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天下の素浪人 困窮日記 [全63件]
秋葉原の事件には驚いた。 現実味が感じられないが、紛れもなく現実に、大量殺傷事件が起ったのである。 よく秋葉に行く知人に電話をした。自宅に居た。 「小人閑居して不善を為す」とは、論語の言葉だ。 だから、君子になれ、というのではない。人間、大多数は未熟者なのだから、「閑居」しなければよいのだ。家族とはそのためにあるのかもしれない。 自分とは違う他人と、実際に触れ合っていれば、気心も通じる。安定感も出てくる。また、他人と共に生きられなければ、この世で生きていくことは出来ない。どうしたって1人で生きていけるようには、この世は出来ていないのだ。 しかし、1人世帯が過半数を超したという報道があったのが暫く前のことだ。「閑居」する人々が一体どれほど居るのか。 閑居しても、たとえ希薄であっても、上っ面だけでない他者とのつながりを保つことが出来れば、それほど大それた「不善」をなすこともないのではないか。 人は人の中でしか成長することは出来ない。 さかきばら事件のとき、あの少年は、「透明な自分」といった。自分の存在が希薄化しているからこそ、他人の存在も、まぼろしのようにしか感じられないのかもしれない。 通り魔をするしか、リアルに出会うことが出来ないという悲惨さ。 現代を象徴する事件だと思った。 国家意識に目覚めるには、ミサイルが飛んでこなければダメだ、とぼやく人がいる。 感覚としては同じではないか。 余りにも、第二現実に依存し、白日夢の中に、埋没しすぎているのではないのか。 余りにも、ひ弱な自己、地道に苦労するということ、自分で現実を切り拓こうとする意思の力を、なぜ自ら磨こうとしないのか。 やったことの責任は、取らなければならない。しかし、向き合うことが出来るのだろうか。
久しぶりに記事を書きます。 安倍首相が昨日退陣表明しました。政権一年を待たずに辞めなければならない首相の無念はいかばかりかと思われます。 参議院選挙での大敗。 敵だらけの中で、正に満身創痍の中で、よくここまで耐え忍んできたと思います。 色々に言われていても、私は、安倍首相が前のめりに進もうとして、力尽きて倒れたものであり、その姿に思わず胸詰まるのを禁じえません。 政治はあくまで世俗のものであり、国民の生活即ち民生の安定は責務のひとつではありますが、全てではありません。 国家の独立と安定があってはじめて民生の安定を図ることも可能なのであります。 明治以来の「国権」「民権」の議論になってしまいますが、国家を蔑ろにした延長線上にあるのは独立の喪失であり、国民の奴隷化に他ならないことを忘れてはならないでしょう。 国の独立を売り渡して、一事の安寧を求める、といった政争が露骨に行われている現在、おそるべきは国民の独立精神の喪失であります。 明治の初め、福沢諭吉は「一身独立して一国独立する」と喝破しました。 国の独立は、国民の独立精神があってはじめて実現するのであります。今の国民は、依存心ばかりが増長し、自分の為には社会や他人が何かをしてくれて当たり前だと思っています。これを独立精神の喪失というのであります。国家は国民が安心して自らの生業にいそしめるために、秩序ある社会の枠組みを守るのが主務であります。 国の機構に巣食う寄生虫の如き存在。それが国民の年金を食い荒らしてきました。 ところが、その虫退治はなされず、むしろ寄生虫の代表が国会に通るような歪んだ現象がおきました。実におぞましいことであり、寄生虫の天下はまだまだ続くといえるでしょうか。 白蟻どもが嘲笑う。 この戦後日本を、何時になったら払拭することが出来るのでしょう。
