい」
「飛行機・・・」
ジャッキーは、日本の端から端まで滑走路ぐらいの長さだと思っていた認識を修正した。
「電気ある?」
「あるんじゃね?・・・うん、ある、ラジオもテレビもあるって聞いた」
「ふーん・・・」
「そうだ、オリンピックやるんだから、ちゃんと文明国だぜ」
「そうなんだ・・・」
監獄には、時々日本から荷物が届く。ジャッキーの脳裏に、赤い目をした日本兎の娘たちが、絢爛豪華なキモノを背の高いロシア女性に着せかけている図が浮かんだ。想像図の中を、桜吹雪が吹き過ぎた。桜を見たことのないジャッキーには、それが花びらだということはわかったが、何の花だかわからなかった。
遠くへ行きたいと言ったのは自分だった。でも、そんな遠くへ行くのは、なんだか怖かった。ハリーと一緒なら、幸せなはずなのに。何も怖くないはずなのに。

案じたとおり、ジャッキーはその先の変化のない景色にすぐ飽きて、すっかり憂鬱になってしまった。ハリーが話しかけても、一緒に歌おうとしても、乗ってこなかった。うとうと眠っては、目を覚ましてため息をつく。ガソリンスタンドで休憩したとき、お菓子を買って食べるかと聞いたら、それさえいらないと言った。
夕方、大きな街に差しかかると、ハリーはジャッキーの機嫌が直るまでそこに停まることにした。ここで宿を取ってもいい。立派なホテルに泊まれるぐらいのお金もあるし。

まず、ショッピングモールの駐車場に乗り入れて、ぐずっているジャッキーを促して買い物に行った。ジャッキーは、いかにもやる気がなさそうに、ハリーに手を引かれて歩いていた。
下着などを買い足し、カフェテリアでジュースを飲むと、ジャッキーはまだつまらなそうな顔をしていたが、さっきより態度は良くなった。
マネキンがポーズを取っているショウウィンドウの前で、彼女は立ち止った。マネキンは、鮮やかだが上品なオレンジ色のワンピースと、オフホワイトのジャケットを着ていた。ジャッキーは横に立っているハリーの顔を見上げ、彼もマネキンが着ている服を見ているのを見ると、嬉しそうな表情になった。
「やっと笑ってくれた」と思って、ハリーはマネキンを指差し、「欲しいのか?」と言った。
ジャッキーは笑いながら首をかしげ、「着てみていい?」と言った。
彼女は試着した服を買って、マネキンが履いていた靴も買った。モデルサイズの商品が売れて、店員も喜んだ。それから、ファッションの店を回って、ジャッキーはあと何着か服を買い、バッグやアクセサリーを買い、ハリーの服まで選ばせて買った。彼女が再び元気で楽しげになったのが嬉しくて、ハリーはジャッキーが飽きるまで買い物をさせた。
さすがのハリーも――重いからではなくて、物理的に手に下げたり載せたりするのが限界で――持ちきれないほどの買い物をして、ジャッキーはやっと満足した、というか、買い物を続けたら夕食の時間がなくなるということに気づいて、駐車場に戻ることに同意した。ハリーの財布には、夕食代と、セカンドクラスのホテルの宿泊料ぐらいが残っていた。ジャッキーが明日の朝食と昼食の分ぐらいは持っているはずだと思って、ハリーは小奇麗であまり高そうでないホテルに入った。

客室に入って荷物を下ろすと、ジャッキーはラジオのスイッチを入れ、ソファに体を投げ出した。夥しい買い物包みには、興味がないようだった。
感情の高揚と落ち込みの落差が大きくて疲れているのだろうと思って、ハリーは「食事はこの中でするか?」と言った。ホテルの中には、レストランとカフェが一つずつあるだけだった。
ジャッキーはのろのろと起き上がって、「外に行く」と言うと、耳の毛を撫でつけた。
ハリーがどこまで本気にしたらいいのかと思っていると、ジャッキーは唐突に立ち上がり、
「お洋服買ったから、お出かけする!」と言って、買い物包みを手当たり次第に開け始めた。
包装紙を破り、テープを引きちぎる彼女を手伝おうとして、ハリーは
「何を探してるんだ?」と訊いた。
「えーと・・・」
ジャッキーは言葉で説明しようとしても無駄だと、経験的に知っているのですぐ諦め、ハリーも彼女が言葉で説明できるとは期待していないので、答は待たずに一緒に包みを開けた。
「あ、これ!」とジャッキーが手に持って言ったのは、最初に買ったオレンジ色のドレスだった。ジャケットと靴も、同じ店で買ったから一緒に紙袋に入っていた。彼女はそれから2、3個あるバッグの包みを開けて、一つ選んで持って出かけることにした。
新しい服を着て、ジャッキーはまた明るい気持ちになり、ハリーと腕を組んで意気揚々と夜の街に出た。

繁華街を少し歩いた先のレストランで、二人はゆっくり満ち足りた食事をした。
ジャッキーは、周りに人がいてざわついている雰囲気の中で、ほっとしているようだった。都会や雑踏が好きなわけではないが、めったに行き交う車もなく、どこまで続くのかわからない荒涼とした土地を旅することは、彼女にとっては寂しすぎるのかもしれない。
「俺と一緒なら、どんなところでも行けるというわけじゃないのか・・・」と、ハリーは思った。ジャッキーにとって楽しくない旅であるということが、理屈抜きに彼にとって辛いことだった。
たしかに、車の旅は寂しいかもしれない。列車のほうが、まだ良かったかもしれない。いっそのこと、飛行機でひとっ飛びにレニングラードやモスクワでも行けばよかっただろうか。なにしろ無計画に、ただのドライブだと思って出てきたから・・・。
そんなことを考えていると、ジャッキーがフォークに刺したニンジンを彼の前に突き出して、ふざけたような笑顔で「何考えてるの?」と言った。
「何だよ、自分で食えよ」と言うと、ジャッキーはニンジンをさらに彼の顔に近づけて、
「じゃ、そっちのを食べさせて」と言った。
ハリーは口を開けてニンジンをぱくりと食べた。そして、自分の皿からニンジンを一切れフォークに刺して、ジャッキーに食べさせた。ジャッキーは何やら得意そうな嬉しそうな顔で、ニンジンを噛んでいた。
そうだ、俺が弱気になってどうする。どこかで落ち着いて、またにぎやかな生活を始めるまでの間、こいつを寂しがらせないようにするのが、俺の役目じゃないか。すべてを俺に預けてついて来たんだから、俺のジャッキーは。

