|
|
|
|
| HOME | Diary | Profile | Auction | BBS | Bookmarks | Shopping List |
|
│<< 前のページへ │一覧 │
長年、この楽天でブログを書いてきて、とても多くの方々にご覧いただき、ありがたいコメントをたくさん頂いて参りましたが、思うところがあって自身のHPをリニューアルするのを機会に新しい場所でブログを書くことに致しました。 これからも、そちらの方でご覧頂きたく思います。 松木幸夫的思考 ![]() ![]()
Last updated
Feb 15, 2010 11:28:11 AM
先日の発表会で今回参加しなかった生徒の一人が、ほぼ出演者全員の演奏中の写真を撮影してくれて、それを現像した写真の束を先週のレッスンのときに僕に手渡してくれた。 その時の僕は、演奏と雑用に追われていたから写真撮影まで手が回らず、それを見かねて撮影してくれたのだろう。まったく感謝感謝である。 その写真を見て、ふと気がついたことがある。 出演者の殆どすべてが、とてもいい姿勢でギターを弾いているのである。 よく雑誌に載っている演奏姿勢、つまり猫背で顔が引きつっているような(失礼!)力任せの如何にも体全体が強ばっているような。そんな姿勢で演奏する人がその写真の中には誰一人として存在していなかったのである。 姿勢がいいと云うことは、第一に背筋が真っすぐに伸びていて、上体が左右にも前後にも無駄に傾いていないと云うことである。 そういう姿勢は、僕自身生徒として発表会に参加している当時には、やろうと思っていてもできないことであった。 何故できないかと云うと、そのような姿勢では、演奏する人の目線に発表会を聴く人の顔や身体が入ってくるからである。 お客の顔や目がこちらを向いていると思うだけで、僕の手は震え自律神経系は暴走を始め、しまいには心臓は張り裂けそうになるから、初めは多少伸びていた背骨は少しずつ曲がって超猫背になり、顔は二目と見られぬ引きつった形相で、目は指板だけが見えるように斜めに首を傾げ、手の震えに怯えながら演奏していたように思う。 ところが、彼らは緊張の中でも常にリラックスしようとして、背筋を伸ばして演奏しているから、全員伸びやかな音をギターから発することができていた。 勿論、そうだからと云って全員が素晴らしい演奏をしたとは思わない。それは彼ら自身もそう感じていることだろう。 それは全員が、それぞれのレベルで難しい曲に挑戦しているからそのプレッシャーに押し潰されそうになりながらの演奏だから彼ら自身思いもよらぬところで間違ったりするからである。 しかもそのことを彼らは真摯に受け止めているようなのである。だから彼らは着実に次のステップに移行することができるだろう。 レッスンでの話しや、ここに書くことは、どちらかと云えばいろいろな楽器を学ぶ人の抱える問題点を解決できるような事を書くつもりでいるのだが、そういう性格上話しの内容は彼らの欠点をあげつらうようなないようになることが多い。 そんなことをぼんやりと考えていたときに、僕の頭の中に先日の発表会の写真と演奏が甦ってきたのだ。 僕は、もの凄く赤面した。
Last updated
Feb 10, 2010 09:25:32 AM
練習してもなかなか弾けるようにならないところは、まったく山のようにある。 それでもめげないで、くじけないで練習に励み、ある成果を獲得するようになる。 それでもその成果はバランスを欠くことが多いものである。 例えば堅実に安定して弾こうと云うことばかりに気を配るために、表情のまったくない機械的な演奏になったり、逆に表情豊かに弾こうとすればするほど、確かに勢いはあるけれど呂律が回らない演奏になったりするものである。 我々はその両方の、つまり安定していながら表情豊かに弾くと云う理想を目指して日夜練習しているのだが、なかなか両方のバランスを取りながら練習し続けることは難しいようだ。 我々が練習で悩むことの多くは、頭の中にある音楽を正確に音で表すための運指を決めると云う作業である。 