164224 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

台湾役者日記

台湾役者日記

曲者(未完)

■ くせもの役者とは何か


「くせもの役者」の反対を「すなお系役者」と呼ぶことにする。で、「すなお系」の代表をたとえばハリソン・フォードとし、「くせもの」の代表には故クラウス・キンスキーをもってくるとする。と、すべての「役付き役者」は、「くせもの度0」のハリソン・フォード級から「くせもの度100」のクラウス・キンスキー級までのどこかの場所に置くことができるのではないか。

ここで「すべての役者」とせず「すべての『役付き役者』」としたのは、同じ役者でも出てる作品によって「くせもの度」が違ってくるからで、ほんとうに達者な役者というものは、必要に応じて自由に「くせもの度」を調整することができるのであろう。

ところで、「くせもの役者」についての考察を進める前に、ひとつ解決しておかなければならない問題がある。「くせもの」に女優を含めるかどうかという問題である。

もちろん女優も役者なんだが、これは、どう言えばいいのでしょう、いちばん簡単に言ってしまえば、わたしは男なんで女優については「くせもの度」の判定ができない、ということになるだろうか。しかしそれを言うのであれば、女性鑑賞者が男性俳優の「くせもの度」を云々することもできないのか、という話になる。

映画の歴史について大そうな知識をもっているわけではないが、今まで観てきた映画のほとんどにおいて、女優は「ドラマ構造上の要素としてのくせもの性」を発揮する度合いが、男性俳優に比べて低かったように思われる。

もちろん、同じシガニー・ウィーバーでも『エイリアン』と『ワーキング・ガール』とでは演じ方が違っていて、後者においては「くせもの性」が少し強めに出ている、というような事例はある。一般に、女性が主人公となる作品では、脇役に回った女優にもある程度の「くせもの性」が見られる例が多い。

「くせもの役者論」の結論の一部を先に言ってしまうことになるけれども、わたしは、主人公というものは、ほんらい主体性と能動的な行動様式とを(ときには潜在的に)そなえていながら、ドラマの中では各種のインパクトに対して受動的に行動させられてしまう(正確には、強制的に能動性を発揮させられてしまう)存在なのではないか、と思うのである。

その主人公になんらかのインパクトを与えるのが脇役の務めであって、その「くせもの度」が高いほど、脇役の主人公に対するインパクトは「目に見えて」強くなる。映像ドラマなんだから、「目に見えて」強いインパクトを感じさせなきゃならんわけだ。

で、主人公が男性であった場合、女性キャラクターというのは、すでに「女であるというだけで主人公に何らかのインパクトを与える存在」になっちゃってるのである。しかも、「魅力的であればあるほど、主人公に対するインパクトは強い」んである。さらに、「その魅力は、(映像ドラマなんだから、どうしても)視覚的なものを第一義とする」ことになっちまってるんである。ありていに言ってしまえば、「美人ほど男性主人公に対するインパクトが強い」という公式が、どうも映像ドラマの世界では幅を利かせているようだ。

この「映画の中の真理」は、現実の世界とはちょっと違う。

現実には、それこそ「くせもの度」の高い女性もいれば、「美人とは言えないけれども魅力的な人」もいる。そもそも「美人」とはなにか? 現実には人の好みもさまざまだし、「美人」だと思っていた相手が話をしてみるとあら不思議、10分後には「なんでこんなのを美人だと思っていたのか。おれもまだまだだな」なんて思うこともたまにはある(のではないか?)。

ところが映像ドラマというものにはさまざまな制約があって、まず第一にこの芸術はどうしても「興行」という形をとらざるを得ない。作るのにお金がかかるんで、幅ひろく多くの人々に観てもらえるようなものにしないと、予算がつかないのだ。

(ああ、なんか話がどんどん逸れていって収拾がつかなくなりそうだ……。)

(これから部屋をちょこっと掃除して、メシをラップして冷凍して、頭洗って、出かけなけりゃならんのです。あと、懸案の企画書各種についても引き続きやらにゃならんわけです。「日記」書きに逃避してる場合じゃないんですが……。それではまた)

この項、つづく・・・


© Rakuten Group, Inc.