7月29日投票の参議院選挙を控え、終盤戦の攻防は傍目にも激しいものがある。 一年足らずではあるが、安倍首相が進めてきた「改革」には目覚しいものがある。 特に「教育基本法」の改正、そして、新しい教育基本法の理念を実現するための教育3法の改正と、まさに「戦後レジーム」を克服する大仕事を成し遂げてきたのである。 また、価値観外交を打ち出し、中国など、人権蹂躙国家に対して厳しい牽制を行い、日本の主体性を打ち出しつつある。 逆風は激しいが、日本が真の独立を果たしていくことを望まない勢力が地球上に存在する以上、折込済みのことであり、逆風を撥ね退けてこそ、真価が発揮されるのである。 北朝鮮への制裁措置も、従来の歴代内閣が及び腰だったのとは対照的であり、じわじわと軍事独裁・反人権・非民主・テロ国家を追い詰めている。 福田だろうが谷垣だろうが、決してこのような目覚しい成果を上げることは出来なかっただろう。むしろ逆に、サディスティックに自国を痛めつける病的な方向に進んだことは間違いない。 日本は瀬戸際で救われた、と言ってもよい。しかし、まだそれはほんの鳥羽口に過ぎない。 本当の意味で「戦後レジーム」を脱却して、真正な独立を成し遂げ、国家100年の大計を打ち立てるには安倍長期安定政権を実現しなければならないのである。 具体的には3年後に向けた「憲法改正」に国民的議論を推し進めなければならない。 この参議院選挙は、その意味で極めて重要な意味を持っているといえる。 社会保険庁は、「戦後レジーム」の象徴であり、その実態は、国民を食い物にする怠惰な官僚主義の牙城であった。そこにメスを入れた安倍首相の本気度が分かるというものである。 戦後の膿を凡て表に晒し、清算していくことは、「美しい国」づくりの前提でなければならないだろう。 安倍首相に期待しつつ、憲法改正発議に関る参議院議員を選ぶ選挙としての参議院選挙に臨みたいところである。
昨日、数年ぶりにお会いした方と色々とお話しをしていた際、不意に言われたのが表題の言葉である。 日本女性らいし女性、つまりはやまとなでしこ、ということだが、ほとんどいなくなってしまったということを、ポツリと言われたのだ。 あいづちをうつわけにもいかず、あいまいにごまかしてしまつたが、さていかがなものだろうか。 日本人の女性はいる。しかし、日本女性はいない。 日本女性とは、日本の伝統の中から生まれた高度な文化的存在なのだ。 日本の古典の中には、女性をさす色々な言葉があるが、それらが総合され、洗練されて、日本女性という高度な文化的存在を生み出した。それが大和撫子というわけだ。 今の女性の生き方のスタイルは、欧米系の亜流であり、模倣である。 模倣は奇胎となり、異様な退廃ぶりに突き進んでいる。 民族とは、単なる人種や血のつながりだけで成り立っているものではない。 独自の歴史、文化、伝統があって初めて成り立つものである。継承があって発展があるのが民族の姿である。 明治の開化の時代に、従来の東洋文明を摂取して築き上げた独自の日本文明に、更に西洋文明を継ぎ足して、日本文明の発展を図った。 様々な問題をはらんでいたことは否めないが、明治の先人は、そのことを自覚し、日本が国としての独立を守る努力を、物理的な軍事力や経済力、法律、社会制度などに精力を傾注した。 しかし、精神の問題については、いささか自覚が薄かった。それで明治末年から大正期にかけて、日本文明を足蹴にし、空想的なコスモポリタニズムへの憧憬が一世風靡した。 ここに、日本人が日本人であることをやめようとする一つの空想的な運動の根が胚胎したのである。社会主義、自由主義などという舶来の政治思想が持て囃され、マルキシズムが蔓延ったのもこの時期である。 「戦前」というと、すぐに大戦末期の頃のイメージで考え勝ちだが、そうしたいわゆる戦前は、せいぜい満州事変以降、あるいは支那事変以降であって、それ以前、大正末期から昭和初期にかけての世相は、むしろ「戦後」であった。