それは演奏を楽にするために考えることであるが、この楽と云う言葉の意味を、指使いや身体が楽に使えると云う以上に、作曲家の意図を正確に表現しやすくするためと云う意味に重点を置くものだと思われる。 運指の決定や変更は、左右のどちらにも適用される。 弦を弾く方の指の運指の決め方は出来るだけ無理のない、滑らかな動きをすることができる順番を決めればいいのだが、音程を決める方の指の運指の決め方はなかなか難しいものである。 それは人それぞれ長さも柔軟性も違うからだ。 例えば僕が使っている運指を生徒が使ったときに、ものすごく弾き難そうにすることがある。勿論元々楽譜に書かれた運指より僕が付けた運指の方が簡単だから彼は当然のように僕の運指を使うのだが、それにしてもものすごく弾き難そうである。 彼は僕よりも手が大きいからもっと楽に弾けそうなはずである。 分かってしまえば簡単なことであるが、その原因は指板と彼の左手との角度のズレであった。 例えばコードブックに書かれているイラストの手は、それぞれの指の長さを無視して見やすく描いてあるが、我々の指は遠くにある弦を押さえるために指の長さを変えることができない。 変えることができるのは、腕を動かしたり、手の角度を変えたり、また楽器自体を動かすことである。 そう云うことは、なかなか教則本に書きにくいことである。 伝わりにくいからである。
Last updated
Feb 8, 2010 06:50:25 PM
指は、曲がりなりにもきちんと動いているからある程度の曲を弾けないことはないのだが、音が痩せて、拍節感がなく、リズムもよく分からないような人、と云うのは以外の多いのかもしれない。 勿論そのような演奏で満足できればよろしいけれど、いろいろな演奏家の演奏などを聴くに及び、自分ももう少しいい演奏、いい音楽をしたいと思うような人が、自分の演奏を冷静に対峙すると云うのはとても酷なことである。 できればいい演奏はしたいけれど、多分自分にはできないだろう、と達観するように諦めかけているような人、それでも一度でいいからいい演奏をしたいと心底願うような人に手を差し伸べたいと思う気持ちは、誰にでもあることだろう。 「なんで弾けないの?」 「全然上手くならないねえ」 「やる気ないんじゃないの?」 などと云う暴言を、主に師匠から吐き出させてしまうのは、頑なに上達しないように見える彼らの苦悩の現れであって、ある意味双方辛い状況である。 何故双方辛いかと云えば、上記のような暴言を吐かせてしまうのは、 「だって弾けないんだもの」 「面倒な説明はいいから上手にさせてくれ」 「分かりました」と言いながらも、まったく注意した通りの練習をしないことがあまりに長く続いてしまうことの帰結である。 その後、「こういう練習をしろ」「してる」 「きちんと音を聴け」「聴いてる」 と云うような泥仕合が始まることになり、関係は悪化するものである。 だから一度上手に弾くと云うことを頭から捨て去って、楽器と一体化するように、また自分の声が指先を通ってギターから発せられるような気分で、なんて説明する僕の言葉が彼らに届かないのは無理のないことである。 ところが、例えば6拍子の曲で悩んでいる人に6拍子の感じを簡単な和音だけでしかも初見で演奏できる程度の練習曲を書いて弾かせて、何度か強弱弱中共弱弱、などと唱えながら弾かせてみて、しかもそのようなパターンをいくつか弾かせてから、格闘中の曲を僕が拍を唱えながら弾かせてみると、しっかりと6拍子のメロディが生き生きと浮かび上がることがあって、僕も生徒もびっくりしたりすることがある。 一番基礎になるリズムや拍節の練習をすることがどれだけ大切なことか、久しぶりに基礎の大切さを肌で感じた一瞬であった。
Last updated
Feb 6, 2010 10:32:23 AM