そのころの東監獄。
「彼らはあまり進んでいないようですね」
カンシュコフのチーフ・ギャラハドは、夕食の皿にナイフとフォークを揃えて置きながら言った。
「ジャッキーの調子が良くないんじゃないかな」
と、カンシュコフF君が心配そうに言った。
「報告では、元気そうですが?運転しているのはハリーだし」
「病気とかじゃなくて・・・。退屈してぐずったり、寂しがって泣いたりしたら、運転どころじゃないよ、俺だったら」
F君は、エスプレッソマシンで食後のコーヒーを淹れて、チーフに勧めた。
「ありがとう。・・・そう、君だったらそうでしょうね。ハリーもでしょうか」
「だと思うよ」
自分のコーヒーに砂糖を入れながら、F君は「ジェフだったら、遠くまで行くことが目的なら、構わず進むだろう」と思ったが、それは言わなかった。なんであいつはあんなに冷酷になれるんだろう。ジャッキーが泣いてもびびらないヤツなんて、あいつぐらいだ・・・。
「もう、俺、限界。危険はないと頭でわかってても、ガマンできない。明日には追いかけるよ。止めないでよ、チーフ」
F君は、いつもの2倍砂糖を入れたことにも気づかずにコーヒーを飲み干した。
「止めませんよ」と、チーフは眉をちょっと吊り上げて言った。「G君は何と言っているのですか?」
「あいつの言うことなんか聞く必要ない!もちろん、引きずってでも連れて行くけど」
涙ぐんでそう言うF君に、いちおう同情を示す眼差しを送って、チーフは「賭けをしているみんなに恨まれるでしょうねえ」と思っていた。
例によって口数の多いF君は、一日中思っていることを吐き出し始めた。
「全部、ハリーの責任だよ。ジャッキーは、女の子になったばっかりで、ほんとにまだ子どもなんだ。可愛い女の子は、うんと小さいときからちやほやされて、自分の表情ひとつで男を天国にも地獄にも行かせられることを覚えていく。いろんなことをやってみて、反応を見て、自分の感情も育てていく。あの子は、20年分ぐらいそういうことをやっていいんだ。だから、浮ついてても、調子に乗ってても、みんな許してるんだよ。でも、ハリーは何なんだ?いい年して、子どももいるくせに、子どものジャッキーの挑発に乗って、バカなことばっかりして、ジャッキーを傷つけて、絶対許せない。チーフだって、許せないと思ってるだろ?」
「そうですね・・・」チーフは「我が子」とみなされている黄色い子たちにだけわかる程度に、表情を変えた。
「いくつかの点では、許すつもりはありません。しかし、大事なのは、ハリーを許さないということより、ジャッキーのすべてを受け入れるということでしょうね。それができるのは・・・」
チーフはF君の目を覗き込んだ。泣き虫チャラ兎だが可愛い我が子であるフロイドの目は、青く澄んでいた。
「・・・」
F君は頷いた。なんだかんだ言っても、彼は相棒のG君を実の兄弟のように愛していたから、「あいつでよかった」と思っていた。

つづく。






Last updated 2012.04.24 11:02:46

ジャッキー、愛の逃避行(3)
[ 創作 ]  

東へ。海へ。逃亡モスクビッチは走っていた。
朝は晴れていたが、だんだん曇ってきて、ついに雨になった。
荒涼としたシベリアの大地を走る車の中で、風の音とエンジン音とワイパーの音を聞きながら、ジャッキーは歌った。

When that I was an a little tiny boy,
With hey, ho, the wind and the rain,
A foolish thing was but a toy,
For the rain it raineth every day.

おいらが子ウサギだったころ
 ヘイ、ホー、風吹き雨が降る、
馬鹿ないたずら 笑ってすまされ、
 雨、雨、また降る、今日も降る。

But when I came to man's estate,
With hey, ho, the wind and the rain,
'Gainst knaves and thieves men shut their gate,
For the rain it raineth every day.

だけど大人になった日にゃ
 ヘイ、ホー、風吹き雨が降る、
悪党、泥棒、相手にされぬ、
 雨、雨、また降る、今日も降る。

For the rain it raineth every day. と、ハリーも一緒に歌った。

But when I came, alas, to wive,
With hey, ho, the wind and the rain,
By swaggering could I never thrive,
For the rain it raineth every day.

そんなおいらも所帯をもって、
 ヘイ、ホー、風吹き雨が降る、
はったり、脅しじゃ生きられぬ、
 雨、雨、また降る、今日も降る。

灰色の空。窓を叩く雨粒。ジャッキーの歌声にも、元気がなくなってきた。
「この歌、暗いですねぇ。フェステがよく歌ってるんだけど」
芝居『十二夜』の道化フェステの歌であるが、ジャッキーの言う「フェステ」は、文学好きの囚人のあだ名である。
「ガキのころには、嘘ついてもカッパライとかしても、怒られて済んだんですがね」と、フェステはよく言った。「大人になってもそんなことしてると、しまいには檻の中ですよね。あたしは結婚なんかしなかったのが、不幸中の幸いで。これで妻子がいた日にゃ、目も当てられません」そういう境遇の囚人仲間もいるので、フェステは最後のところは声を落として内緒話をするように言った。

For the rain it raineth every day.

ハリーは車をガソリンスタンドに止めた。次のスタンドは、たぶん200kmぐらい先だろう。
ガソリンを入れて、ハリーはジャッキーがだるそうに窓に頭をもたれているのを見て、
「眠いのか?」と言った。
彼女は憂鬱または不機嫌だった。ハリーは、眠いからだと思いこむことにして、助手席のシートを少し倒して、彼女の胸から足までラグをかけてやり、
「当分何もないから、寝て行け」と言った。
ジャッキーはだるそうにかすかに頷いた。ハリーは車を発進させた。

