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凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

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2016.06.30
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カテゴリ:矢延平六
南久栄sn.jpg
人形と共に
南久栄著
ひょうげ人形づくり
ひょうげまつり祭神矢延平六様を訪ねて


私の母、南久栄が、自費出版で出した「人形と共に」の中で矢延平六を調べた事の頃を回想しています。


人形と共に表紙
「人形と共に」表紙
南久栄著
題字:南太景(父)


南久栄


ひょうげ人形づくり

昭和五十四年春、香川町役場勤務の同級生の福井勝様から久しぶりにお電話がありましたので、きっと同級会だと思ってお話を承りました折、本職の人形づくりについてでした。

同級生は企画課のどうも課長らしい口調になって話し出し、そのお話によりますと、ひょうげまつりの行列を人形で作って、いつでも見てもらえる様にしたいということでした。

これは大変なことです。ひょうげまつりの行列です。お御輿から神馬まで作って七十体位はあります。全部顔が違い、衣裳が違い小道具が違いポーズが違う。今まで作った事のない人形行列で、大変な難問題ですが、ふるさとの人形であること、同級生が私を推薦して下さった事など、とにかくやってみようとお引き受けいたしました。

その後の再び福井課長様より電話があり、町長に面接してからということになりました。

八月八日香川町役場より福井課長様がわぎわぎ高松まで迎えにおいでくださいました。
ちょうど一週間前、香川県よリマレーシアからの海外研修生モリー・チャコさんという三十五歳の女性を受け入れたばかりの所でしたので一緒に参り、香川町長藤本正直様にお目にかかってごあいさついたしました。

香川町の教育委員会が主管になり、婦人会の協力を得ての共同製作ということになりました。
八月末日いよいよひょうげまつり人形制作についての初会合が役場にて開催されました。
香川町は、大野、川東、浅野の三村が合併してできた町でありますから、大野地区から四名、川東地区から六名、浅野地区から八名選出され計十八名が出席しました。
顔ぶれは婦人会長、副会長等の役員から構成され、年齢は一番私が若輩でした。

学校の教職員を退職された、瑞田倭文子先生が社会教育指導員ということで、人形づくりのパイプ役になっていただき初会合もなごやかに進行しました。
モリー・チャコさんも日本語であいさつをしましたので、はなやかな国際的人形教室になり、モリー・チャコさんの研修にもなりますので一石二鳥でした。

私は、まず人形づくりについての心構えを話しました。
「針の耳ソが通らなくても、不器用でもいいです。そんなことは関係ない。それより先ず第一に、熱意のある人、第二番に感謝と喜びのある人、第三番目に奉仕精神があることと、この三つが揃えば人形づくりは出来ます」と言うと、誰一人として何も発言はなく黙っていました。
「そしてこの構成メンバー以外に休むからと交代したりはしないこと、同じメンバーで最後まで心の一貫した人形行列でなければいけない。
神事のお仕事といっていい人形づくりですから、机には白布を敷いて、皆揃いの白い前掛けを作って作業にかかりましょう」と申しました。
後で「まあ南先生きついこというなあ」との反響がありました。

まず、本番前のまつりの衣裳づくり場所へ代表の方が見学して、九月二十三日の本番には、全員が手分けしてひょうげまつりを実際にスケッチし、写真を撮りました。

行列の前三分の一を浅野地区、中三分の一を川東地区、後ろを大野地区と分担し、皆胸にリボン印をつけて、高塚山の神事から参加して、小道具からその他細かく調査しました。
長時間日光にさらされて、胸につるしたリボンの色が飛んでしまうほどで、こうして全員が自分の目でまつりを確かめました。

九月二十八日、第一回の人形づくりです。
先ず教育長二川一美様と歴史家の中原耕男様のお話を承りました。
話の中で四神の鉾に議論がありました。
中国では、四神は東西南北にそれぞれ青龍、白虎、朱雀、玄武となっているのに、浅野ではへビ、サル、ニワトリ、カメとなっていて元に近づけるかという話でした。
サルはトラではないかと。
結局は民俗資料の指定を受けているので「あるがままに」ということで浅野の伝承のままに落ち着きました。

また、ひょうげまつり行列人形は、農村環境改善センターのロビー陳列ケースの一方に並べる予定でしたが、人形の行列が多いので吉本保久経済課長様にお願いして東西両面に飾れるように瑞田先生がお願いしてくださいました。