発表会が終われば、そこで演奏した曲は一応卒業と云う形をとって新しい曲を決めることになる。これは曲決めと呼ばれる儀式のようなものである。 与える立場としては、それ以前よりも少し難しく、美しく、ギターを音楽の良さがさらに分かりやすくなるようなものを選ぼうと苦心するものである。 与えられる生徒の立場で云えば、彼らは明らかに僕よりも曲を知らないのが通常であるから、自分で新曲を決めることができないので、僕に決めてもらうことを余儀なくされる立場にある。だから彼らはこの次はいったいどんな無理難題を押し付けてくるのかと云う疑念が多少心のうちにあるような顔で教室にやってくるのが習いである。 ある生徒に僕が選んだのは、ソルが書いたスペインのフォリアによる変奏曲、ジュリアーニが書いたスペインのフォリアによる変奏曲、バッハのラルゴBWV1005、同じくバッハのシチリアーナBWV1001、その他である。 初め僕が普段レッスンで使っているギターで弾き、生徒である彼女が「こっちで弾いてください」と自分のギターを指差すので楽器を持ち替えて再び弾き始める。 何故か呆気なくジュリアーニは候補から消えた。それはそれ以外の曲よりも技巧的に難しすぎたからである。 ソルとバッハは、どちらもよかった。 何度も弾いて、何度もうっとりとした。 さて、これまでのHPをまったく新しく作り直そうと専門家にお願いしていたのだが、それがやっと出来上がった。 まだ新築の家みたいなもので家具も何もないがらんどうのような状態だが、次第にいろいろ中身が増えることだろう。 よろしければご覧下さい。
Last updated
Feb 4, 2010 12:36:44 PM
一山越えれば、景色が変わる。 それは、なにも地理のことに限った話しではない。 例えば外国語を学ぶ人にとっての初めの一山は、おそらくその言語で使われる文字の読み方と書き方と発音の仕方を覚えることだろう。次の一山は最低限知らなくてはならないある程度の単語と文の組み立て方であろう。 最低限のルールを知らなければ、ゲームのパズルの学問やその他諸々のことを楽しむことはできないし、それぞれの世界で通用する意味を、覚えることは絶対に必要なことである。 例えば、解決と云う言葉の、推理小説などで使われる場合と音楽で使われる場合では、その意味する内容は違うのであり、それらを混同すると意味がまったく分からなくなるのである。 そしてそんなことはスポーツでも当たり前のことである。 例えばスキーだって水泳だって、それを楽しむためにはある程度のことができなければならない。そのある程度の段階をそれができないから「スキーなんて2度とやらない」と宣言する人が現れたりするわけである。 さて音楽の、ことにクラシックギターの最初の一山とはいったいどの辺までのことを云うのだろうか。 おそらくそれは、越えられそうで、でもある程度の努力をしないと越えられないような山であろう。音の場所かな?勿論ローポジションの。 楽譜の読み方で云えば、初めの山は、例えばト音記号の5線のどこが何の音であるか、と云うのがある程度数えなくても読めると云うことかな。 それらは、一度できてしまえば、何と言うこともないことである。 でも、その山を越えるのがなかなか難しい人に関しては、例えば僕にとってそれは、外国語の単語と構文と時勢であるが、園山を越えることができずに引き返すことになるようである。 そのような山は、引き返す回数が多くなればなるほど、高さを増すように感じられる。 だからできれば一度で越えることが好ましいし、それができない場合はできるだけ速い機会に勢いをつけて一気に越すしかないだろう。
Last updated
Feb 3, 2010 02:40:55 PM
小規模な発表会は、僕の相変わらずの進行の悪さのために遅れ気味に終わった。 出演者は、その殆どがおそらく10回以上参加しているから場数を踏み続け、そろそろ舞台度胸がついてきていそうなものだが、長年通えば当然のように演奏曲目の難易度が上がるために微かに身に付いたはずの場慣れや、舞台度胸なんて云う淡い自信は毎回木っ端微塵に打ち砕かれるものである。 カメラのファインダーは、肉眼よりも鋭く被写体を捉えるものだな、と思うのは、演奏中の人の顔の、肉眼ではいつもの表情に見える人が、ファインダー越しに見ると若干顔が引きつっているのが見えてしまうのだ。 本番で演奏する彼らは、大人も子供も、己と作品の難しさと、聴衆の面前で表現すると云う苦難と困難に立ち向かいながらも、見事にやり遂げるのである。 