時々ちらちらジャッキーの様子を見ると、目をつぶっているときと開けているときがあったが、ほとんど身動きせず、押し黙っていた。
彼女に決定的に拒否されたときのように、取りつく島もなくなったらどうしよう、という思いが、ハリーの頭を過ぎった。彼はすぐに、そんなはずはないと、自分で否定した。彼女の望みどおりに、二人だけの世界を驀進中だ。世界には俺とお前しかいない。拒否なんかされるはずがない。
ハイになった反動で、暗くなることはよくある。仲間たちに言わせると、ハリーがいないところでテンションが下がると、ジャッキーはホームシックになるのだそうだ。
そうだ、俺がいるんだから、ホームシックでもメランコリーでもないはずだ。腹いっぱいで、興奮した後だから、眠いんだ。それだけだ。
いくつかの懸念を、抑圧して意識の外へ追いやり、ハリーは運転しながら「雨にぬれても」を口ずさんでいた。

Raindrops keep fallin' on my head

俺の頭にずっと雨が降ってやがるんだ、何もかもちぐはぐでうまくいかなくて、雨は頭の上に降ってきやがるんだ。俺は太陽に文句を言ってやった、てめぇいい加減なことやってんじゃねえよ、居眠りぶっこいてねえで仕事しろよ、俺の頭の上に雨が降ってんだなんとかしろよゴラァ!
・・・そんなような意味の歌だ。バカな男だ。何にでも文句言うヤツにろくなヤツいねえし。
でも、歌にはまだつづきがある。

But there's one thing I know
The blues they send to meet me won't defeat me
It won't be long till happiness steps up to greet me

でも、俺にはわかってる、ヤツらが俺を落ち込ませようとしたって、俺は負けない、もうすぐ幸せが目の前に現れるんだ、ハーイ♪って。・・・

Because I'm free
Nothin's worryin' me

雨なんか止まなくていいんだ、俺は自由なんだから、悩むことなんかないんだから。

うん、いい歌だ。
ハリーは煙草を出して火をつけた。
ジャッキーは眠っていた。窓に凭れている彼女の肩を、ハリーは抱き寄せた。
咥え煙草で片手運転。まあ、普段から、マナーも安全運転義務意識も最低に近い男だ。安全運転にはけっこう厳しいジャッキーは眠っているし、数キロ以内にはおそらく兎っ子ひとりいなかったから、誰にも咎められることはなかった。雨にぬれても元気なモスクビッチは、東を向いて着々と走り続けていた。

やがて雨は上がり、雲の切れ目から日が射してきた。車内も明るくなり、ジャッキーが目を覚ました。
「おはよう、ベイビー」
ハリーは道端に車を止めて、外に出た。助手席のほうに回ってドアを開け、
「ジャッキー、出てみろ」と言った。
ジャッキーは眠そうに目をぱちぱちしながら、地面に下りて、ハリーが見上げる空を見上げた。
「わぁ・・・」
空には、大きな虹が出ていた。

Somewhere over the rainbow, way up high …
虹の向こう、空高く…

ジャッキーは歌った。しだいに伸び伸びと、力強く。
ハリーが一人で聞くのはもったいないと思うほどの、美しいソプラノで。

…Where troubles melt like lemon drops
Away above the chimney tops, that's where you'll find me!

悩みはレモンドロップのように融けて、
遠く煙突の上、そこに私はいるわ!

Somewhere over the rainbow, bluebirds fly
Birds fly over the rainbow, why then oh why can't I?

しあわせの青い小鳥が、虹を越えて飛べるなら、
私だって、私だって!

ジャッキーのレモン色の耳が、日の光に輝いていた。しあわせの青い小鳥が、と歌いながら、彼女は幸福感に満たされて、天を仰いで両手を広げた。ハリーがあわててその腰に後ろから手を回すと、ジャッキーは微笑んだまま首を曲げて彼を見上げた。
「俺を置いて行くのか、ジャッキー?」
「why then oh why can't I? ああ、私だって!」
ウサギは空を飛べない。でも、ウサギ型天使は飛べるんだ。
ハリーはそう思っていた。

まもなく、ある程度大きな町に着いた。鉄道の駅が町はずれにあり、規模は小さいが活気のある町だった。軍服姿の将校や兵士たち、さまざまな毛色の目つきの鋭い商人たちで、にぎわっていた。
「カジノあるかなあ」と、ジャッキーが言った。
裏通りには、昼間からギャンブルを営む怪しげな店があると思われたが、ジャッキーは表の健全なゲームセンターで十分だと思ったようだった。彼女は店を外から見ただけで、稼いだチップを換金してくれる店がわかった。
「お前、監獄に勤める前は、マフィアの運転手だったんだろう」と、ハリーはよく冗談交じりに言っていたが、その交じり具合は、冗談2割本気8割だった。ジャッキーは、車の運転が異様に上手く、裏社会に顔は利かないが鼻が利く。ポーカーやルーレットで、プロのイカサマの裏をかいて勝つ技術は、マフィアのボス・キレネンコに教わったと言っているが、短期間にボスにそこまで見込まれたというのも、非常に不思議で怪しい。
ジャッキーは、鼻歌まじりにスロットを回し、あっという間に自分が埋まるほどのチップを吐き出させた。
彼女は「世界一ギャンブル運が悪い」と自分で言っているとおり、どんなに当たりがでやすいクジでもハズレしか引いたことがなく、逆に少ないハズレを引き当てる能力は称賛に値するほどだった。ロシアンルーレットなんかやったら、必ず一発目で頭を撃ち抜く自信があった。だから、カジノやゲームセンターでジャッキーが勝っているとき、彼女は「ギャンブル」をしているのではない。機械も顔負けの技術で勝っているのだ。ある意味イカサマだが、べつに小細工をしているわけではない。
スロットも、ジャッキーはまったくカンに頼らず、超常的な動体視力と千分の一秒の狂いもなくレバーを押す運動神経で制していた。
注目を浴びたことと、店をつぶしては気の毒だと思ったため、彼女は適当なところでチップを換金して次の店に移った。3軒でチップに埋まり、一週間ほどそこそこ良いホテルに泊まって上等な食事ができるぐらいの現金を手にした。
「ベイビー、お前って幸運の女神だな!」と、ハリーは感銘を受けて言った。
「ま、こんなもんだ♪」
ジャッキーは得意そうに耳を揺らした。

「オー、そうこうするうちに、お昼を過ぎてしまいましたよ!」
と、一仕事してお腹を空かせた子ウサギが言った。
「そうだな。でも、荒稼ぎした場所に長居は無用だ。ずらかろうぜ」と、ハリーは言った。
「ずらかろうぜ!」
二人は屋台でコーヒーだけ買って、車に乗り込んだ。ジャッキーはダイナーでもらってきたドーナツをちぎっては運転しているハリーの口に入れてやり、自分も食べた。
町を抜け、また無人の荒野を走り、線路を汽車が走っているのを見て(一日数本あるらしかったが、なかなか出会えるものではないのでジャッキーは喜んでいた)、小さな村の食堂で、田舎料理を堪能した。
ハリーはご機嫌だった。懐は潤い、ジャッキーはますます可愛かった。彼女はよく食べてよく笑った。陽気で可愛らしい子ウサギは、生まれたときから彼の手の中にいたように思われた。一度逃げたということは、思い違いか悪い夢のような気がした。
「ジャッキー」と、ハリーは呼んでみた。
「にゃ?」
「いい子だ」
「にゃあ♪」
いい子だ。これからずっと、俺だけを見て、俺だけに笑いかけるんだ。
可愛いジャッキー。俺のものだ。そのまぶしい笑顔は、いつまでも俺が守る!