事実としても第一次世界大戦の戦後であり、欧米主導の世界秩序のダブルスタンダードの中で、我が国は、じわじわと真綿で首を絞められるような状況に陥っていった。しかし、一方で、日本を軽んじ貶める風潮も相当なものであった。「戦後」の芽は、全てこの時代に出揃っているといっても過言ではなかろう。 先般再刊された「日米不戦論」の中で、河村幹雄博士が述べられたように、日本は既にアメリカニズムに侵され、守るべきものを失いつつあったのである。 戦前が「軍国主義」一辺倒の時代であったというのは大いなる誤解であり、むしろアカデミズムの主流は、左翼的、リベラリズムであり、共産革命を志向する知識人が跳梁跋扈していたのである。 そうした革新運動が日本的な装いを持って軍部に浸透していったところに、昭和の動乱の根本原因があったとも言えるのである。 日本人が日本人としての自身と自覚を失うという傾向は、決して戦後に始まったことではない。 現代の課題は、明治開国以来の課題であるとの認識に立たない限り、敗戦・占領のみが我が国の歪みの根本原因であるという認識だけでは、到底対処できないものと思われるのである。 世界中から賞賛と敬仰の的であった日本女性が、イエローキャブと蔑まれるまでに堕落していったこと。 そして、男女はあいみたがいであるから、日本男児も払底した。 日本女性がいなくなれば、それを守る日本男児もまたいなくなるのは必定。 けだもののようなたんなる動物じみた男女が横行する、畜生道に堕落した現代日本である。
日本最初のますらをについては「山背大兄王」について途中まで書いてきた。 これはあくまで「ますらを」といふ言葉が使われた初出であつて、それ以前に「ますらを」がいなかつたわけではない。 ヤマトタケルなどは、日本の英雄の最も古層に属する人物であり、その足跡を辿ることは大変に意味のあることではあるのだが、ヤマトタケル伝説を巡つて登場する一人の女性について、どうしても忘れることが出来ない。 古事記に記された「弟橘媛命」という女性の歌は、たつた一首ではあるが、永遠の生命を保つ一首でもある。 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも 倭建命(ヤマトタケルのミコト)が御父景行天皇の勅命を受けて東国のまつろわぬ豪族らの平定のために派遣された。この征旅の途中、相模の国で地元の豪族の姦計に遭つて、草原で焼き討ちに遭ふのだが、その時、有名な天の村雲の剣(三種の神器の一つ)で草を薙ぎ払い、伊勢神宮に奉仕されていた叔母の倭姫命から授かつた袋に入つてゐた火打石を使い、逆に火を放ち、まつろわぬ豪族を退治したのだつた。 一首の意味は、明瞭で、焼き討ちの危急の際に、自分の安否を気遣つてくれたことへの無限の感謝の思いが詠み込まれている。 倭建命は、とかく敵を軽んじて怒りを買い危難に遭うという行動を繰り返す面があるが、走水の水道を通る時にそうだった。 海神を鎮める為の生贄として我が身を投げ出したのが、弟橘媛であられたのである。 荒れ狂う海の上に、菅畳八重に敷いて海に入る際に詠んだ辞世の歌でもあるのが、「さねさし」の歌なのである。 それは、倭建命の愛情に応える意味もあつた。ミコトに使命を遂げさせるために自分が身代わりになるという使命感もあつた。生命を賭しての愛であり使命感である。 日本女性の強靭な生き方の原型を示すもの、それが、弟橘媛命の姿なのではないか。 皇后陛下が、幼年期の読書体験の中で、弟橘媛命のエピソードを取り上げられておられるが、現代において、正に弟橘媛命の生き方を実践されてゐるのが、皇后陛下であられると拝察されるのである。 日本女性とはどういふ存在であるのか。たつた一首残された歌に偲んでみた。
