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大阪で水彩画一筋

大阪で水彩画一筋

A-wyeth雑感11その絵画

 絵画について

  父の絵画は職業柄鮮やかな色彩で人物は動きが多く、その場面を
 説明することに重点が置かれている。しかしアンドリューワイエスの
 絵画の特徴の一つに色彩面では白いものを好んで描くというところが
 目立つ。実際「私は白いものが好きである。」と言っている。
  水彩画では白い壁、布、地面等、すべて白を塗るわけではなく、紙の
 白さを利用するのが常である。ということは白以外の周囲の色彩が
 「白い物」を目立たせ強調する役目をする。

  アメリカに行ったことのない私には予想するしかないがペンシルバニア
 にしろメイン州にしろ丘はあっても周囲に背の高い山は存在しないようだ。
  北海道の網走平野をバスで旅行していた時に驚くほどアンドリューが描
 いたメイン州に似ていたのを思い出す。海岸に沿った特に冬には厳しい寒
 さが訪れる気候が似ているせいだと思う。

  この広い大地で目立つのはかえって「白い物」であろうか?
 アンドリューワイエスの水彩画では初期からかすれた感触と点描、薄い
 にじみで白い対象を表現する。時にするどい引っかいた感触で枝や草を
 表す。従来の水彩画のイメージは水で薄めた透明感の強い感じの画面を
 水彩画と呼んでいるがアンドリューワイエスは自身のこのかすれた感触、
 筆に水を多く含んでいないのでドライブラッシュと銘々している。

  水彩画で「濁る」、「塗り重ねる」は過ぎると危険な面がある。
 しかし晩年は相当このドライブラッシュを多用し新鮮でかつ重厚な
 水彩画の画面をつくっている。

  父の絵やアメリカンリアリズムの画家たちの絵では白は綺麗すぎる。
 白い壁や衣服はなめらかでつやがある。アンドリューワイエスの描く
 白い物はしみがありにじみがありかすれている。そして決して汚れた
 感触ではない。印象派の画家の白ではなくどちらかというとフェルメール
 やレンブラントの白である。

  荒野の中の石灰質の土地、白いペンキが塗られた壁、貝殻、かもめ
 白いものに対して興味が尽きない。しかし周囲の色には様々な色、原色
 、混色したもの、が躊躇なく使われる。

  特に囲い込みという原色をヤニ色、セピア、黒等で包む技法がよく
 使われる。青はヨーロッパの伝統的な絵画の中でも鮮烈な印象を与える
 ため特に「囲い込み」が多く使われる。アンドリューのどの絵画でも
 ブルーベリーの実をはじめ衣服、雑貨が鮮烈な青で描かれている。
  赤を囲い込む場合は果物や枯葉によくあらわれる。

  構図は初期より大胆である。まず陰影を描かないということはない。
 地平線、海岸線、入り江、川のカーブ等々で大きく画面を構成する。
  最初の筆は前衛書道のようにためらうことなく一気に描くのが大切
 である。その陰影も一瞬をとらえ定着させる。

  この陰影はレンブラントに従ったと述べている。日本人の絵画には
 本質的に室内を対象にするという習慣があまりない。西洋の建築物と
 根本的に違い窓から光を取り入れるという感覚が納屋とか蔵とか以外
 あまりないからであろう。

  影は色彩が豊かであるのもアンドリューの特徴で決して黒い色を
 塗っているのではなく暗くしているのである。また明るい部分を
 目立たせ強調する役目をになう。

  アンドリューの文章から
  My struggle is to preserve that abstract flash.
 (私が努力するのは抽象的なひらめきを保持することです。)
  
  抽象的なひらめきとは水彩画における対象からうける最初の新鮮さ
 のことだと思います。20分で描く水彩画は貴重な印象を瞬時に描き
 とめるアンドリューの重要な要素の一つですが、これは父のイラスト 
 との大きな違いだと思います。父の絵はととのっています。アンドリュー
 の絵にはオフバランスを呼ぶ奇抜な構図や野生的な描法があります。