これに関して僕は、毎回感心するものである。 終演後に、少人数での食事会をして、僕がちょっとした賞をいただいたことを卓を囲んだ人達で喜んでいただけ、いろいろな話し、その中には当然僕についての批判が多分に盛り込まれるのであるが、そんな話しで盛り上がり、昨日は終わった。 今日は、何となくリサイタル明けの時と同じような疲労感を楽しみつつ、昼食に蕎麦でも食いに行こうかと家を出てすぐに、昨日の夜、財布に入れていた銀行のキャッシュカードがないことに気がついたことを思い出したのである。 心地よい疲労感は絶望的な焦燥感に代わり、昼食の蕎麦は昼飯抜きと云うお仕置きに変わったような気がした。 何を用意すればいいのか分からないがとりあえず通帳を持って銀行に向かった。 最後に銀行に行った日を調べようと通帳を開くと、キャッシュカードが栞のように挟まれていた。 昨日までの疲労感と今日の焦燥感で僕はぐったりした。
Last updated
Feb 1, 2010 07:54:39 PM
我々は、さまざまな動機でいろいろな技術や知識を身につけようとする。 例えばギターに関して云えば、女の子にモテたいから、ギターを弾く姿が格好良さそうだから、なんとか云う曲を弾けるようになりたいから、その他諸々がギターを始める動機になるだろう。 だいたいそのような人々は、それらを教えてくれる教室に籍を置くことになるもので、そこが親切の教室でない限り、上手な先輩がいたり頼りない若先生がいたりする。 次第に、上手な先輩に少しでも近づき、下手な若先生を追い越したいと云う真っ当な思いが彼を支配し始めれば、例えば先輩の持っているのと同じ楽器が欲しくなるだろうし、それまで以上に練習に熱が入ることになる。 そのようにしてモテたいとか格好が良さそうだからと云う初期的な動機が、次第に変化して純粋にもっと上手になりたい、或いは誰某のような演奏をしたい、などと思い始める人が現れたりするものである。 もとより楽器の演奏は、多少練習量を増やしたからと云ってすぐに成果を見せるものではない。壁はいくらでも現れてくるし、心ない罵声を浴びせるような人間だってわんさかいるものであり、その度に彼らは悩み苦しむことになるものである。 が、一番彼らを苦しめるのは、彼ら自身の心の中にある理想像である。 その理想が低ければ、我々はなんの苦労も必要がないと云ってよいかもしれない。けれど口で何と言おうが構わないが、我々の中には必ずとんでもないくらいに高い理想があるものである。 その理想に少しでも近づきたいと思いながら精進する人を襲うのは、何も僕のような人間から発せられる悪口ばかりでなく、身体の不調や病だったりする。 身体の不調は、正しい身体の細かい使い方や、どういうことに気をつければいいかと云うことを念入りに念入りに行えばある程度は解決できるものであるが、病気に関しては専門家でない限り、または専門家であっても、そのすべてを解決することは不可能である。 目標はしっかりあるけれど、未来がどうなるのかまったく見えない我々が、強い気持ちで生きていけるためには、いったいなんの支えとしているのだろうか。僕にはさっぱり分からない。 さて、今日は発表会である。
Last updated
Jan 31, 2010 10:56:01 AM
ごく稀にソルフェージュのレッスンを頼まれることがある。 勿論、本格的にソルフェージュを学びたい人は、声楽や作曲を教えるような本格的な先生の所へ習いに行くのだろうが、本格的に習うほどではないが基礎的な発声や音程や初歩の音楽之基礎を学びたいと云う人が、僕の所にやってくるのである。 そして、その彼らの多くは自らを音痴と自認するような人が多いと云うことも僕の教室の特徴である。 音痴と云うのは、ある程度差別的な響きを含む言葉で使われることがあるけれど、医学的な意味での音痴と云う症状を持つ人がどれだけいるのか分からない。 けれど自虐的に自分を音痴と云う人の殆どは、生まれながらに、或いはあるきっかけによって歌うことが苦手になったために、歌を歌うと云うことをしなかったために、頭に思い描いた音を声として発することができない、つまり練習不足によって音程を正しく取ることができないと云う人だろうと云うのが、僕の漠然としたイメージである。 