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凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

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2016.04.18
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カテゴリ:美術
朝倉文夫
朝倉文夫の言葉です。
彫刻家の私が、エッシャーのだまし絵のワークショップをする理由が、ここにあります。



しからば、彫刻の本体とはなんであるか。
それは形である。
物象の輪郭ではない。
点でもなければ、線でもない。
まして平面でもあり得ない。
立体である。
その立体が彫刻の本体をなすものなのである。

では、立体とは何であるか。
我々の地上にある森羅万象、ありとあらゆるものは、総て、立体である。
人自身が立体である。
母体を離れて、まず、あどけない唇によって求められる乳房からして、素晴らしい美をもっている立体である。
人を生を享けて、最初に直面するものは、すでに立体である。
眼を開いて四辺を見廻せば、瞳に映るものは立体の厚い層と堆積である。
そこに持ち出されている、一枚の産着(うぶぎ)ですら、一片の紙ですら、薄いながらも、凹凸の面と厚みを持つ立体である。

かように我々の周囲にあるすべてのもの、我々の見、触れ、接するすべての環境は、立体によって成り立っている以上、我々は立体に対する美の観念を不断に、視覚により、触角によって、智的にも、情的にも成育されなければならない筈である。

だからと言って、立体をむやみやたらに表現しても、それは彫刻であるとはいえない。
そこには『美』がなければならぬ。
その立体が放射する一つの美意識がなければならぬ。

すなわち、前述の我々が感覚によってうけとった立体観が、根底となって、いわゆる芸術をなすものであるから、習慣的にいろいろの誤感さえなければ、当然本能的に立体派成育して自ら美の領域にも浸透していく驚くべき発達をとげなければならないのである。

然るに、実際において、これらの視覚作用はほとんど無意識の中に、線や平面という仮説によって、すべてのものを推理し、あるいは誤認し、理論的にも、実際的にも、哲学的にも解釈する机上知識に誘導されて立体に対する観察の眼は少なからず圧迫され、歪曲されて、遂にその立体を平面の上に描出する、絵画的見分や、その表現手段に馴れて、立体に対する視覚の発育を阻害され、眼の構造までが、変調をきたしたかに思われることになった。

これは実に悲しむべき錯誤であり、顛傾でなければならない。

実に、こうして成長した一般人の眼というものは、到底自然の立体を立体のままに見ることの出来ないものとなって、立体観ないし観照観念までが、そのまま残されているような状態に陥ってしまっている。

その誤った見方は何に原因するかといえば、少しむづかしい理論になるが、物象を観察するのに、まずその立体から輪郭線を引き出して来る
その輪郭線にたよって、その立体の形を決めようとする
でなければ、その他の種々な線だけを立体から抽出して、それによって、その形を知り得たとしている
あるいは、すべての形象を輪郭線の範囲内に押し込めて、いや応なしに立体を殊更、平面に引きのばして見ている

極めて簡単な立体形をもって山岳などですら、その峰や谷にある輪郭線によって区切られた線の連続そのものの印象の外には何物をも持っていないのである。

その山の大きな塊が、大地を覆って、大空間の中に盛り上がって、永劫不変の壮大な立体を素直にそのまま見ているのではない。

例え、どれ程完全に、よき構造をもった眼であっても、常に習慣的に馴らされて来た頭脳の働きは、一朝一夕にその悪弊からぬけ切るものではない。

この講述の当初にあたって、自然のままの使命をうけた素直な眼になおして、お聞きくださらなければならない。

それでないと、立体というものが解らなくなり、丁度、写真のレンズの作用と同じく、立体に遠近法をつけて、遠くの方を小さく見てしまう見方を、物の見方の本当とさえきめつけてしまわれることになり、そのまま人間の眼というものが押し進んで行ったら、それは退歩したものと申す外はない。
結局、望遠鏡か、顕微鏡を用いて、それぞれの実験に供する外、自然の真と美を認識することは到底不可能となる外、仕方がないのである。
こういう眼こそ不幸な眼と申さねばならぬ。

人類の持つ眼は、このような道具や機械のたすけによって、初めて、本来の使命を果たすものではなくして、天の与えたこの眼は、実に不思議で、霊妙な作用をなし、微妙な動作によって常に頭脳を支配する天才であるとしてよい。

この先入主をすてた善き眼によって、この後述を理解されるならば、講者は望外の幸いとするところである。
「彫塑に就いて」より
朝倉文夫

朝倉文夫記念館

朝倉文夫記念館



まさに、
私が、エッシャーの世界を立体化する理由がここにあります。

だまし絵に、だまされない為に。
正しい立体感覚を持った眼を身につけ、ものを観る眼を養う。

だまされるトリックの一つに、
1)ある一つの視点から見た投影面から、立体空間の全てを理解したという錯覚

2)点と線のつながりだけで、直角を類推して、平面を想像して理解したという錯覚。

3)遠くは小さく、近くは大きいとう情報だけで奥行きを理解したという錯覚。

4)眼を信じ、見えているものは正しいと判断する錯覚。

これらは、学習することによって、頭脳で作り上げた錯覚だという認識で、それを全てリセットして、立体と空間と奥行きを、目を閉じて、心の触角で判断することです。

眼を閉じて、心の大きな手を広げて、その対象物を包んで。手のひらで追ってください。
すると、立体が見えてきます。

これを伝えたい為に、彫刻家が、このエッシャーのワークショップを引き受けました。








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Last updated  2016.04.25 14:24:41
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