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台湾役者日記

台湾役者日記

偸情

■■2005年2月4日東南亞戲院

■ 『偸情 CLOSER』(2004年)IMDb

舞台はロンドン。

肖像写真家(ジュリア・ロバーツ)、小説家志望の死亡記事欄担当記者(ジュード・ロウ)、ニューヨークから流れて来た踊り子(ナタリー・ポートマン)、医者(クライヴ・オーウェン)。この4人が繰り広げる順列組み合わせ的愛憎劇。

元になっているのはパトリック・マーバーという人の戯曲で、映画の脚本もこの人。

この映画は、数えながら観たわけではないんで確かなことは言えないが、たぶん12くらいのシークエンスで構成されている。これは戯曲が元になった映画の特徴ということになるが、(1)各シークエンスは、ひとつ(か、時間の連続する少ない数の)シーンで成り立っている。そして、(2)シークエンスから次のシークエンスに移る際に、ドラマ時間は一気に大幅に(「4ヵ月後」とか「1年後」とかに)飛び、それに対して(3)各シーンにおけるカット間のドラマ時間の飛躍は、きわめて少ない。さらに、わたしの記憶違いでなければ、(4)回想シーンはひとつもない。


こんな感じ。

シークエンス1>(長い時間の経過)>シークエンス2>(長い時間の経過)>シークエンス3>……
                                               
シーン1、2、3(連続)>>>>>>>シーン4(連続)>>>>>>>>>シーン5,6(連続)>……


ありがちな「スペクタクル優先映画」と違って、「戯曲映画」では、派手な爆発ぶっ飛びシーン、カーチェイス、弾除けスローモーション、空中飛び跳ね対決、などで時間をかせぐことは難しい。「戯曲映画」では役者の演技が大きな比重で作品全体の成否のカギを握ることになる。舞台劇と違って映画にはクローズアップがあるから、『CLOSER』では、4人の役者は、演じる役柄の複雑で微妙な(時に単純で激しい)感情の動きを、顔や眼の微細な(時に大きな)表情の変化によって(も)表現しきらなければならない。「戯曲映画」ではワンシーンの尺(上映時間)が長くなることが多いので、そのシーンにおける役柄の感情の連続性を損なわずに劇的な変化を表現するのは、いきおい、とても難しい仕事になってくる。

ハリウッドで活躍しているトップ俳優には名人がたくさんいるが、『CLOSER』の4人の主役たちの演技は完璧だ。それがどのくらい完璧なのかというと、具体的に「どのカットのどの演技がどう良かった」と説明しただけでそれがネタばらしになってしまうというくらいに、完璧だった。

***

どのシーンどのカットについて感想を述べるとしても、そのシーンに至る経緯を紹介しなければ面白さを説明することは出来ず、そうなるとスジをすべて語ってしまわなければならないんで、それはやめよう。めんどくさいし。

その代わりに、この映画を観て考えさせられた「考察」を書く。

***

女にとって男というものは結局 y=F(x) みたいな機能(function)に過ぎないのかな、と。

変数"x"は女が自分で決めて男の方へ投げ込む。その変域はほぼ無限である(要するにどんな"x"が投入されるか、事前予測はほぼ不可能)。で、ブラックボックスとしての男は、どういう具合にやるんかは人それぞれの「秘訣」みたいなもんで不明だが、この"x"を四苦八苦して"y"に変換し、女に投げ返すのである。

時として女は、かつて投入した"x=n"を、数ヶ月とか数年たってから突然、わざと、再投入したりする。その時に、前回の解が"y=p"であったのに今回、同じ"n"に対してなぜか"y=q"という別の解が出てきたりすると、それはもう大変なことになる。

男というブラックボックスの中身がどうなっているかなんてことに、女はまったく興味がない。ただ、機能(function)としての男に対しては、できる限り長期間正常に駆動してくれ、と思っている。

そんなブラックボックスも、永年の間には"x→y"の変換作業に疲れ果て、「自分はもしかすると生身の人間だったかもしれない」と勘違いしたりするんで、その挙句に分不相応な行為を女に対して仕掛けてしまったりする。