  アンドリューが東洋の水墨画を研究したかどうか知りませんが、
 筆遣いにかすれやぼかし、引っかきといったアクションが多いのが
 特徴です。これはテンペラ画にもしっかり保持されていたと思います。

 人物の動きはアンドリューワイエスにとって微妙なものがある。
 父のイラストはもちろん劇的な場面の大きな動きが特徴であるが
 アンドリューはモデルにわずかの動きを求めるのが普通である。
  そして後姿が数多く現れる。彼の説は人物のわずかの動きのほうが
 あるいは後ろ姿のほうが意味の深い、多くを語ると言っている。

  レンブラントとフランツハルスという二人の画家のモデルの違いを
 述べている。ハルスのモデルは表現豊かで時には笑っている。しかし
 アンドリューが真似たのはもちろんレンブラントの静かな動きのある
 人物である。笑わず泣かず静かなそして何かを秘めたポーズがアンドリュー
 の人物画の特徴であり、父の絵画との大きな違いでもある。父は
 なくなる前には自分の絵を大変罵倒しだすこともあったといわれている。

  もしかしたらその絵の大げさで劇的過ぎる人物に嫌気がさしてきた、
 といえないだろうか?特に子供アンドリューの絵がもつ静けさ、秘密の
 味わい、隠されて意味の深さに驚いたのではないだろうか?いくら
 その絵画技量が優れていようが表現している中身の質の違いに愕然と
 したとしたら残酷な話である。たしかにわが子の成長はうれしいことでは
 あったと思うが。

  その父の重要な驚きはもう一つある。息子アンドリューの静かな寂しげ
 な画面は秘められた多くの意味があるのでは。父にとって動きの激しい
 人物、劇的な大場面を描いた絵画はその第一の印象に比べてその内部に
 ある意味は少ない、世界の人の心の奥底を打つ本当の絵画は息子の領域では
 ないのか?という疑問である。壮大な絵画空間を描いた大作は父の経験と
 実力で勝ち得たものである。アンドリューはほぼ引きこもり性格、社交性
 がなく外の世界と接触したがらず、狭い家の近くの丘とコーン畑を描き
 納屋の内部のありふれた品を描くだけの制作態度、そしてその狭い閉鎖的な
 世界の絵が人の心の共通性をもつという絵画の不思議な面を見たのでは?
  父N・C・ワイエスが自分の作品を最後には「クズ」と呼んだのには、
 このような理由があるのではないでしょうか?

  彼の絵が哀愁をおびているのはその人物が秋、或は冬の中を寂しげに
 背中を見せていることに起因するかもしれない。風景もしかりで春、
 夏の輝き多彩な色彩の世界よりも渋い色の全体を見せない骨格だけの
 厳しい世界を表現する。多くの鑑賞者はその世界に経験から哀愁を
 ものの憐れさを感じる。そしてその理由をこう述べている。

  Is it because we have lost the art of being alone?
(我々は一人でいる術を失ってしまったせいだろうか?)

  枯れ葉が腐る感触、死のイメージ、何かが地面に隠れている、瞑想、
 静けさ、寂しさ、孤独、単に目の前の風景の描写に終わらずそこから
 発生するイメージを夢見て具体化するのがアンドリューの仕事である。

  具体化はリアリズムによってもたらされるがアンドリューワイエスは
 そのリアリズムに潜む、専門画家が陥りやすい危険性にも言及している。
  「私より繊細で正確に描く画家は幾人も見かける。その甘い写実の誘惑に
 おちいると古いカメラで撮ったような、或は自然の漫画化のような危険が
 ある。」と言っている。

  そして「私が描いた絵画の対象となる風景をペンシルバニアで捜しても
 決して見つからないだろう。」と宣言している。特に彼のテンペラ画は
 多くの習作を集めたイメージのようなもので実際の風景とは大きく
 異なっている。しかし人々はリアリズムによって絵画に興味を持ち
 引き付けられていく。

           *この文章の無断転載、引用を禁止します。
続く


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