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カテゴリ:矢延平六
矢延平六資料(浅野小学校の小冊子) ため池を造って水不足に苦しむ農民を救った人 矢延平六 毎年、9月第2日曜日(おおよそ旧暦8月3日)には、高松市香川町浅野地区の人々が中心になっで、風変わりなお祭りとして名高い「ひょうげ奉り」を行っています。 「ひょうげ祭り」という名は、「ひょうげる祭り」という意味で、「ひょうげる」とは「滑稽なことを言ったりしたりしておどける」という意味です。高塚山(たこづかやま)の頂にある新地(しんいけ)神社で神事を行った後、浅野地区坂下から新地まで御輿の渡御(とぎょ)をしますが、その様子が変わっています。 使われる道具や衣装は、農作物や家庭用品、飼科の紙袋などで作ります。それらは香川県有形民俗文化財に指定されています。顔にはおしろいをぬり、墨でひげなどの化粧をほどこし、2km余りを2時間ほどかけてひょうげて練り歩きます。この行列は高松市の無形民俗文化財に指定されています。最後には、神官が祝飼をあげ、池に矢を放つと、若者たちが担いだ御輿とともに新地に飛び込みます。 どうしてこのような風変わりなお祭りが始まったのでしようか。 今から400年近く前の江戸時代のことです讃岐の国(今の香川県)でほ毎年のように日照りが続き、農民は水不足に苦しめられていました。 それを救うために、人々の先頭に立ってたくさんのため池を造ろうとした人々が現れました。その主な入物が西嶋八兵衛と矢延平六でした。 矢延平六は、水戸黄門で有名な徳川光圀の兄である松平頼重が1642年(寛永19年)、讃岐高松藩12万石の初代藩主になったとき、33歳で常陸下館(現在の茨城県)から頼重について高松にきたと伝えられています。経歴については詳しい記録がなく土木技術に優れた下級武士であったと考えられています。 まず、1644年、平六は松平頼重に命じられて、上水道を江戸(東京都)の神田上水に続いて、日本で二番目に早く高松城下に造りました。 また、松平頼重が治めた時代には406のため池が造られましたが、そのうちの百あまりは平六が尊いたときれ、残りの池も多くは平六がかかわったとされています。特に、1649年には丸亀に仁池(にいけ)を造りました。感謝した農民たちは他のほとりに平六を飛渡(ひわたし)神社の神として祭りました。ところが、平六は必要以上に大きな池を造り、藩のお金を無駄遣いしたと責められて、仕事を辞めきせられてしまいました。 しかし、その後も讃岐では日照りが続いて、平六はもっと大きな池を造ることを再び命ぜられました。それが高松市香川町川内原(かわないはら)にある新地です。 高松市香川町浅野地区辺りの土地は高台にあり、そのうえ高低差が大きく、米作りに欠かせない水が不足して毎年のように苦労していました。矢延平六は、これまでたくさんの池を造ってきた経験を生かし、浅野地区よりもさらに高い場所に池を造ることにしました。 普通は堀を築けば他に水がたまりますが、そこは他の奥に山が少なく、水が流れてこないので容易に水かたまりません。そこで、4Km離れた番東川の鮎滝(高松市塩江町安原下と高松市香川町川東上の境界付近)から水を引いてためる計画にしました。 ところで、高低差の大きいこの地のいったいどこに水路を引けばよいでしょうか。 平六は、月明かりのない暗い夜、農民たちにたいまつやちょうちんをもたせて水路を作る予定にしている場所に立たせ、その灯りをそく遠くから眺めて土地の高低を正確に測り、水がうまく流れるかどうかを確かめました。平六はこのような工夫をしながら確かな図面を作りました。そして村人たちはそれに従って、山があればトンネルを抜き、谷があれば樋橋を作りました。こうした苦労が実って新地に水がたまるようになったと伝えられています。 新池はとても大きく約120万トンもの水がたまります。小学校のプールでその水をすくうと、3000回すくってもまだ空にならないほどの量です。 新地が完成すると村人たちは大変喜びました。新地の水は川東地区の一部浅野地区、仏生山町、三谷地区の一部に農業用の水として役立つようになしました。 ところが、言い伝えによると、平六の功績をねたんだ人が大きな池を造ったのは高松城を水攻めにするためだと領主に訴えたため、平六は阿波の国(徳島県)に鞍も付けられていない馬に乗せられて追放されてしまいました。 しかし、新地が大きくても高松城を水に沈めてしまうことはできそうにありません。しかし、高松藩松平家の菩提所であり、いざというときの隠し砦の役割を果たす仏生山法然寺を水に沈めてしまうのではとの話が出たので、高松藩の役人は水攻めの話を信用したのでしょう。 平六を慕う農民たちは阿波の国まで平六を探しに行きましたが結局は見つかりませんでした。そこで、農民たちは平六の功頼を讃えるために、新地を見下ろす高塚山の頂上に新地神社(池の宮神社の一部)として、平六を神様とあがめた小さい祠を作りました。 平六は阿波の国美馬郡でも坊僧池を造り、70歳のときに富熊村(丸亀市飯山町)に戻りました。74歳のときに病気になり、2年後の1685年(貞享2年)7月1月に76歳で亡くなりました。 その後、浅野地区の人々は、毎年矢延平六のいなくなった日に、豊作を願ってお祭りをするようになりました。こうして風変わりなお祭りとして名高い「ひょうげ祭り」が始まり、今も続いています。矢延平六は多くの人々に感謝され続けているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.06.13 16:23:48
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