(1)女に「変数"x"の出自」を問う。

これは絶対にしてはならない行為である。女は人間であって機能(function)ではない。その女に x=F(z) の"F"や"z"の説明をもとめるなぞ、あってはならないことである。変数"x"を規定する「変数の変数"z"」 なんてどこにも存在しない。女は直接に変数"x"なんであり、男というブラックボックスはその女の「直接に変数であるわたし」を維持するための装置として、かろうじて存在を許されているに過ぎない。

(2)女に y=F(x) の"F"を説明しようとする。

そんなものを知りたがる女なんていない。男は正常に駆動するブラックボックスであってくれればいいんで、その装置の構造なんて誰も訊いていない。ロンドンまで行くには航空券があればよくて、その航空券をもらう前にあんたの航空力学を聞いてあげる、なんて誰も言ってない。ところが男は、「人として認めてくれとは言わん。がしかし、せめて機能としての俺の優秀さとかカイゼンの経過とか悲哀とか、そんなモロモロを理解してくれ」などと血迷った話を切り出したりする。

そんなことしても無駄である。無駄である以上に、危険である。

女は男の血の叫びを注意深く聞くが、男の"F"を理解したいのがその理由ではない。それは、「これひょっとして故障? やだどうしようどこへ出せば修理できるのかしら」と必死になって考えるからである。修理不能と認定された男は「おはらいボックス」に片付けられる。「おはらいボックス」はとても寂しくて怖い箱で、その中にはおはらい箱になったブラックボックスが山と積み重なっており、お互いに自分の機能自慢を他のブラックボックスに向かって吹きあうという無間地獄が展開されている。

恋愛にはオフェンスの段階とディフェンスの段階とがあって、その両方が同等の重要性をもっている。

オフェンスが巧みでもディフェンスが拙劣だとすぐに「おはらいボックス」入りとなるし、ディフェンシヴな機能"F"の優秀さをいかに強烈に自負していようとも、オフェンスが成功しなければそもそも誰からも変数"x"を投入してもらえない。

ところが、オフェンスのワザに秀でた男は、えてしてディフェンスがヘタである。と言うよりも、ディフェンスがうまくいかないという経験の繰り返しが、男を、ディフェンス面の再検討という方向ではなく、さらなるオフェンス技術の研鑽へと駆り立ててしまいがちとなる。そういう男は、多くの場合、せいぜい2個か3個の変数(たとえば"a"と"b"と"c")にしか対応できない「一時しのぎ用代車的ホワイトボックス」として終わってしまう。(「だってあたしが"d"って言ったとたんに逆ギレしちゃうんだもん」)。

逆に、オフェンスに成功したことのない男は必死になってまずディフェンスの技量を上げようとする。自分なりに変数"x"の変域"X"を仮想し、そこから繰り出されてくるはずの数々の"x"を相手に「俺なりの想定問答集」を編み上げようと図るのである。ところがこの男には変数"x"と女の「直接的同一性」が分かってないんで、その仮想変域"X"は自分の"F"から演繹的に発明された別の"F"でしかない代物になる。つまり、頭の中で女を機能主義的に還元してしまうのである。これではいつまでたっても生身の女に遭遇することは不可能で、現実の女よりも「俺の変域"X"こそが女」とか思い込んだ男は、おもむろに詩集を書き始めたりする。

じゃどうすりゃいいんだ、という話になるわけだが、世の中に楽な道はない。男にはまずブラックボックスとしての自覚(っつか「悟り」)が必要で、その上に、機能面における己の弱点と虚心に向き合い、そのカイゼンを図ることが要請されている。そこまでしなけりゃ女と付き合えないのか! という男には、とりあえず映画『CLOSER』でも観て、早々に覚悟を固めてもらいたい。

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監督はマイク・ニコルズ。「3度の離婚後」「88年にニュース・キャスターと再婚した」。さもありなん、という傑作映画である。



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