四百年前の「韓流」 週のはじめに考える
2007年4月15日 中日新聞社説
江戸時代の「朝鮮通信使」が始まってことしで四百年。あまり知られていない交流の歴史をながめつつ、日韓をはじめ隣国同士の付き合い方の教訓をくみ取れればと思います。
一枚の絵があります。
遠くに富士を望む江戸の街。カネや太鼓、笛など民族楽器を奏でる楽隊を先頭に、朝鮮の礼服姿で輿(こし)を担ぎ、旗を持つ行列が続きます。
両側には、開けはなった町家の座敷や道路を埋める着飾った老若男女-。異国情緒あふれる楽曲や人々のざわめきが聞こえるようです。
羽川藤永筆の「朝鮮通信使来朝図」。十八世紀中ごろの作です。
世界史にまれな使節団
ことしは、「通信使」来日から四百年を記念しての各種行事が計画され、東京や静岡、対馬などでは行列が再現されます。
「朝鮮通信使」は、江戸時代に十二回も行われた大外交使節団。世界史にもまれといえそうです。
漢城(いまのソウル)から江戸まで約二千キロ、四、五百人もの一行が一年ほどかけて往復したというのですから、なんとも壮大です。
日本と朝鮮の外交は、室町時代にも活発でしたが、豊臣秀吉の治世に朝鮮へ攻め入った(文禄・慶長の役)ため途絶します。
再開を決断したのが徳川家康でした。二つの役の直後、朝鮮国王に「和交」を申し入れました。
関ケ原の合戦で天下を制した家康は、隣国との争いを回避して、国内を安定させ、隣国の王の国書が権威を高めて支配を強固にできると読んだからです。
朝鮮の方も、北方で女真族がしばしば国境を侵し、南方にある日本との安定した関係が不可欠でした。それに二つの役で二、三万人が捕虜になっており、これを取り返す必要もあったのです。
このため、第一回の使節団は「回答兼刷還使」と称しました。一六〇七(慶長十二)年です。
盛んだった交歓・交流
両国にはそれぞれ思惑がありましたが、大使節団が対立から友好親善へ転換させたのは間違いありません。「家康の平和外交」です。
第四回からは「通信使」と呼ばれ、徳川将軍の就任を祝う国書伝達が目的に変わりました。
経路は、釜山から船に乗り、対馬、瀬戸内海、大坂を経て、京都からは陸路を江戸まで。道中注目されるのは文化の交流です。
朝鮮王朝は、儒学、漢詩、絵画、医学などに秀でた人材を一行に加えました。このため宿泊地ごとに日本の専門家が教えを請うたり、交歓したりが盛んに行われ、日本の文化に計り知れない影響を与えました。
楽隊やサーカスも人々の好奇心を刺激して、人形(広島県・張り子人形)や祭り(岡山県・唐子踊り)となって、いまに残っています。
まさに江戸時代の“韓流”です。
ただ、朝鮮国王の就任を祝う日本の使節団は、釜山にある「倭館(わかん)」までと制限されました。朝鮮が再侵略を恐れ国内事情を知られたくなかったためです。
それでも、徳川幕府から朝鮮王朝に贈られた金地絵屏風(びょうぶ)や茶道具、錦衣、装身馬具などは朝鮮文化に刺激を与えたに違いありません。
振り返ってみると、江戸二百五十年の間、日本は近隣と一度も戦争をせず、平和が保たれました。これも世界史にはまれなことです。
その要因の一つは隣国との文化交流、そして「善隣」が機能したためです。歴史が教えてくれます。
通信使は、十二回(一八一一年)をもって終わりました。
理由の一つは巨額の接遇経費です。幕府の年間収入が七十万両ほどの時代に約百万両ですから大変な出費でした。江戸後期になると凶作や打ちこわしなどが重なり、幕府の財政は衰退していきます。
もう一つは、国学が盛んになり、尊皇思想とともに、日本は他より優れた国、「通信使」でなく「朝貢使」にすべきなどと、自国中心主義が台頭します。明治になって朝鮮半島の植民地化までいきました。
狭いナショナリズムは隣国関係を損ないます。これも教訓です。
また、通信使については、明治以降つい最近まで、学校でもほとんど教えませんでした。
明治新政府が徳川幕府の業績を無視したこと、植民地化のため朝鮮が文化的に優位だったと認めたくなかったからでしょう。
歴史をゆがめたり、隠したりすると、国と国との関係もゆがむ。事実に基づいて、明日への教訓をくみ取る必要があります。
「誠信外交」の勧め
「互いに欺かず争わず真実を以(もっ)て交わり候を誠信とは申候」
通信使の接遇にも当たった対馬藩の儒者、雨森芳洲の言葉です。
外交は国益のぶつかり合いですが、力や金だけでは動かないものもあるはずです。いまかつてない“韓流”の時代、隣国同士は多様で重層的なつきあいが必要です。
「通信使」は、信(よしみ)を通わす使節という意味でした。四百年を機にかみしめたい言葉です。
あまりに気持ち悪い記事だったので、思わず全文引用してしまいました。
歴史を知らぬのはどこの誰だと、中日新聞論説委員に問い質したいものです。
とりあえず画像を1枚upしておきますね。