それでも、本番の人数程作れないので、巫女さんの人数をうんと減らし、五十八体にしぼりました。
少し淋しいと思いましたが、やっと一歩前進しました。

だいたい人形の構成が整って、材料を注文しました。
私の学院の本部であります日本人形作家協会に相談し、男マスク、女マスク、童子用のマスクと手とタビ、巫女さんの正絹の衣裳は別注という様に、まつり分の人形材料を発注しました。

小道具は知恵の働かせどころで、担当別に本物を参考に試作しました。大野地区担当の神馬と御輿には、生の野菜らしく見せるのが大変でした。

人形づくりには男の方に二名参加していただき、針金切り、竹切り、台づくり、一つハマの下駄づくりと女手では難しい所を補ってもらいました。
ボディーは、五十八体分の布をミシンがけして、十八名と他に四名加わった二十二名が一斉に一日かけてボディーに木綿を詰めました。

それから大体一週間に一回集まって人形を進めてまいります。
顔とシュロの毛でチョンマゲをつくる所で苦労しました。

日本人形のマスクはきれいな目口を描いていて、そのままでは使えません。折角の顔をぬりつぶして一体、一体こっけいな顔にしていきました。

粘土を乗せて黒豆を入れて目玉にしたり、参加したお子さんに遊びがてら好きな様に顔に粘土をつけてもらいました。
その顔が奴によく似合いそのまま使ったのもあります。
近所の誰に似ているとか、ホホを高く鼻を高く、鼻ひげを派手に、目は丸く眼鏡の人ありいろいろな顔づくりに一進一退。

奴の足の露出する部分は洋人形の足の作り方の応用にしました。
地下タビは人形の白タビを紺色に染めました。
シュロのチョンマゲは、まつり本番の製作担当の溝渕文子先生の助言で解決。
十一月三日、香川町の文化祭があり、あらかた出来ている人形を順番に並べて中間発表をしました。
大勢町民が集まったのでアンケートをとりましたところ「けっこすぎる」ということで、また作り直しました。

ひょうげ、こっけいという人形ですから大変です。

高松市市民文化祭の、生活文化ショーに人形展があり、そこへ展示する事を目標に置いて、露払いと天狗の面の一つハマの高下駄と、錫丈の三体を製作し展示しました。
それは大変好評であり、香川町のひょうげ人形づくりの皆さんも見学にみえました。

十一月八日にNHKが取材をしたいと、製作している所へおいでて、いろいろ打ち合せをしてその時指名された人数が十一月二十八日に揃って、NHKのスタジオでひょうげまつり人形を作っている所を錨画にとりました。

マレーシアのモリー・チャコさんも人形づくりの皆さんとなじんでおられましたので一緒に出演しました。

十二月十二日にNHK高松で「備讃リポート、ひょうげ人形のお通りじや」と題して放映され、すごく反響がありました。

十二月二十五日、いよいよ陳列ケースに整列させました。
現場では、獅子舞のポーズ、神馬のポーズの調整。
またやっこは台から抜いてポーズを変えて打ち直しをし、巫女さんの身長を低くし。
はさみ箱、太鼓 鉾などいろいろ小道具を持たせ、並べて見ると、いろいろ手直しするところが現れてきました。

人形の位置が決まると、「先駆、露払い、陣鉦、奴、袋傘、四神の鉾、大軍構、はさみ柏、鉄砲、弓、長刀、鼻高面、剣、太刀、金幣、榊、白幣、楽人、巫女、御輿、神職の乗った神馬、別頭」の順に男性の方が台打ちをして固定してくれました。

このひょうげまつり行列の順番は、後先がその時によって入れ替わりますので、どれが正しいのかというのはわかりません。

五十八体の人形は呼吸が流れるように並びました。
香川町の人形づくりメンバーの一貫したまごころと熱意が込められています。
陳列ケースのバックの絵は、香川町の絵の先生小比賀勝美様にお願いして、本番のイメージを伝えるように描いて下さいました。
こうして、年中ひょうげまつりが見られる人形行列が完成しました。