つづく。






Last updated 2012.04.23 11:13:10

2012.04.21

ジャッキー、愛の逃避行(2)
[ 創作 ]  

朝になった。
ジャッキーは目が覚めていたが、ハリーが呼んでもなかなかベッドから出なかった。黄色い耳の先だけ、カバーの下から出ているのを見て、ハリーはこんなことは初めてだと思った。
「ジャッキー、可愛いジャッキー♪」
ふざけて猫撫で声で呼んでみると、ジャッキーは毛布の下で丸くなって、耳の先まで潜ってしまった。
「出てこい、子ウサギ~」
毛布を端から少し持ち上げて覗くと、耳をぺったり頭につけた子ウサギと目が合った。
「にゃあ・・・」
「いたいた、ベイビーw」
「みゅ・・・」
ジャッキーがもそもそ体を起こした。まばたきすると、長い睫が蝶の翅のように羽ばたいた。
「ハリー・・・?」
彼女は不安そうに手を伸ばした。ハリーはその手をぎゅっと握った。それから、ベッドに腰掛けて彼女を膝の上に抱いた。
ジャッキーは、確かめるようにしっかりハリーに抱きつき、何度もキスしながら言った。
「ハリー・・・、よかった・・・夢かと思った・・・」
「夢?」
「ベッドから出たら、いつもの部屋なんじゃないかって…」
「夢じゃねえよ、ダーリン」
ハリーはジャッキーの耳を撫でながら、甘く優しい声で言った。
「二人で海行くんだよね?」
「ああ。その先にも」
「ずっと、いっしょだよね?」
「いつまでも」
「嬉しい・・・ハリー、愛してる・・・」
「ジャッキー、ダーリン、愛してるぜ・・・」
この愛が一生続くと信じている二人は、互いに相手さえいれば何もいらないと思いながら、少々黄ばんだカーテンを通して入る朝の光の中で、抱き合っていた。

そうしている間に、外に車が止まり、男の足音がモーテルの事務所に入って行った。しばらくして、管理人と訪問者が事務所から出て来た。
「今も3、4台いるけど、客の車の半分はモスクビッチだよ」と、管理人が言っている。
「屈強な若い男とモデルみたいな女?目立つと思うだろうけど、実はそういうカップルが一番多いんだよ、うちの場合はね。若い娘をたらしこんだ金持ちのおじさんは、もっと高級なホテルに行くし。はいはい、もちろん、怪しいのが来たらすぐ通報するよ。市民の義務だし、いつもお世話になってるから」
ハリーは、カーテンの隙間から外を見た。管理人が、警官と話している。警官は、相棒が運転するパトカーの助手席に乗り込み、パトカーは走り去った。
「ちっ。もう追手がかかったか」
偶然、他にも追われているカップルがいるのかもしれないが、警戒して悪いことはない。
「オー、まさかのときの・・・」
「皆まで言うな。来たらどうするw」
ハリーは、ジャッキーを不安にさせないように軽口を叩くと、「顔洗って着替えろ」と言って、自分は荷物をまとめ始めた。

15分後、ハリーとジャッキーは、モーテルを後にしていた。
追われていることを知って、「駆け落ち」してきたという事実に改めて重みが加わった。ジャッキーは、映画のヒロインにでもなった気持ちで、(ヒロイン気取りがけっこう好きな子だから)わくわくして方向性の定まらないやる気が体に漲っていた。
ハリーも、警官を見たことで、ますます「俺はやるぜ!」という気持ちになっていた。何をやるかというと、「ジャッキーを護る!」何からどのようにということは、あとで考えるつもりだった。

愛の逃避行に夢中になっているウサギたちが知らない事実。
警察は、成人男女が勝手に仕事を放り出して手に手を取って逃亡したものなんか、捜索してはくれない。まあ、とにかく、一週間ぐらいは、捜索願を受理してくれない。あのモーテルに現れた警官は、G君がマフィアを通して頼んで、いつものパトロールの際に管理人と一緒にちょっと芝居をしてもらったのだ。
駆け落ち組には、とことん盛り上がらせたほうがいい。そうすれば、数日以内に飽きるだろうと、東監獄の情報強者は予想していた。

「ジャッキー、腹減っただろ」
ハリーは次の町へ向かって車を走らせていた。隣の小都市まで20分ほどだ。
「はい、ハングリー・ベイビーです!」
朝からテンションの高いジャッキーが言った。
「フレンチトースト、ベーコン、メープルシロップ大増量と、レタスとトマトとポテトサラダ・ダブルニンジンでおねがいします!」
「わかった、わかったw、ちょっと待ってろよ~、たらふく食わせてやるから」
と言ったものの、実はハリーは一文無しだった。昨日、宿代を前金で払ったら、小銭しか残らなかったので、管理人室で売っている煙草とミネラルウォーターを買って、今ポケットにあるセントだかペンスだかカペイカだかのコインでは、キャンディ1個買えるかどうかもわからない。
町に入り、二人は明るい雰囲気のダイナーで朝食を取った。ジャッキーは、朝から見事な食べっぷりだった。長身でスレンダーな彼女を見て、小鳥のエサぐらいしか食べないファッションモデルだと思った店の人たちは、彼女がフレンチトーストとベーグルサンドと大量のベーコンと生野菜をたいらげ、デザートにチョコレートパフェを注文したので、呆れながら称賛する気持ちになっていた。
大男のハリーが、ダブルバーガー2個とドンブリ一杯の野菜サラダとドンブリ一杯のフライポテトを、大量の砂糖を入れた5杯のコーヒーで流し込んだことには、誰も驚かなかった。
彼は、煙草を咥えて火をつけながら言った。
「ところで、ダーリン、金がねえんだ」
「オー・・・」
ジャッキーは、驚かなかった。昨日からいろいろ買ったし食べたから、当たり前だと思った。そして、ハリーが『体で払う』つもりでいることも、聞かなくてもわかって、とくに驚きも心配もしなかった。
「お前はゆっくりデザート食ってろ」
「うん。先輩、がんばってね。俺も食べ終わったら手伝うから♪」
まるで、こんなことには慣れているコンビのように、彼らはこれから何をするのか、打ち合わせもせずに完璧にわかっていた。
ジャッキーにパフェを持ってきたウェイトレスに、ハリーは無駄に爽やかなヒーロー・スマイルを見せて言った。
「ちょっと店長と話せるかな、カラミーア?」

