カテゴリ:旅、温泉
<民話の故郷・遠野>
遠野の「むがすっこ」(昔話)は「むがすあったずもなー」(昔あったんだって)で始まるのが約束事になっている。私が今回の旅のうち遠野で撮った写真は160枚ほど。そのうちの10枚は既に使ったが、残りの150枚を使うにはまだ2週間ほどかかってしまう。さて、私の「遠野物語」は、果たしてどんな風に話を進めたら良いのだろうねえ。 とおの物語の館 遠野駅から先ず向かったのが「遠野城下町資料館」だった。だが簡単には見つからず、同じような蔵の形をしたレストランと間違えてしまったようだ。そこには「11時オープン」の札が。そこで仕方なく「とおの物語の館」に向かった。これも看板の位置が悪く、一旦引き返してようやく見つかった。この2つの施設の共通券を500円で購入し、早速中に入った。 遠野の800もの民話には、色んなものが登場する。そのうちの代表的なものを紹介すると、左は山神様で、右は仙人。 それに河童(左)や天狗(右)も遠野の昔話の定番だ。 身の毛のよだつ鬼も登場すれば、一寸法師だって活躍するんだ。 雪国遠野では「雪女」(左)はつきものの話だし、意地悪婆さんと舌切り雀の話も出て来る。 人間だけではない山の猿も出て来れば、馬と夫婦になった娘の悲しい話もある。 そうそう。遠野の昔話によく登場するのが「座敷わらし」。わらしは子供の意味なんだけどね。 座敷わらしは男の子ばかりとは限らない。時には女の子だって出て来るさ。しかも2人組でねえ。 「物語の館」では座敷わらしに、こんな説明をしていたねえ。 それに「嫁入り」はキツネばかりとは限らない。ここ遠野ではネズミの嫁入りもあるんだよね。 登場するのは人間や動物、妖怪だけじゃない。中には釜だってあるぞ。これは「鳴釜」の話。 建物の話も出る。これは「南部曲がり家」で、お話は「古家の漏り」。落語の話にもあるよね。 若い母子、人の好いお婆さん、狐に騙されるお爺さん。遠野の民話ではそんな普通の人も良く登場するんだよね。つまり遠野の暮らしの中に、そんな面白く不思議な話が幾つもあったのさ。 この人は佐々木喜善(ささききぜん)と言って明治19年(1886年)に遠野の近郊土淵村の裕福な農家に生まれた。お爺さんは有名な語り部で、喜善は子供のころからこのお爺さんの話を聞いて育ったんだねえ。青年になると東京の東洋大学に入学し、やがて文学に志して早稲田大学の文学部に編入する。 その早稲田の4年生の時に、彼は柳田國男に初めてあったのさ。そして遠野の色んな昔話や怪談話を彼に語ったそうだ。喜善は後で言っている。柳田はまるで役人みたいな口調だったと。そうそう柳田國男は東京帝大を出たエリートで、当時は農商務省に勤務していた役人だったのさ。それが喜善の話に惹かれて、民話に興味を持ち、やがて日本の民俗研究の第一人者となって行くんだよね。 一方の柳田國男は岡山に生まれ、喜善より10歳年上だった。東京帝大を卒業して農商務省に勤務し、主に東北の農地を実際に調査しながら歩いてたようだ。柳田は妻方の姓で、早稲田大学で講義をしていたこともある。喜善が柳田を初めて訪問し、遠野の昔話を話して聞かせたのは、早稲田大学の4年生の時だったそうだ。 日本で最初の民話研究書『遠野物語』は2年間の聞き取りの後に上梓され、民俗学者柳田國男の名を有名にした。実際に遠野を3度訪れ、喜善の実家を訪れたこともあったそうだ。後で柳田は「喜善の強い訛りはとても聞き取り難かった」と漏らしていたそうだ。日本の民話学の嚆矢となった『遠野物語』は2人の深い縁によって誕生したと言っても良いだろう。 苦労の末に上梓された『遠野物語』初版本のしかも第1号を、柳田が喜善に献上したのは当然だったと思う。喜善の話を聞かなかったら、この有名な本はこの世に誕生しなかったのだから。そんな意味でも、柳田が喜善宛に揮毫したこの本は、まさに歴史の生き証人と言えるだろう。 2人のその後のことについても触れておこう。柳田は大正8年(1919年)に役人を辞し、その後は文筆活動に専念し、『雪国の春』や『海上の道』などを上梓する。昭和24年(1949年)日本学士院会員となり、同26年(1951年)には文化勲章を受章した。昭和37年(1962年)没。享年87歳だった。 琉球弧(南西諸島)を通って我が国に米がもたらされたとする柳田の学説は、その後の考古学の発展で否定されることになったが、民俗学的な第一線の研究は未だ色あせておらず、多くの信奉者を有している。 一方佐々木喜善は、その後小説家、民話収集家となったもののの、自ら研究者とは名乗らなかった由。遠野の民話800のうち半数の400を彼は採集していた。後年故郷に戻り、土淵村長となって地元に貢献した。だが慣れない政治活動に心身を蝕まれ、多額の負債を抱えて仙台へ移転し、わずか47歳の若さで客死した。同郷の言語学者金田一京助はその死を悼み、彼を「日本のグリム」と称えた由。 私が佐々木喜善の名前を初めて知ったのは9つ目の職場。歴史学担当の教授から喜善と柳田の関係について記した資料をもらってからだ。柳田は押しも押されもせぬ、日本民俗学の権威になった。だが若き日から彼に膨大な資料を提供し続けた喜善は、仙台で非業の死を遂げた。まさに太陽と月のような2人の関係。生き方も、そして末路も全く対照的な2人だった。 でも最後は岩手の民話のように、こう言って楽しく終わろうと思う。「どんと晴れ!」<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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