マレーシアのモリーチャコさんの研修期間中にめぐり合ったのも何かのご縁として温めております。
国際交流、親善友好の人形づくりでもありました。

翌年三月、反省会には最初つくりました白の前かけに丸に他のマークを入れて寄書きをして記念に保管しております。

このひょうげまつり人形行列づくりをきっかけに、ふるさとの浅野にひょうげ人形同好会が新たに発足して、みんなの手作りの「ひょうげ人形」がひょうげまつり写真コンテストの賞品、東四国国体のおみやげにと、香川町のマスコットになっています。

各方面のご協力ご指導に感謝申し上げます。




ひょうげまつり祭神
矢延平六様を訪ねて


私は、ひょうげまつり人形行列づくりが完成し、報告に矢延平六様のお墓に参りたいと思っていました。

「讃岐香川郡誌」に矢延平六様は三谷町では矢野と称して、その墓は高松市三谷町犬馬場、春日神社東側にあると書かれていましたので、昭和五十六年十一月十二日、その場所を伺いに、実家の兄の紹介で当地の長老の佐古秀雄様のお宅を訪ねました。

私は佐古様に
「矢延さんのお墓が犬馬場地区にあると聞いてきたのですが」と申しました。

佐古様は、何を言っているのか分からず、
「確かに山の中に墓はあるけど、矢野さんと言いよるで…。まあ近いから案内します」と言われ、家を出ました。

北へ向いて歩く途中で長老を二人ほど誘い、四人で山へ登って行きました。

道すがら長老の一人が
「私がこどもの頃は、このあたりは畑でラッキョを植えていました。この坂には、こんな木は生えていませんでしたよ」と言いながら歩いていく。

少し登って右へ曲がったところで、林の中にお墓がありました。

「これです。この四基が矢野さんのお墓ですよ。」

意外に近い所にお墓はありました。
しかし風雪にさらされて、さわればバラバラと石の粉が落ちて字は読み取れません。

「犬馬場では矢野さんと言ったら昔は有名な豪族で、このあたりが矢野免という地名にもなっておるほどです。」

そして顔を見合わせて、口々に
「矢野さんと、みんな言うとるけど、矢延さんとは誰っちゃいわんぜのう。だけど新池が出来た時から今に、犬馬場へ恩があるからと言うて、新池のユル抜きをしたら一番水を犬馬場に送ってくれとるけんのお」と異口同音に語る。

「そうしたらこのあたりでは矢野と言うて、浅野では矢延と言うとるんとちがうんな。」
「ひょうげまつりの前夜祭は犬馬場の野口庵でしよるぜのお」
といろいろ方言にて言葉のやりとりがありました。

そう思い込んでいる地元の人は、私が尋ねて違うことを話すのでどうしたのかと思われました。
話は平行線です。
矢野さんの墓とわかりきっている地元の長老の方へ、矢延平六様の墓はと聞いても「知らん。それは違うぜえ」ということで私はお別れし引き上げてきました。

矢野免という地名は残っていますが、ここには子孫も記録にも残っていなく言い伝えもだんだん薄らいでいるとのことを考えると、もしかしたらひょっとして矢延様と、矢野様は同一人物かなあと思いました。
しかし何か釈然としません。

十一月三十日に、犬馬場を実家の兄の運転する単に乗って再び訪問いたしました。
夜分ですが三谷町犬馬場の、消防屯所の二階には、長老佐古秀雄様のお取り計らいにより矢野免場の水利関係の六人の方が集まってくださっていました。

ちょうどその時は、香川用水が出来、新地の水は権利だけ保管して、決裁金を払って縁が離れる十二月十五一を迎えている最中でした。
そこへこの調査に行ったわけですから、出席者はその話のことで誓ったと思い込んで緊張感がありました。

兄が司会になって
「妹がひょうげ人形を作ってから矢延さんを調べ、お墓が犬馬場にあると聞き、この間お邪魔した時に違うぜと言われ、もういっペん行くから一緒に来てくれと言うのでついて来ました」とあいさつをしました。

私はひょうげまつりの人形行列の写真を持って行きましたので皆さんに見てもらい、それからポッボツ話を切り出していきました。
さらに父の名前を言ったら「川西弥次郎のこどもさんなあ」ということで話題の席が急になごやかになり、私よりり二つ年上の兄は、昔の模様をよく覚えておりましたので、集まった人たちと話がよく合いました。

そして私が「十キロ上の浅野村の東赤坂へ犬馬場から水番においでていましたね」と切り出しますと、急に懐かしそうになり「途中で分岐点毎の水門を抜いて水を盗むんです」と、昔の事を話し出してくれました。