だから出そうと思う音を発したときに、その音が上ずったり下がったりするのは、音程をコントロールする器官が不慣れだからに過ぎない。ならば繰り返して練習すればよろしいのである。 また、そのような人は、音の高さをある程度の時間記憶に留めておくことができない場合がある。 それは英語に不慣れな僕が、耳慣れない単語を聞いてもすぐに忘れるのと同じ症状である。これもまた辛抱強く繰り返して練習するより方法がないだろう。 だからそのようなレッスンで、彼らはしばらくの間、当然のように音を外しっぱなしで歌うことになり、僕が笑い出す前に彼らが吹き出してしまうのである。 だが少しすると簡単なメロディを正しい音程で歌えるようになり始めるのである。 すると彼らは、嬉しさのあまりレッスン以外の時間に突然難しい旋律を歌ったりするのである。 ところが彼らには難しい旋律を歌えるだけの音程感覚が身に付いていないものだから正しく歌えるはずがなく、それを身にしみた彼らは一様に戦慄するのであり、落ち込んだ顔でレッスン室にやってくることになるのである。 こうして、彼らは次第に打たれ強くなり、いろいろな知識や技能を身につけることができるのである。 まあ、それには長い道のりを歩き通すだけの根気が必要なのだけれども。
Last updated
Jan 29, 2010 05:14:33 PM
テレビドラマや映画に於いて役柄としてはまったく重要性を持たないが、なくてはならない存在である出演者のことを一般にエキストラと呼んでいる。 これはオーケストラでも使われる言葉であって、その意味はドラマや映画とは違ってそのオーケストラがある曲を演奏する場合にメンバーが足りないために必要とされる団員のことであり、なくてはならぬ存在である。 我々の世界には、上記のふたつの意味のエキストラ的存在がいて、重宝したりうんざりしたりするものである。 例えば、次のような例を喩えとして云うことができるかもしれない。 ギターの合奏の練習の際、或いは本番の直前に多少器用に初見が効いて、リズム感がしっかりしている人がその場に現れたとすると、なんだか知らないけれど予備っぽいギターを取り出して彼に手渡し、練習や本番を滞りなくやり遂げるのに必要な人材は、おそらくなくてはならないタイプのエキストラと云うことができるだろう。 そのなくてはならないエキストラが演奏に参加したために、ちょっと面倒なところや、さらに演奏の大方のところを手抜きで演奏して、さもきちんと演奏したような顔をするような、このような人が実際にいるのかどうか知らないけれど、そのような人材を、その他大勢的な意味のエキストラへと云うことができるだろうと思われる。 それよりも困るのは、突然ちょっかいをかけてきて、何かをしたいのかなと思って相手になろうとすると、再び突然態度を硬化させてしまって我々を驚かすような人がいる。 まったく訳が分からないが、それほど気にすることもないだろうとそのことを忘れ始めた頃に再びちょっかいをかけてきて、思わず声を荒げると彼は突然逆切れしたりする。 彼には彼なりの理由があるのかもしれないが、それがとてもはた迷惑なことであることを、おそらく彼は認識していないのだろうと思われる。 或は、充分認識しているのだけれど、誰にも相手にされていないと思うことが辛く、または寂しいから人の傍にいて、自分は誰かと触れ合っていると云う実感を持ちたくなれば誰かにちょっかいをかけて、それで満足できれば相手の意思はお構いなしに自分の世界に籠ってしまうように、僕には思われるのである。 そのような人は、多くはない。けれど確実にひとりは存在するものである。 まあ、そのような人がいるから、僕の周囲にいる人が、誠実で、責任感があって、向上心に満ち溢れ、徳を兼ね備えているんだな、とより切実に思えてしまうと云う利点が、ないとは云えない人なのである。
Last updated
Jan 28, 2010 02:12:40 PM
│<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||