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2006年10月19日
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 午前、午後とミーティング。

 夜は民青同盟の会議に、相談相手の日本共産党として参加。青年たちのエネルギーに接して、学ぶことがたくさんありました。

 今日の「しんぶん赤旗」で、元衆議院議員・正森成二さんの訃報に接しました。
 しばし言葉が出ませんでした…。
 
 正森成二さんは、72年、定数3の旧大阪1区から衆議院議員に初当選。以来、9期連続当選―私は、正森さんとは直接面識はありませんし、ロッキード疑惑の追及などで活躍し、「弁護士らしく事実をつみあげて迫る切れ味するどい論客」と評された国会での活躍を直接知っている世代でもありません。

 しかし、私にとって、正森成二さんは、日本共産党員の生き方について学ばせてもらった大先輩の一人でもありました。そういう方が亡くなったという現実に、何か心に穴が開いたような気持ちになりました。
 私が正森成二さんを尊敬するようになったのは、94年3月26日の「しんぶん赤旗」を見たときだったと記憶しています。当時、私は民青同盟石川県委員会の副委員長(職員)で、数ヵ月後、中央委員・県委員長となった時期。職業として民青同盟の活動を今後を続けるという点で、親との関係を含めて、やりがいを感じながらも悩んでいた時期でもあったように思います。3月23日から開かれていた日本共産党の第11回中央委員会(第19回党大会期)―衆議院選挙に小選挙区制が導入されたもとで、比例代表を軸に党の前進をはかるという、新しい方針を打ち出した会議です。このとき、大阪1区を離れ中国ブロックから立つ正森成二衆議院議員、東京4区から東北ブロックに移る松本善明衆議院議員の決意表明の報道をみて、感動で体がふるえ、目に涙したことを今でも覚えています。
 先日、当時の「しんぶん赤旗」の記事をコピーして、いつも持ち歩いていただけに、正森成二さんの訃報は、私にとって本当にショックでした。
 正森成二さんを偲び、当時の「しんぶん赤旗」から引用をさせてもらいたいと思います。

―とくに、正森議員の決意表明は会場全体に大きな感銘を与え、中国ブロックの山口・瀬原倫県委員長は、これにこたえて次のようにのべました。「正森さんの烈々(れつれつ)たる気迫の決意表明にたいへん大きな感銘をうけています。苦労を重ねて地盤を培った大阪を離れて中国へこられる。送り出す大阪の同志たちの心情は察するに余りあるものがあります。しかしこれができるのも日本共産党だからです。大阪の同志にこたえるためにも正森さんを必ず力をあわせて当選させる。この思いは中国の各県委員長みんな同じだと思います。全力をあげる決意です」