「こんな手段をつかうんです。水番が道路にムシロ敷いて枕蚊帳かぶって寝たふりして見張りしていると水番の私にその近くのおばさんが、兄さんお風呂におはいりまあせと親切かと思ったらその間に水門をぬいて水を盗むんです。」

 私は、こどものころ水番のことは知っていましたので、「犬馬場から水番に行かれる方は剣道とか柔道のできる腕に自信のある若衆が水番に選ばれたと聞いていました」と言うと
「そうや、腕ずくで、目の前で水門を抜いて水を盗むからそれを防ぐだけの腕力のある者でなければ役にたたない、そこで腕っぶしのある人を日当を払って出てもらったものですよ」と手振り面白く聞かせてくれました。

「また、こっち来て娘さんと話ししまあせというのは計略であって、親子が話を合わせて水を盗んでいるのだからどんなにその周辺の人が親切そうに誘ってくれても耳をかたむけては水番の役を果たせない。
また目に見えない石橋下へはイバラをいっぱいつめて、水があふれてこっちへ流れる様にして盗んだり、いろいろの手口に引っかかりました。何しろ水けんかのひどかったこと、大変なものですよ」
と新地の水にまつわる貴重な昔話を聞かしてもらいました。

「カナバシで麦こぎをしている時期に、矢野さんに恩がある言うて、新地から一番水おこしてくれたって、まだ田植えの準備もできていないので、いつもこの近くにある糠山地に水を溜めて置き、それからそろそろ田植にかかったものてした。」
と話題がほぐれて座は気楽になり、そのなかに民謡保存会の会長さんがおられて新地の池普請工事の民謡を一曲歌って下さいました。
後で聞く所によると民謡全国大会第一位になった方だそうです。
「矢延さんのお蔭でお米のマンマがたべられる」と歌い込まれた歌詞が印象的でした。

今回は、生の声でいろいろ水番のエピソードや民謡まで聞かせてもらって思いがけない勉強になりました。
しかし墓の件は依然謎です。

主人から拓をとれば墓に何を彫ってあるかわかると聞き十二月三十一日単身赴任で県外にいる主人が帰宅しましたので、お願いして拓をとってもらう事にしました。

地元の長老の方も二人立会って再び墓を訪れ、読めない石に紙を当てて拓をとりました。するとはっきりと「矢野氏」と出てきました。
その時うす暗い山の中で、一条の太陽の光がスッと墓石の矢野氏の字に当たりました。その時長老の方がとっさに「アツチャ矢野さんが笑うた」と喜びに手をたたきました。
矢野氏の墓に間違いありません。
またそれぞれの塞からは、戒名も現れました。

翌日は元旦で、地区の最長老の方が春日神社を初詣した帰り、矢野さんの墓を参ると何年釆、無縁仏と思っていた墓に、お花が備わっていたりミカンのお供えがあがっていたので驚き、弾んだ声で佐古さんに尋ねたそうです。
そこで、高松の南さんという人が矢延さんを調べているそうだといきさつを話しました。

この最長老の方は矢野さんの子孫がある事を紹介してくださり、私は探して訪ねていくと
そこに古文書がありました。
その記載と墓碑名とは一致しましたので、矢野氏の墓と確認しました。

その古文書には、夫延平六様と同時代の矢野氏は 「松平藩菩提寺法然寺のお金の元締め役で、その折り屋島寺の由緒書を書いた」と記されていました。
この矢野氏が新地築造の発起人の一人でした。
矢延様と名前が音では似ているのでいつしか同一人物になったのでしょう。

結局、香川郡誌の矢野氏は、矢延様と同一人物という記述は間違いで、地元の伝承通り別人だという辛がわかりました。

この発見で、もやもやしていた事実に、再び太陽の光が差し込んだような、何とも言えないすがすがしい気持ちになり、ますます興味を深めてまいりました。

矢延様を伝える唯一の史跡としては、満濃町に滝ノ鼻出水があると高松市図書館の宮田忠彦先生が教えてくださいました。
それは水が湧き出る場所で、その用水経路を矢延様が作り、その水は岡田地区の田を潤しています。
そこに矢延平六様の自別の刻文が残っているというのです。
人形助手の山田ミサヲさんの運転する車でお参りにいきますと岩肌にはっきりと名前が刻まれていました。
私は、やっと矢延様に会えた喜びに合掌し、お花を供えてひょうげ人形完成の報告をしました。

