馬上金山神社
日本は昔から 日本各地で鉱山採掘されてきた歴史がある。 その中で、388年もの間、採掘されてきた佐渡の金山や 国内現役で採掘されている所としては、 鹿児島県 菱刈(ひしかり)鉱山などが 有名である。 国東半島にも、いくつかの金鉱山があり 採掘された場所がある。 そのひとつとして、「馬上金山」がある。 明治末期~昭和初期にかけて 鯛生金山と肩を並べるほどの 全国トップクラスの産出量を誇っていた。 その金山の近くに、『馬上金山神社』はある。 【馬上金山神社の歴史】 神社の歴史は、以外と古い。 ~神社由緒書による~ 創立は、養老4年9月とある。 養老4年とは、西暦720年 今から1289年前という事になる。 この国東半島の歴史を語る上で 必ず出てくる 養老2年(718年) 仁聞菩薩 開基 この神社も、国東半島 六郷満山という 独特の山岳仏教文化が開かれた時期と同じである。 この神社由緒書に書かれている内容は、断片的ではあるが、興味深い内容が書かれている。 ・元亀(げんき)3年(西暦1472年) 大友義鑑(よしあき)の家臣 緒方継義が社殿を造り替えたとある。 ≪大友義鑑≫ 豊後の戦国大名であり、大友氏の第20代当主。 義鑑の後を嫡男(ちゃくなん)である 大友宗麟(義鎮)が 継ぐ事になる。 ・正保4年(1647年)11月15日 立石領主 木下延典にて 神殿・拝殿を造り替えた。 ≪立石藩(たていしはん)≫ 日出藩との密接なつながりのある立石藩 豊後の国の藩のひとつで、現在の大分県 杵築市山香町立石を領していた。 藩主は、木下氏である。 石高は、5000石であった事もあり 立石領とも呼ばれる。 姫路より入国 日出町の別府湾を望む位置に暘谷城を築城した 豊後日出藩の藩主 木下延俊(のぶとし) その後継者が、俊治と延由の二人であった。 立石藩は、11代で明治を迎え、廃藩となり 消滅した。 ここで、記載されている立石領主 木下延典という名前は、11代までの資料には出て来ず。 木下延俊の後継者の一人、延由ではないかと推定する。 ・大正8年5月(1647年) 馬上金山主 成清信愛にて 神殿・申殿・拝殿・神楽殿を造り替えた。 ≪成清信愛≫ ここでも、日出町と山香町立石とは、密接なつながりがあるのである。 父である 成清博愛の事業 金山採掘事業を大正5年 父の死去に伴い 後を継ぎ、金山採掘最盛の時期に この神社も建て替えられている。 金山採掘事業のみならず、貴族院議員、衆議院議員などの議員職から 現在でも残る 大分県企業の基礎を 築いた人でもある。 全国でも有名なのは、父 博愛が金山で得た巨額の富をつぎ込んだ 別荘『的山荘』である。 日出町の別府湾を一望できる広大な敷地に 近代和風建築の豪華な家屋。 現在では、城下かれいの料亭として 再復活している。 成清博愛氏が 奉納した絵馬 現在でも、色落ちも少なく はっきりと見る事ができる 今は静かにたたずむ 馬上金山神社であるが、由緒書から見えてくる各時代背景からは、 いろんな人々が参拝に訪れる 賑やかだった時代風景が見えてくるようである。 |