―「初心忘れるべからず」で全力 正森衆議院議員(中国ブロック比例代表)の決意
 私は、いまから26年前、1968年(昭和43年)9月に、大阪1区の候補者になりました。大阪1区は、大阪市南半分を区域にする旧大阪1区が分割されて1区、6区に再編されたものです。旧大阪の候補者・議員は志賀義雄でしたが、ソ連盲従で除名されました。志賀は、1967年選挙には大阪6区から出馬。くわえて大阪1区では、志賀の後任候補者のぬやまひろしが、こんどは中国盲従になり除名され、急きょ、党中央が岡本博之中央委員を派遣して、候補者としてたたかうという、左右両翼からの二重の打撃を受けました。したがって、無名の弁護士である私が候補者となったとき、大阪1区での党の権威は地におち、私が有力者のあいさつまわりを行なったときも、「お前は大丈夫か」「やりにくいなあ」というのが反応の中心でした。
 こういう状況のなか、大阪1区の幹部と党員は歯を食いしばって、「赤旗」拡大、大衆組織の拡大につとめ、大阪全区のなかで当初ただひとつ重点区に指定されていないという環境のなかで、1972年、初めて議席を奪還し、引き続き8期21年にわたって議席を確保してきました。私は大阪1区を去るにあたり、あらためて党中央の指導のもと、困難を克服して勝利を実現した大阪1区の幹部と党員、後援会のみなさんにたいし、心からの感謝と敬意を表明したいと思います。
 この20有余年を振り返り、私にはなんら誇るべきことはありませんが、ただひとつ、左右両翼の大国盲従主義、志賀、ぬやまを出した教訓から、国際的にどのようなことがあろうとも、党中央の自主独立の立場、科学的社会主義の原則を堅持する立場を貫き、この点では大阪1区に迷惑をかけなかったことを、喜びをもって、誇りをもってこの機会にご報告したいと思います。
 私が党中央の要請を受けて、ブロック代表候補を引き受ける決意をし、まず大阪1区の少数の党幹部に了承を求めたときも、だれひとりすすんで賛成する人はいませんでした。なかには、今からでも断れないか、ともに頑張ってきた正森さんと別れなければならないのは残念だと、男泣きに泣いてくれた地区委員長もいました。
 私はこう説得しました。私が選挙のたびにパンフなどに必ず書く座右の銘は、「初心忘れるべからず」と。共産党員として私は46年前、入党した初心は何か、それは日本国民をとたんの苦しみに陥れたあのような侵略戦争を二度と起こさせないこと、虐げられた人々を解放し、働くものこそ報いられる社会をつくるため、生涯をさささげることだと。衆院議員になることでも、名誉を求めることでもなかった。いま、議員になっているが、これはその初心を実現するため党から与えられたたたかうための部署にすぎない。同じブロック代表でも、近畿なら必ず当選できるとか、中国では困難で可能性が低いなどというのは目的と手段を逆に考えることではなかろうか、と。こうして結局反対の同志や家族も、私の決意を了としてくれました。
 私は中国ブロックの幹部、同志のみなさんに率直に訴えたいと思います。私はいま、もう10年若ければ、存分の活躍をして中国の同志に喜んでもらえるのにという思いを否定することはできません。しかし、中央はすでに決定し、私もすでに決意いたしました。この上はいままでの国会活動のすべての経験と成果を前向きに生かし、10年近く衆議院議員をもつことができなかった中国地方に、党の旗を高くかかげるために全力をあげて奮闘する以外にありません。
 中国ブロックがきわめて困難な選挙であることはまちがいありません。マスコミも指摘しているように、ここで当選に必要な得票率は7.1%です。2年前の参議院での党の得票は5.6%ですから、少なくとも1.5%引き上げるため奮闘する必要があります。しかしこれはけっして不可能ではありません。1986年選挙その他、中国地方が全体として7%を確保したことが何回かあります。党中央の方針のもとに団結し、衆議院に必ず、中国ブロックを代表する議席を獲得するため、不肖、私、正森成二とともに総力をあげて奮闘しようではありませんか。明治維新同様、中国から東に攻めのぼり、反国民的な細川幕府を打倒しようではありませんか。これをもって私の決意と訴えにさせていただきたいと思います。


 正森さんは、96年総選挙で見事当選。党全体としても比例代表で726万票(得票率13.08%)を獲得、15議席から26議席へと躍進をとげた選挙でもあります。小選挙区で京都3区と高知1区で議席を獲得した選挙でもあります。当時私は、民青同盟中央委員・県委員長の任についていました。

 先日、先輩から正森成二さんの93年作成のパンフレットをもらいました。「なにわが生んだ庶民の政治家」、正森さんの言葉のなかに、「私は人間として『誠実』に、政治家としては平和と働く庶民のくらしを守るため何ものも恐れず闘うという『初心忘れずべからず』を座右の銘として働いてきました」とあります。正森さんの言葉どおり、「初心忘れずべからず」とありました。

 死んでからも人々の心の中に生き続けるとう生き方があることを、正森さんから教わったような気がします。面識のない私でさえ、そういう気持ちになるのは、日本共産党員としての生き方を体現してきてこられたからだと思うのです。

 正森さんの言葉、手元にあるパンフレットは、私の宝物です。

 正森さんを偲んで。





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最終更新日  2006年10月28日 08時02分06秒
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