宮田先生は、矢延様は新地を作る前に、綾歌郡飯山町仁池(にいけ)を作ったと教えてくださり、そこに飛渡(ひわたし)神社があり矢延平六様を祭っていることもわかりました。

早速そこの土地改良区理事長様にお会いし、その神社を訪ねました。
田んぼの脇の老朽化した小さな神社でした。
ゆる抜きの時にそこでも矢延様に感謝する祭りをしていたのです。
その地区の飛渡さんが矢延平六様の子孫だという事も知りました。
この神社は近々、二キロ西の仁池のほとりに建て替える予定があると話してくださいました。

昭和五十七年の春頃、新しい発見がありました。
浅野の伝承では矢延平六様は、新地が余り大きいので、高松城を水攻めにする計画だと言われ阿波へ追放されたで終わっています。
「法勲寺村史」ではさらに、新地が完成し矢延様は阿波へ追放され、十年後に高松藩に復職したとなっています。
この十年間は空自になっていました。

ところが美馬郡誌を見ていた所偶然に「坊憎池は古くから讃岐の浪人ヤノブヘイロクという人が造った」と書いてあるのを発見しました。
このヤノブヘイロクは矢延平六様の事ではないか。

特ダネが見つかったと思いながら、半信半疑で浅野土地改良区理事長の三木義隆様にその事をお伝えしました。

すると二、三年前美馬郡の坊憎地代表の方がみえたと言って、住所を教えてくださいました。
「やっぱり」と私は一瞬胸がドキドキしました。

すぐ徳島県の坊憎地区の池代表の佐藤幾夫様に手紙を出しました。
その返事には、昭和五十三年初秋、NHKで香川郡香川町のひょうげまつりの模様が放映され、坊憎池を造った人はこの人だとわかり、部落有志に語り、早速香川
町浅野土地改良区を訪ねた次第ですと善かれてありました。

胸がワクワクしてきました。
矢延様のとりこになっている私は、早速実家の兄の車で徳島県美馬郡美馬町へ訪ねてみることにしました。
四国新聞の記者も同行して、坊僧地代表の佐藤幾夫様とお会いし取材をしました。
美馬町の伝承では、讃岐の浪人ヤノブヘイロクという人がこの美馬町に十年ほどいて、この他を作っていたのです。
香川県と徳島県がドッキングした私は万歳と叫びました。
なぜ今までこの二つの伝承がつながっていなかったのかが不思議なほどです。

本当に不思議なタイミングに出会い、矢延平六様のご霊示によるものと信じ、教えて下さってありがとうございますと目をつぶって祈りあげ合掌しました。

一方富熊の飛渡家を訪ねていくうちに、飛渡家の親戚の十河家に矢延平六様の孫の金平が書いた古文書が残っておりました。

さらに失延平六様の位牌は親戚の中尾宅にある事がわかり、訪ねて実際にこの手で触れ、写真に収めてまいりました。

こうして、矢延平六様が讃岐に来てからの足跡や子孫の事がはっきりしてきました。
ところが、矢延様は水戸から初代高松藩主松平頼重公と共に高松に釆たことが分かっていますが、(註:この部分筆者の誤り。松平頼重は、水戸ではなく下館藩主から改易されて高松藩主になった。矢延はその時に下館から来た)水戸に矢延という姓を問い合わせた所、そういう姓はないとの返事で、水戸以前の事は謎のままです。

また宮田先生から、昔北海道から飛渡という大学生が自分の先祖を調べにきたことがあったという話を伺っていました。
宮田先生が菖熊の十河家に古文書がある事をその大学生に教えましたが、十河さんが農繁期の忙しい時でしたので大学生に知らないと答えそのまままた北海道に帰ったという話でした。
私が北海道庁へ飛渡という姓を問い合わせた所、やがて帯広の職員にいるとの返事を頂き、そこから飛渡登善雄様を紹介してくださいました。

その方は香川県にみえられた大学生の親類で、やっぱりそういう大学生がいたのを確認しました。
偶然に全国民生委員大会で北海道に行く機会にめぐりあいましたので、足も軽く参加しました。
数年前の大学生が調査していた結果を報告する形で飛渡登善雄様にお会いでき、位牌の写真もお渡しできました。