二人で5人前ぐらい食べてくれて良い客だと思っていたら、実は金がないから1、2時間働かせてくれと言うハリーの申し出を、店長はしぶしぶ受け入れた。素手でヒグマでも倒しそうな、柄の悪い大男に暴れられたらイヤだし、ちょうど勤め人の朝食タイムになって店が混んできたから、少しでも手伝ってもらえるなら、実のところ歓迎だったのだ。
柄の悪い大兎は、店長の予想をはるかに超えて有能だった。食事を運ぶことは本職だからw。店長は、常連客の好みを一言二言ハリーに指示しながら、次々に料理を運ばせた。食器を下げるときも、ハリーはテーブルいっぱいの皿やカップやグラスを、さっとまとめて片手に持ち、素早くテーブルを拭いた。店長は感心して、こいつは毎日こうやって金を払わずに食事にありついてるんじゃないかと、失礼なことを思った。
しばらくすると、パフェを食べ終えたジャッキーが、ハイパーやる気モードになって立ち上がった。
「先輩、あとは俺にまかせて、皿洗いを手伝ってやっておくんなせい!」
「おう、頼んだぜ、ベイビー!」
ジャッキーはエプロンを借りると、テーブルの間を野ウサギのように走り回って働いた。暴力ウサギ・キレネンコさんの爪や拳や蹴りを避けながら、グラスの水一滴こぼさずに食器を運ぶことに慣れているジャッキーにとって、4、5人分のモーニングセットと大きなコーヒーポットを持って、カウンターから客席へ1、2秒で移動することなど、朝飯前だった(もう朝飯は済ませたが)。
「おまちどうっ!モーニング・スペシャル・キミのひとみは目玉焼きっ!」などと言って愛嬌たっぷりなので、人気も急上昇だった。

一番忙しい時間帯が過ぎ、ジャッキーがテーブルに置いてある容器に塩コショウを補充していると、店長が、もう十分働いたから終わりにしていいと言った。ハリーは、モーニング・サービスで使った食器を全部洗い終えていた。
「助かったよ。バイトの子がやめたところだったから」と、店長が二人に言った。「明日からも来てくれるとありがたいんだが・・・そうか、旅の途中じゃしかたない、残念だな」
「すまねえな、先を急ぐんで。全部おいしかったぜ。ごちそうさま!」とジャッキーが言った。
「世話になったな。一緒に働けてハッピーだったぜ」とハリーが言うと、娘というにはトウが立ったウェイトレスが、まんざらでもなさそうに頬を赤らめた。
食べた物の代金以上に働いたから、差額を払うという店長の申し出を丁重に断って、お土産のドーナツだけはありがたくいただいて、ハリーとジャッキーは惜しまれながらダイナーを後にした。

車の中で、ジャッキーはポケットや服の下のあちこち(細かい詮索をするとセクハラで訴えられます)から、コインや紙幣をたくさん取り出した。
「見て。こんなにチップもらったの!」
「ヒュ~♪なんか多くね?ダイナーのウェイトレスにそんなにくれるもんか?」
「おちかづきのしるしとか言って・・・デートの約束した人も10人ぐらいいますよ」
「げ~、下心か・・・。すっぽかされて気の毒になw」
「どうせすぐ出発だから、じゃんじゃん『からやくそく』しときました~♪」
「酷ぇなそれwwまあ、どっちにしろ逃避行中だけどな」
「うん。逃げちゃえ逃げちゃえ~♪」
「・・・」
子ウサギの教育にたいへん悪いことをしていると思うハリー先輩だったが、反省はしなかった。
「それだけあれば、昼飯と晩飯と宿代になるな」と、運転しながらハリーは言った。
「ガソリンも入れなきゃ」とジャッキーが言った。
お金はもっと必要だということは、明らかだった。
「ドント・ウォーリーですよ、先輩。俺が稼いであげるから!」
「お前が?」
「大きい町があったら、カジノかゲーセン行こう。ちょっとぜいたくできるぐらい、儲けてあげる♪」
「そうか・・・」
ジャッキーの能力のことは、ハリーも知っていた。いちおう合法的だし、とにかく金は必要だから、そうやって稼いでもらって悪いことはないだろう。

つづく。


Last updated 2012.04.22 11:06:52

2012.04.20

ジャッキー、愛の逃避行(1)
[ 創作 ]  

(前回の序章に続きます。)

Love is like war: easy to begin but very hard to stop.
---H. L. Mencken


運河には、ぽつんぽつんと浮かんだ水鳥以外、何もいなくなった。
ジャッキーは、石を投げて水切りをしながら、歌っていた。

You are my sunshine,
My only sunshine,

ハリーは、少し後ろのほうで、ぼんやり彼女を見ていた。

You'll never know, dear, how much I love you;

どんなに俺が愛しているか、お前にはわかるまい。

Please don't ・・・

ジャッキーが振り向いた。
「ハリー」と呼ぶ。
ハリーは少し気を引き締めた。そうだ、話をするために来たんだ。だが、口説くための言葉なんか考えてなかった。何て言おう?くそ、ほんとに言葉は苦手だ。
ジャッキーは、2、3歩近づいてきて立ち止まった。彼を見上げて、
「ねえ、どこか連れてって」
「え・・・?」
退屈した子供みたいな顔をして。ここは飽きたから、ほかへ行こうと言うのか。
「どこかって?」
「だれも知らないとこ行って、二人で暮らそう」
「・・・・・・」
冗談で言ってるのでないことは、すぐわかった。彼に向けられた明るい青い目は、100パーセント真剣だった。
二人とも結婚している今、結ばれるためには駆け落ちするしかないということだ。ハリーは、彼女が彼と結ばれたがっているということには、なぜか疑いを持っていなかった。

