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カテゴリ:矢延平六
旧玉藻城の水辺を探す!! 第5回香川県小中学校総合文化祭 社会科研究発表会中学生の部 最優秀賞受賞 平成20年11月 1、旧玉藻城の水辺を探す!!(海・堀・川はどこ?) 高松市城内中学校 南奈緒美 ただ今から「旧玉藻城の水辺を探す。海、堀、川はどこ?」の発表をします。 2、昔の水辺は今。 私の通う城内中学校は、高松城の城あとの玉藻公園の東にあります。 また私は、玉藻公園の東に住んでいます。 3、玉藻城について 玉藻城は、高松城の別名です。 玉藻城は、安土桃山時代に豊臣秀吉の家臣、生駒(いこま)親正(ちかまさ)によって築かれました。 堀に海水を利用しためずらしい城です。 4、調べようと思った理由 調べようと思った理由は、お父さんからもらった下敷きに玉藻城の絵図があり、それに興味を持ちました。今とは違い、海が石垣まで来ています。 5、調べる方法 調べる方法です。 まず、昔の地図を探します。 次に、昔の地図を現在の地図と重ねてみます。 そして実際に、そこへ行き、昔の様子が今はどうなっているか調べてみることにしました 6、(1)昔の地図を探す 1、昔の地図を探す。 はじめに、香川県ミュージアム、高松市図書館や高松市歴史資料館に行って昔の地図を探してきました。 7、江戸初期の絵図 こちらが江戸初期の絵図です。 まず讃岐高松城屋敷割図、生駒時代の高松城の様子が描かれています。 右が高松城下図屏風です。高松藩主が松平家に変わった時の高松城の様子が克明に描かれています。 8、江戸後期の地図 これが、江戸後期の地図です。 どちらも同じ頃に描かれました。 測量されて描かれています。 これは今の地図にそのまま重ねると、その正確さに驚かされます。 9、明治時代の地図 次に明治時代の地図です。 明治には全国で精密な測量図が作られました。 そして同じ頃「高松市街明細全図」には、さらに詳しく描かれています。 10、今の航空写真 そしてこれが現在の航空写真です。 11、(2)地図を重ねる 2、地図を重ねる。 これら、さまざまな時代の地図を重ねてみました。 12、現在の地図 現在の地図です。 これにそれぞれの地図を重ねて見ます。 13、江戸時代の地図1 江戸時代の地図1 を重ねてみました。 かなり正確に重なりました。なくなった昔の川や海岸線が現われてきます。 14、江戸時代の地図2 江戸時代の地図2を重ねます。お寺や神社もそのままの場所で重なります。 15、明治時代の地図1 明治時代の図では、塩田まで確認できます。 16、明治時代の地図2 こちらでは、今の市街に埋もれた海岸線がはっきり読み取れます。無くなった港が現われます。 17、地図を重ねると見えてくるもの そして、この地図の違いから四つの事を発見しました。 一つ目は、海岸線の形が違います。なくなった港があらわれました。 二つ目は、堀が沢山ありました。 三つ目は、杣場川という川がありました。 四つ目は、神社や寺はそのままの位置にあります。 18、 発見した四つの事 現在の地図と明治時代の地図から 発見した四つの事です。 1、海岸線の形が違います。 2、堀が沢山ありました。 3、杣場川がありました。 4、神社や寺はそのままです。 19、(3)そこへ行ってみました。 そこで実際に、昔の水辺を見つけることが出来るか、実際にそこへ行ってみました。 20、昔の水辺を探す9つの場所 昔の水辺が、今はどうなっているか、これらの九つの場所を調べてきました。 1、杣場川、 2、塩田 3、西浜から香東川 4、東浜 5、内町 6、西内町 7、玉藻城の中内堀 8、玉藻城の海岸線 9、私の家の周辺 21、(1)杣場川をたどる 最初に、杣場川をたどりました。 杣場川は、緑道になっていますが、今でも川の水は道の下に流れています。昔は、水路として船で荷物を運ぶのに使われていたそうです。 22、(1)杣場川をたどる 川沿いには、海の神様、金刀比羅宮がまつられています。 多賀神社には、船からの目印になる大きな灯ろうがあります。 23、(2)塩田のあと 二番目は、塩田のあとをさがしました。 杣場川から詰田川へ東西に海水を引いた水路のおもかげは、今も道の形に残っています。 24、(2)塩田のあと 塩田の神様、塩釜神社が見られます。 25、(3)西浜から香東川 三番目は、西浜から香東川です。 ここはむかしの地図にある、大きなお寺や神社がそのままの場所にたくさんありました。 昔、海だった西浜川口は今の町並みの中でも、ちゃんと分かりました。 26、(3)西浜から香東川 歴史的な建物がいっぱいです。 27、(3)西浜から香東川 港の神様、恵比寿神社が町並みの中にあります。 28、(4)東浜 四番目は東浜です。玉藻城外堀東側の形をそのままたどることが出来ます。 29、(4)東浜 二つの恵比須神社が港をはさんでいます。 30、(4)東浜 公民館や保育所は堀の上にあります。 31、(5)内町 五番目は内町です。片原町と兵庫町の商店街は玉藻城外堀に沿ってできていました。 32、(6)西内町 六番目は西内町です。 斜めに走る、変わった道の形に、外堀のなごりがあります。 日和山(ひよりやま)神社は金毘羅宮でもあり、昔、線路の北にありました。 そこは山になって藩の船の出入りの目印にしていたそうです。 明治の鉄道建設で、ここに移されたそうです。 33、(7)玉藻城の中、内堀 七番目は玉藻城の中内堀です。 これらは昔の半分しか残っていないことがわかりました。 なくなった堀は、ビルや公園になっています。今は道の形でそこだとわかります。 でもだんだん開発されて、もう分からなくなってきています。 34、(8)玉藻城の海岸線 八番目は、玉藻城の海岸線です。 北は石垣まで海でした。 城内中学校は東の堀の上に建っています。学校の南東には金毘羅大権現があります。 35、(9)私の家の周辺 最後に、私の家の周辺です。 海か陸かを調べました。 明治時代の地図では、海です。 36、(9)私の家の周辺 それぞれの地図によって、海岸線の形が違っています。 下敷きの絵図では、掘はありませんが、私の家は微妙に海の中でした。 37、まとめ まとめです。 38、旧玉藻城の水辺はたどれましたが… 以上、発見した事は、旧玉藻城の水辺は、今も道の形などでそのままたどる事ができました。 しかし、高松駅周辺は開発などで分からなくなってきています。 39、もう一度、おもかげを振り返りたい これから玉藻城の天守閣の復元に向けた調査が始まろうとしています。 その時には、もう一度、これら、足元に残るおもかげを振り返って欲しいと思います。 40、私たちにできること。 私たちの城内中学校は来年、統合されて廃校になります。 これら、ふるさとの歴史は、住んでいる私たちが伝えていかなければならない。 それが私たちにできることだと思いました。 今度は、新しい高松第一中学で、なくなった旧香東川の川すじをたどってみたいと思います。 41、終わり 以上で、発表を終わります。 ありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.07.29 00:06:42
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