昭和五十七年六月十六日、飯山町富熊にありました飛渡神社が仁他のほとりに建て替えられ、遷宮落成式が行われ特別にご案内があり、そこで玉串奉典をさせていただく光栄をいただきました。

先日お会いした、北海道からも祝電がきました。

その足でそれらの結果を交えて、香川町長藤本正直様に矢延平六様と追跡調査の結果を報告させて頂く事ができました。

四国新聞にも調査記事が掲載され、にわかに矢延平六様が脚光を浴びるようになりました。

こうしてその年のひょうげまつりは、夫延平六様にゆかりのある美馬町の坊僧池、三谷の矢野免、富熊の飛渡神社関係の方にご案内をさせていただき、それらの方々が一同に会して行列を見学されました。

ところが翌年の昭和五十八年二月、高塚山山偵にある矢延平六様をまつった新池神社と龍神様の二つのほこらが何者かによって壊され、この事件を契機にして高塚山頂のほこらの建てかえの話が持ち上がりました。

また一方、大川郡の白鳥町の宮奥弛も矢延様が修築したという事を知り、昭和五十八年五月、早速現地へ取材にまいりました。
そこの水利組合前理事長の案内で見学し、矢延様に「ご覧くださいお作りになった池です」とお位牌の写真を他にかぎしました。

それから、宮奥地之碑を作るという話が持ち上がりました。
翌年昭和五十九年二月二十六日に石碑が除幕され、矢延様のご緑で私の名前も刻んでくださいました。

昭和五十九年正月早々、私の朝夢に玄関へ二人の侍がみえられました。
「四月二十日午前十時」とだけ私に伝えて出ていかれ、後を追うて聞こうと思ったら目がさめました。

さて何だろう何にお告げかなあと余韻が残りました。
丁度、みなみ人形学院二十周年記念誌の「人形の里」の出版が進行して、矢延様調査の報告も含めていましたので、これは出版記念をかねて、矢延調査の報告式をせよと感じました。

その日を六月九日の土曜と決め、「六月やこし、麦刈で誰っちゃ来やせんで」と実家の兄や香川町の知人から言われましたが、四月二十日午前十時に会場の申し込みをしました。

その申し込みをした日の夜の十時突然に、浅野土地改良区理事長三木義隆様が私の家においでくださいました。
その用件は、高塚山の修復をしている新しいほこらの「紋」を何にしょうかという相談でした。
矢延様の子孫が北海道に移住されていて、その紋が五つ冠に三つ巴の家紋でしたので、その事を申し上げたところそれに決定しました。
この事を、あの時の侍が言ってきたのではないかと信じております。

こうして八月十九日、高塚山山頂の新地神社が修復きれ、併せて参道も整備され、その報告祭が執行されました。

玉串奉典にご案内を頂き、紅一点に参列させていただく光栄に浴しました。
わずか二年の間に、飛渡神社遷宮、宮奥地の碑建立、そしてこの新地神社修復と三回も玉串奉典の栄誉を頂きましたのも、矢延様のお蔭と感謝しています。

昭和五十九年六月九日、矢延平六追跡調査報告式、並びに「人形の里」出版記念を香川町松の井にて開催しました。

しかし前日になっても、当日の手伝いの手配も参加者の把握もできておりませんでした。ところが、その日雨が降り、その上電力会社の広報車からスピーカーで、明日香川町のこのあたりは工事のため広範囲に停電しますと流していたと、実家の姪が知らせてくれました。

香川町役場の方は農家が多く、土曜の午後は麦刈りで出席は無理といわれていましたが、雨では麦刈りも出来ないし、停電では仕事が出来ないと案内してあった方皆出席してくださいました。

しかし会場の松の井には不思議と電気が来ていました。

同級生の香川町役場企画課の福井課長様は、香川町の町長を始め主管課長以上全員出席をした会は、今までに例がないと言って下さったぐらい盛大な報告式でした。

またそこで香川町の三木義隆様、三谷町の佐古秀雄様、美馬町坊僧他の佐藤幾夫様、満膿町の滝の鼻出水、飯山町の仁池、白鳥町宮奥地の関係者が一同に介して、それぞれの地区の伝承を語ってくださると、矢延平六様の一代が浮かび上がり、参加された方は皆あらためて矢延様の遺徳を認識いたしました。