それを言うために、ついて来たのか。
口説く必要なんかなかったんだ。
どんなに愛してるか、わかってないのは俺のほうだったんだ。

「よし、行こうぜ、ベイビー。どこまででも!」

ジャッキーの表情が変わった。翳りも、刺も消えて。
「ほんと?!やったー!!」
ハリーは、彼に飛びついてきた愛しい少女のこと以外はすべて忘れた。柔らかい、熱い体を抱きしめ、食べ尽くそうとするかのようにキスを繰り返した。

やっと体を離し、でも手は固く握り合ったまま、ジャッキーはハリーを引っぱりながら跳ね回った。
「ねえ、愛してる?」
「ああ、愛してる!」
「世界一?」
「ああ、誰よりも!」
「ずーっと、いつまでも?」
「一生だ、ベイビー!」
ジャッキーの澄んだ笑い声が、空に響き渡った。彼女は遊びに夢中の子どものように、無邪気に笑いつづけた。

愛してる。愛してる。誰よりも。
唐突に別れる前に言っていたことと同じだ。愛してる、誰よりも、いつまでも。同じことの繰り返しだということに、幸福に酔ったハリーは気づいていなかった。

車で近くの町へ行き、買い物した。何も持たずに出て来たから、当座の着替えや日用品を買ったのだ。
夕焼けの公園で、ジャッキーは犬の散歩をしている人たちに話しかけ、犬と一緒に転げ回り、犬と一緒にフリスビーを追いかけた。
日が暮れて、人も犬も帰って行った。ジャッキーはハリーの手に摑まって、歌いながら歩いていた。

♪ハウ・マッチ・イズ・ザット・ドギー・イン・ザ・ウィンドウ~、キャンキャン♪

ハイになりすぎて、収まらなくなっていた。ハリーはタガがはずれたジャッキーを可愛いと思っていたので、落ち着かせようとはしなかった。
「ジャッキー、晩飯は何にする?」
「フランス宮廷料理でシルヴプレ!!」
「マジかよ!セクシー子ウサギを質に入れねえと無理だなw」
「じょうだんです!レディとトランプみたいにスパゲッティ食べながら、お肉は何にするかかんがえます!」
「よし、イタリアンだな」
ジャッキーにたらふく食わせると、安宿に泊まるぐらいしか現金は残らなかった。
クレジットカードは足が付くから、使いたくない。だが、ここに長居するわけでもないから、かまわないのではないか。待てよ。引き落とし口座は・・・。あれは女房のために手をつけずにおいたほうがいい。・・・女房?
ふと、現実に戻りかけたハリーは、ジャッキーがいつのまにか結婚指輪をはずしていることに気づいた。
そうだ、二人とも、何もかも捨てて来たんだ。残してきたもののことを考えるのはやめよう。進んで行くことを考えるんだ。俺のベイビーと一緒に、どこまででも行くと言ったんだ。
「ハニー、これからどこ行く?」
「あなたと一緒にどこまでも!」
ほら、俺たちの気持ちは一つだ。世界の果てがあるなら、そこまで行ってやろう。とりあえず、陸地の果てを目指してみるか。
「なあ、初心に帰って、海に行くか?」
「タラッタ、タラッタ!海に着いたらどうするの?」
「進み続けるのさ。俺のモスクビッチが水陸両用だって知ってるか?」
「知らなーい!なにそれゴージャス、ハラショー!!」
息が切れるほど笑い続けるジャッキーを車に乗せて、ハリーは郊外へ向かった。

モーテルの部屋で、ジャッキーの服を脱がせながら、ハリーは言った。
「ダーリン、今日はおあずけだな」
「にゃあ?」
「女の子の日だろ」
「エッチお休みですか」
「やめといたほうがいいだろ・・・」
彼女の夫はしないだろうと言いかけて、言葉を飲み込んだ。
ジャッキーの夫のジェフは、同僚で、親友と言える良き友だ。俺は何をしてるんだ。もう、後戻りはできない。
「取り返しがつかない」という、チーフの言葉を思い出した。
「この世には、取り返しがつくこととつかないことがあります。君がジャッキーにしたことは、取り返しのつかないことです。償うことさえできません。君が彼女のためにできることは、二度と関わらないということだけです」
てやんでぇ。上等だ。なら、取り返そうなんて思わずに、先へ進むだけだ。取り返しのつかねえことを、もう一つしてやった。ハラショーだろう。パネェだろう。たしかに、どうしたって償うことなんかできねえ。俺の命で償うったって、そんなこと償いにもなりゃしねえ。俺はただ、ジャッキーだけを守る。もう二度と泣かせたくねえんだ。この笑顔だけは、最後まで守り抜く。
「ベイビー、明日も明後日もあるんだ。清潔にしておけ」
「はーい」
ジャッキーは、シャワーを浴びにバスルームへ入った。

思う存分はしゃいで騒いだジャッキーは、ハリーの子守唄ですぐに寝ついた。
ハリーは煙草を吸いながら、あどけない寝顔を飽きることなく眺めていた。
「最初から、こうすればよかったんだ。ずっと、俺を愛してたんだ、俺のジャッキーは。二人きりで、誰にも邪魔されたくなかったんだ・・・」
当たらずと言えど遠からずのことを思いながら、ジャッキーの明るい黄色の頭を撫でた。耳がぴくっと動いたので、耳も撫でてやる。軽くてふんわり甘いもので胸が満たされていきながら、ハリーはなぜか見た目がジャッキーそっくりの我が子のことをまったく思い出さなかった。