全国一斉学力テストが43年ぶりに行われた。 マスコミは、「学校を序列化する」「生徒をテストだけで図るのか」などと喧しいが、学力テストで図られるのは、児童・生徒の学力というよりも、教師の教育力なのである。 日教組が一貫して反対してきたのは、その実態が客観的に知られると都合が悪いからに他ならない。 正面からの反対も去ることながら、共産党の保護者らとつるんで、氏名の記入を「個人情報」だといって提訴するという妨害活動も行ったが、概ね平穏に執り行われた。 客観的なデータを持たずに対策など立てることは出来ない。43年間、文部省は実態を知ることなく観念的な世界に逃げ込んでいたのである。 このような状況にあっても日本の教育水準がまがりなりとも維持されてきたのは、個々の熱意ある教師の隠れた力である。 しかし、これらの個々の教師がいわば前線で体を張って必死で戦っているにも拘らず、大本営たる文部省は手をこまねいてきたのではなかったか。前線で「戦死」し「戦傷」してきた多くの教師たちの犠牲を思うと憤りを感ぜざるを得ない。 新しい教育基本法が制定され、文部省は襟を正して教育に対する責任が明記された。 学力テストの実施も、国が教育に責任を取ろうとすることの現われである。決して対処療法的な学力低下への対策、というだけのものではない。 学校間競争を激化させるなどのしたり顔の批判もあるが、学校の序列化なら既に業者テストや有名塾でいくらでもやっている。それらのある面不正確な資料を基に疑心暗鬼で目標を定めなければならない状況から、国が責任を持って調査し、長所と欠点を明らかにすることにより、駄目な学校は駄目ということがはっきりし、よい学校はよい学校と明らかになれば、生徒が犠牲になることもなくなる。また、一念発起して見違えるような学校づくりが行われることも期待される。更には、的確な評価はやる気を引き出す上で極めて重要な要素である。 日教組的なあたかも児童生徒のことを思っている振りをしながら、苦しめている存在を何と言えばいいのか。 いずれにせよ、学力テストは実施され、国は教育に責任を取る施策を具体化させ始めた。国の為に、そして勿論、児童生徒たちの為に大幸であるといわねばならない。
テロは許せない、暴力反対、平和訴えているのになぜ、 こんなフレーズははっきりいって聞き飽きた。 我田引水するもう一つの平和都市の首長も、事件を利用するものだ。平和都市もいい、核廃絶を訴えるのもいい。しかし、首長の役割というのはそれだけではあるまい。 現役の市長が、統一地方選という、我が国の地方政治を決める選挙選の最中に、暴力団員の逆恨みによって発砲・殺害されたということ。「平和と民主主義への挑戦」というが、この卑劣な犯人にはそんな意識は露ほどもなかろう。ただ、自分の訴えが(言いがかりにも近いものであるにしても)市行政当局に無視されたことへの仕返し(逆恨みではあるが)をした、ということである。平和も民主主義も、この犯人には全く関係がない。ましてや核廃絶など欠片もないというのが本当のところだろう。 直接関係のないフレーズが新聞紙面に踊る、ネットに踊る、そして我田引水するものの口に踊る。 伊藤一長市長は、前の市長とは雲泥の差で、立派な長崎市長だったと思う。同じく撃たれたというだけで、一緒くたにされたのでは全くいただけない。事件の性質も、今報道されている事実関係を見るだけでも全く違う。それを偉そうにコメントなど寄せている。 志途上で命を落とすなど、考えてもいなかったろう、無念だったろうと思う。 我が国の地方政治に対して刃を向けたようなこの事件は、断じて許されるものではなく、単なる暴力団の発砲事件ではありえない。長崎市の将来の一つの可能性を断ち切ってしまったのだ。 人間の低い情念をどう処理するか。怨念や憎しみという負の感情エネルギーをどう中和していくのか。これは、バージニア州で起きた事件にも共通する人類的な課題であるだろう。 片や、イラクでは、宗教的・民族的理由で、大量無差別テロが頻発して多くの人々を殺傷している。 何れも、人の心に巣食うとらわれ、闇の問題といえるだろう。 |一覧| |