この後、新地にも築造の碑が作られ、それまでひょうげまつりの前夜祭には、矢延様を供養していたのに位牌がなかったので、分霊していただき大きな位牌を新調いたしました。

翌年昭和六十年は、偶然にも矢延平六様が没してから丁度三百年の年にあたっていました。

そこで、各水利組合、土地改良区から「矢延平六翁を偲ぶ会」ができ、そこが主催となって、高松藩主松平家菩提寺の仏生山法然寺で「矢延平六翁没後三百年追善報謝大法要」をとりおこないました。

西日本放送の佐々木光子アナウンサーの司会で、後援に四国新聞社、西日本放送、そして、ひょうげ豆本舗が協賛してくださり、協力団体として、次の各位が参加してくださいました。

大川郡白鳥町宮奥地水利組合
香川県綾歌郡飯山町仁池土地改良区
香川県香川郡香川町浅野土地改良区
香川県高松市三谷町糠山地土地改良区
徳島県美馬郡美馬町坊憎池土地改良区
香川県綾歌郡綾歌町滝の鼻出水水利組合
香川県香川郡香川町役場
香川県香川郡香川町教育委員会
杏川県香川郡香川町浅野小学校
香川県讃岐民話保存会
そしてこの法要は次の十一力寺がご参列してくださる盛大なものてした。
 法然寺 高松市 みなみ人形学院
 実相寺 香川町 新池
 栄国寺 白鳥町 宮奥地
 西念寺 満濃町 滝の鼻掛井出
 野口庵 三谷町 糠山池
 昭六堂 美馬町 坊憎池
 栄田寺 北海道 飛渡登喜雄
 尊称院 高松市 ひょうげ豆本舗
 松岩寺 綾歌町 中尾信一
 勝福寺 綾歌町 飛渡義孝
 法然寺 飯山町 仁池


矢延平六法要


昭和59年6月9日<人形の里出版記念 矢延平六様 追跡調査報告式> 高松市 仏生山法然寺



こうしてひょうげまつり人形行列を作らせていただいた事から始まって、三百年間眠り続けておられた矢延平六様の御霊が、お目覚めになったかのように追跡調査をさせて頂き、それらを終えて三百年の大法要へと、一貫してお手伝いさせていただき身に余る光栄に存じております。

それ以来、毎年お盆には矢延平六様の灯籠をかかさずお供えするようになりました。

大法要が終ってから、思いがけなく岡山県内に、矢延姓が二十軒あることがわかりました。夫延平六様にゆかりがあるらしいので、またじっくりと調査をしてみるつもりにしています。

それからもう一つ、大延平六様のお屋敷跡として伝承が残っている場所があると、木太小学校一〇〇年誌に執筆された方よりお電話を承り、現地へまいりました。
そこには高塚山の古い祠と同じような形の祠がありました。
これも調査してみたいと思っております。

人形の里を出版してから十年の歳月が流れ、三十周年の節目を迎え「人形と共に」の出版にかかっていた時です。偶然のチャンスと申しましょうか、玉藻公園で高松市市民文化祭の記念イベントが行われ、披雲間の玄関に私の人形を展示してほしいとの依頼を頂きました。
私はとっさにそこには幻想矢延平六様の人形を飾らしていただけると、感じました。
三百年前、水戸から松平頼重公に従って高松へ来られた矢延様もきっとその時お通りしておられた玄関と思ったからです。(註:矢延は、下館から来た)

追跡調溌の報告のしめくくりに、私は等身大の幻想矢延平六様を作らせて頂きました。

その人形を高松城の披雲閣の玄関に飾らせて頂くことは、矢延様が「お城にお帰る」という意味も込められています。

没後三一〇年の節目に、お城の披雲間の玄関に威儀を正してお座りになられる等身大の幻想矢延平六様、江戸の袷(実物は仕舞袴)着用しての矢延平六様のお姿。
「人形と共に」三十年のまとめにぴったりのイベントになりました。

人形と共に三十年。
ふるさとを出て人形づくりの技術を学んで、ふるさとの人形を作らせて頂いている。
目に見えないものにふれて身の引きしまるような思いです。

ふるさと、ひょうげまつり人形づくりは、これからが本番だと決意を新たにしています。



人形の里奥付




「母の肖像」南正邦作
第75回二科展入選(1990)







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Last updated  2022.10.24 21:55:18
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