Qui dormit, non peccat.
眠っていれば罪を犯さないですむよ。


その夜、カンシュコフ寮では、「駆け落ち」の噂でもちきりだった。
勤務中に行き先を言わずに出かけたハリーとジャッキーの行方を、ジェフとフロイドは夕方には掴んでいた。通常の犯罪者ネットワークは使いたくなかったので、マフィアに頼んだのだが、精鋭の情報担当兎を使うのが申し訳ないぐらい、ターゲットは簡単に見つかった。
「あいつら目立つから・・・」
「とにかく無事でよかったな・・・」
ジャッキーが無理やり連れ去られたのでないことも(そもそもそんなことは不可能である)、異様に楽しそうに騒ぎ回っていたことも、情報を分析するまでもなくわかった。
「ほんとにすぐ行かなくていいのか?」と、フロイドは相棒が気を変えることを期待しながら言った。が、ジェフはけんもほろろに首を横に振った。
「気が済むまでやらせないと、いずれまた同じことをする」
「そうかもしれないけど、それでも俺だったら・・・」
フロイドはそう言いかけて、ジェフのほうが自分よりずっと辛いのだと思って口をつぐんだ。
ハリーが、保護者として信頼できるということを疑う者はなかった。ジャッキーは、好きな物を好きなだけ食べて、安全で心地よいベッドで寝ているに違いない。
性的な意味で「寝て」いるということについては、当然ながら皆がひそひそがやがや言っていた。
「そういうとき、夫ってどうなのよ?」
「うわぁ~~、俺はそれで別れました><。。。」と言ったのが誰なのかということは、伏せておいてあげよう。
「ジェフはどうするんだろう?許すつもりかな?」
「うーん、こうまであからさまだと怒る気もしねーんじゃね?」
「あいつは身も蓋もないマテリアリストだからな、どうせこないだまで(HとJは)そういう関係だったんだから、べつにかまわないと思ってたりして」
「えー、いくらなんでもそれは・・・」

そんなこんな噂話に花を咲かせていると。
「君たち、心配しているのはわかりますが、ほどほどになさい」という声が背後からして、噂好きのウサギたちは跳び上がった。
「チーフ!なんで寮に?!」
「君たちが無責任な噂を広めないように、監督責任がありますから」と、屈強な若者たちの中に入ると小柄に見える、彼らのドンは言った。
「広めるったって、俺たちカンシュコフの中だけだけど・・・?」
こういう場合、「カンシュコフ」は集合名詞、全員で一匹の生物のようなものである。
「・・・話に加わりたいんだな」と、集合的カンシュコフは思ったが、声には出さなかった。
「で、いつ帰って来るんだ?」と、一人が言った。
「賭けよう!俺は明後日だと思う!」
「俺はしあさって!」
「いや~、一週間ぐらいはやってんじゃね?」
「チーフはどう思う?」
わいわいがやがやキャッキャウフフと夜は更ける。
つづく。


Last updated 2012.04.21 12:17:18

ジャッキー、愛の逃避行(序)
[ 創作 ]  

Love that is not madness is not love.
----Pedro Calderon de la Barca


ジャッキーは、結婚した日、正確にはその翌日、祝賀パーティーが開かれた日から、ハリーを挑発し始めた。もちろん、彼女はよりを戻すつもりなどなく、ハリーがその気になったら嬲って嘲笑するのが目的だったのだが、ハリーはわざと挑発に乗って、強引にねじ伏せて彼女を手に入れるつもりでいた。二人のバカげた壮絶なバトルが繰り広げられていた。ハリーは、3日でジャッキーを口説き落とすと宣言していた・・・。

(以下のストーリーは、以前別のブログで発表したものです。「駆け落ち」の話は、このドライブの話の別バージョンです。今回の分は、以前発表したのと同じ内容です。次回、このつづきが以前とは違う展開になります。)


カンシュコフ控室にて。
ハリーが座って煙草を吸い始めると、ジャッキーが傍に来て、微妙に距離を置いて座る。
「こんにちは」無邪気な笑顔。
ハリーは、少し目を細めて、観察するように彼女を見た。一回煙を吸い込んで、吐き出して、
「お前、なんで自分から寄って来るんだ?」
ほとんど無表情に、ほんの少し胡散臭そうな表情を交えて言った。
ジャッキーは、キョトンとした顔で、
「邪魔なら、向こう行きますけど」と言った。行けとは言われないと思って。
室内に数人いたカンシュコフたちが、ちらちら様子を窺っていた。仕事で立ち去る者は、後ろ髪引かれる思いで行った。入ってきた者は、見られている二人よりも見守っている者たちによる緊張した空気を感じた。
ハリーは、普通に雑談する調子で、「煙草、持ってるか?」と言った。
「今、吸ってるじゃないですか」と、ジャッキーが言った。普通の調子で、笑顔で。
「いいから、持ってるか?」
ジャッキーは、ちょっと眉を上げて、ポケットから未開封の煙草の箱を出した。
ハリーは、それを寄越せとも言わず、ジャッキーも、渡そうとせず、ただ手に持って、なんとなく見せていた。
「先輩、3日で口説き落とすって言いましたよね」
ジャッキーが、唐突に言った。可愛らしい笑顔で言うには不似合いな言葉だった。
「ああ、言った」
「今日で3日ですよ」
約束のプレゼントはまだ?と言う子供のように。
「ああ、そうか。だから、俺の手に落ちに来たのか」
ハリーは、おそらくわざと、落ち着き払って余裕の笑みを浮かべて言った。
「違います」
ジャッキーは、ついと彼に近づくと、彼の上着のポケットに煙草を入れて言う。
「これ、F先輩に、1年分て言ってあげれば?」
また、いたずらっ子のように笑いながら。ハリーは、ジャッキーを口説き落とせなかったらF君に1年間煙草を買ってやるという賭けをしているのだ。
「はは、そりゃいいな」と、ハリーは言う。「一箱終わったら禁煙しろってか。ははは、お前、時々頭いいよな。・・・って、俺はまだ負けてねえぞ!今日はまだ終わってねえだろ」
ジャッキーの手を掴もうとして、すいっと逃げられる。
「先輩、往生際悪い」
「知ってるだろ」
ちらりと、外野のほうに目を向ける。こちらを向いていた者は、あわてて目をそらす。
「ジャッキー、外出よう」と、ハリーは言った。「二人だけで話そう」
ジャッキーの顔から笑みが消えた。彼女は、ちょっと用事で移動するときのような自然な様子で、ハリーの後について休憩室を出て行った。
「行っちゃった・・・」
「大丈夫か?」
「何が?」
「さあ・・・」
あの二人は、薄気味悪い雰囲気ではあるが、険悪というわけでもない、勝手にさせておけばいい、と同僚たちは思っていた。が、このときはなぜかなんとなく胸騒ぎを覚えたので、彼らは仕事をしながら合間合間に二人がどこへ行ったのか、さりげなく探していた。

ハリーは、黙って建物を出て、駐車場のほうへ歩いた。ジャッキーも黙ってついて行った。モスクビッチのドアを開けると、ジャッキーは黙って乗り込んだ。
二人は、行くあてもないドライブに出発した。

車は、田園地帯を走っていた。
「ジュースとか水とか入ってるから、飲んでいいぞ」と、後部座席の足元の箱を指して、ハリーが言った。
この車は、公用車が払い下げられたもので、カンシュコフの若者たちが共同で維持していた。ハリーがほぼ私物化しているが、その分メンテナンスもよくやっているので、文句を言う者はない。
4月の初めまで、しばしば雪が降ったが、雪が融けると急速に植物が芽を吹き、牧草地は青々としている。
「♪Oh lovely meadows green and wide, ・・・」
ジャッキーが「おお牧場はみどり」を歌いだした。
「景気いいな」とハリーが言った。
「春ですから!」
時刻は4時を回っていたが、まだ日が差して明るい。放牧地で羊や牛が草を食べている。
「♪Grasses are growing, grasses are growing, ・・・」
ハリーは、運転しながら煙草の箱を胸ポケットから出した。ジャッキーが1本取り出して、火をつけてやった。
「ベイビー、どこ行きたい?」
「海!」
「海ー?!うーん、・・・てことは、太陽と反対方向へ行けばいいんだな。日本海まで、2千キロか、3千キロか~?」
「なんでそっちへ行くんですか?」
「うちは”東”って言われてるから、黒海より近いと思うんだが?」
「先輩、地理わかってますか?」
「わかってらぁ。地図見てみろよ。つか、お前、地図読めるのか?」
「読めますよ。くうかんはあくのうりょくは高いんですから」
「・・・ああ、地図は平面だがな」
そして、ハリーは次の交差点で曲がって、東とおぼしき方向へ車を走らせた。
「♪Water from mountain flows, melted from winter snows, ・・・」
「海へ行くのに、山の歌かよ」
「だって、ここは山道でしょ。雪解け水が川になって、川は海につながってるんでしょ?」
「ジャッキー、お前、賢いな~。よし、飛ばしていくから、あと2、3曲歌ってろ」
「イエッサー!♪turning it gaily goes, calling to me, hey!」

調子の良かったジャッキーだが、今日はことのほか集中力がないようだ。15分も走ると、歌うのにも飽きてきた。ということは、ドライブそのものに飽きているということだ。何しろ景色が単調だからかもしれない。何か食べ物を持ってくればよかったと、ハリーは思った。ビスケットでもどっかに入ってないか・・・。
ハリーは、近くに運河があることに気づいた。
「ハニー、運河があるぞ。あれで手を打たねえか?」
「運河?」
「海は遠い。着く前に飢え死にしちまうぞ?ここで止まっていいか?」
「OKです!」
ハリーは、運河に近づく細い道へ曲がった。

運河の岸は、草に覆われていた。岸辺と水面はあまり高さが変わらない。100メートルほど向こうにロック(水門)があり、そちらから向かって来るカナルボートが一隻あった。歩くような速度で、ゆっくり進んでいる。
ジャッキーは水を見ると喜んで、「タラッタ!タラッタ!(注。古いギリシャ語で”海”の意。)」と叫んだ。
ボートの舳先に座った60代ぐらいの男が、こちらに手を振った。ジャッキーが手を振り返して、駆け寄ろうとすると、男はそこにいろと言うように岸の地面を指差した。そこが、接岸に適した場所であるらしい。
ボートが接岸した。ジャッキーは、すごく珍しく豪華な乗り物を見るように(実際そのように見えていたのだろう)カナルボートを見ていた。例の撮影で、運河に浮かぶボートは何度か見ていたが、こんな間近で見るのは初めてなのだった。(いつのまにかイギリスの郊外みたいな風景になってるけど気にしない。)
「こんにちは!」とジャッキーが言った。
「こんにちは」と、ボートの男が言った。「お嬢さん、ここがエーゲ海で、この船はギリシャの戦艦だと思ってるのかな?」
男は、ジャッキーの後ろに立っているハリーにも、ちょっと手を上げて挨拶した。
「おいおい、お嬢さんじゃなくて、奥様じゃないか」と、船内から出てきた男が言った。「あんたら、新婚だね。奥さんの指輪が新しい」
「あ・・・」
ジャッキーは、思わず自分の結婚指輪を見て、にっこりした。ハリーは指輪をしていない。カンシュコフたちのほとんどは、勤務中は指輪をしていない。
「新婚さんか。同じ服着て、仲良しだと思った」と、舳先の男が言った。
ハリーとジャッキーは、もちろん制服のまま来ていた。が、仕事中には見えず、何かのコスチュームだと思われたようだ。
ジャッキーは、ハリーのほうを見てにこっとすると、ボートの男たちに言った。
「半分合ってる!」
彼らの言ったことの何の半分なのか、わからなかったはずだが、男たちはそんなことは気にしなかった。
「半分かい。あとの半分はどうしたんだ?」
すると、ジャッキーは、「お留守番」と言ってケラケラ笑った。
「お留守番か。面白い奥さんだなあ」と、男たちも笑った。
「あんたら、アイスクリーム食べるかい?」と、操縦してきた男が言った。
ジャッキーは、ハリーのほうを見た。彼がちょっと微笑んで頷くと、
「いただきます!」と言った。
男は船室に下りて行き、まもなくコーンにのせたアイスクリームを2つ持ってきた。ハリーはチョコチップ入りバニラ、ジャッキーはラズベリー・チーズクリームをもらった。
「ありがとう!おじさん、アイスクリーム屋さんなの?」
男は、相棒と顔を見合わせて肩をすくめた。
「女房がね。船は嫌いだとか言って、クルージングには付き合ってくれないんだが、アイスクリームを樽一杯ぐらい持たせてくれてね」
「ビールももちろん樽一杯あるんだけどね。旦那さんは、そっちのほうがよかったかい?」
「いや、車で来てるし。これ、美味いよ。ありがとう」とハリーは言った。
「先輩、こっちもちょっと味見する?」とジャッキーが言った。
「ああ・・・こっちも食べてみたいんだろう」
「ちょっとだけ交換♪」
そんな二人の様子を、ボートの男たちは満足そうに見ていた。彼らは、まもなくまた岸を離れて去って行った。
「ごちそうさまでした。さよならー!」と、ジャッキーが手を振った。

つづく。


Last updated 2012.04.20 23:56:38

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