164206 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

台湾役者日記

台湾役者日記

法善寺横丁3

■■ 法善寺横丁の夜 3 ■■ 2004年11月21日(日)



■ 上町台地霊界めぐりツアー


「アイゼンさんの横の崖なぁ、あそこもなんか強烈にクルもんがある。清水(きよみず)寺の滝は水源がどこか分からん、ちゅうし、あの辺は謎の多いゾーンやね」とエヌ氏は言う。

「清水寺て、大阪にあるんですか」
「ジブン、行ったことないん?」

「ジブン」というのは大阪で仲間内で話するときに使われる二人称である。「キミ、行ったことないの?」というような意味になる。

「ありませんなぁ。どの辺ですのん?」
「それがちょっとややこしい。うちの家からやとスグやねんけどなあ。アイゼンさんあるやろ」
「はあ」
「あそこから愛染坂下りて、清水坂上がっていく、そっからまた、せまぁい路地へ入っていったとこにあんねん」
「で、そこに滝があるんですか?」
「あんねん」
「アヤシイやないですか」
「あやしいよ」
「京都の清水寺にも……」
「音羽の滝がある。……いや、大阪には清水さんもあれば八坂神社もあるよ」
「ほんまですか」
「ほんまです。本殿がオニの顔になっとる」
「どういうことですか?」
「いや、これ、有名よ。ヒマな時に行ってみたら?」
「はあ」

八坂神社はともかく、わたしは、上町台地にあるというその「滝」を見たくてたまらなくなった。エヌ氏の言う場所は、四天王寺や愛染さんからごく近い。わたしの中学高校時代の行動範囲の内側にあるようだ。そんなところにあるそんな珍しい場所を、わたしは、今日の今日まで知らなかったのだ。

「エヌはん」と、わたしは呼びかけた。
「ハイなぁ」
「お仕事はお忙しいと思うんですが」
「ハイ、なんでしょう?」
「『上町台地霊界めぐりツアー』ちゅうのん、やってみませんか」
「あソレおもろいなぁ」
「明日とか、どうですか?」
「あ、明日かぁ、それは……。いや、ちょうど明日あたり「味覚」のヤマがひとつ来ると思うんや。それが来たらちょっと苦しいねぇ」

エヌ氏はコピーライター兼タロット占い師であると同時に、何年も前から、関西発信の有名有力グルメガイド雑誌・『味覚ノート(仮名)』のアンカー校正マンをやっているのだ。『味覚ノート(仮名)』は月刊誌で、毎月同じような時期に校正の「ヤマ」がやってくる。部分的に原稿が上がってくるたびに、エヌ氏は編集部へ出向いて校正をやる。『味覚(仮名)』はこのところ好調で、ページ数が増えてきている。その分エヌ氏も忙しくなってきているのだ。

「そうですかぁ。今回は難しそうですな。いや、いっぺんこの、イクタマ神社から始めてね、こう、愛染さんとか清水寺とか見ていって、最後は一心寺から茶臼山へ至るという、『上町台地霊界めぐり』……」
「あさってやったら行けるかもしれんよぉ」
「え。明日電話で御つごうお尋ねしてもよろし?」
「ええよ。夜遅ぉ~い時間に電話してみて」
「ハイなぁ~」

ナカムラくんは誘われないように、一所懸命、注意深く肉を焼くふりをしている。いったい俺らは今晩どれだけ肉を喰らうのか。テーブルの上にはまだ結構な枚数の肉がある。


大阪法善寺横丁 2004年3月23日

▲法善寺横丁
 ただし撮影は前回帰阪時、2004年3月23日。

 


■ もののけ台地


もとよりわたしは、死んだやつの「霊魂」なんてぇもんがその辺をふらふらさ迷っている、などと信じるものではない。

「霊魂」はその辺をさ迷ってるんじゃなくて、生き残ったやつの胸から腹のあたりに巣くっているのだ。「逝ける者」は「幸いなるかな」でもなく「悲しきかな」でもなく単に「無なるかな」である。「うらみ」だの「たたり」だの「霊魂」だのが確実に残せるようならなにも現世においてこんなに苦労はしない。死ねばいいだけだ。死んで「あの世」からこの世をコントロールすりゃあ何の手間もない。ところが死は端的に「無」である。それが分かってるからこそ、生きてるうちに何とか辻褄を合わせようとして悪あがきする。少なくともわたしは。で、悪あがきしてますます辻褄が合わなくなるんだがそれはほっといてもらいたい。

ということで、やっつけちまった相手の「霊魂」つうもんは、やってしまったこっちの胸なり腹なりにどっかりと腰を落ち着けてなかなか鎮まるということがないだろう。ましてウン千年も昔の話となれば、電気どころか石油もない。盛り場なんてもんもなくて、日が暮れりゃあたりは真っ暗。死んだやつの「霊魂」は山の「気」や森の「魂」や岩の「霊」と簡単に結託して、生きてるやつの胸をざわざわと騒がせたに違いない。


  ささの葉はみ山もさやに亂〔さや〕げども吾は妹おもふ別れ來ぬれば

【万葉集133。テキストは岩波文庫、佐佐木信綱編『新訂新訓萬葉集』1954年改版の1982年第64刷。〔 〕内はテキストにあるルビ。】



この「ささの葉」はただの笹の葉ではない。それは必ずや、人麻呂(の設定した歌い手=一人称の語り手)の胸から腹にかけての磁場ならぬ「気場」にもろもろの「気」を巻き興(おこ)させた「もの」たちの「共鳴音叉」のようなものであったろう。笹の葉の一枚一枚が、旅の途上に待ちうけるありとあらゆる「もの」の「気」に共鳴して鳴るのだ。

「もの」は「もののけ」の「もの」。ただの「物体」ではない。そういう「もののけ」が行く手の笹の葉を鳴らしていろいろとうるさいけれども、俺は「妹(いも)」を思ってるぜ、別れてきちまったんだからよう、つうような意味なんじゃないの、この歌は。要するに「もののけ連合軍が全部集まったよりも強い『気ィ』でもってあんたのこと思てまんねんで~」ちゅうようなことでっしゃろ。

人麻呂の時代ともなればこんな風に歌に仕立てる余裕もあった、つうことにもなるわけだが、これがヤマト王朝の前の前の前くらいの太古の時代にあっては歌どころの話ではなくて、「もの」対策はマジに最重要の課題だったのではないか。つうか、「歌」もまた「もの」対策の重要ソフトツールであったろう。やっつけた相手の「霊魂」があれこれの「もの」を引き連れて悪いやつを誘引してこないよう、ありとあらゆる対策を講じたのではないか。

そこで「物部氏」と、こういうことになる。

「もの」をいろんな「術」でもってコントロールしてたのが「物部氏」だったんじゃなかろうか。だって「部」っつうのは「係」みたいなもんでしょ。「ものの部」つうからには、これは「もの係」。「もの」を何とかするのが仕事の一族。そういうことになる。で、そういう「もの係」のヒトないしヒトビトつうもんは、この頃のすべての地域集団に備わっていた、とわたしは考える。

太古、大阪は海であった。「コ」の字型。西に瀬戸内海。北は北摂の山々。東は信貴生駒。南は和泉葛城山系。右上角から淀川をさかのぼれば京都盆地。右下角から大和川を漕ぎ上れば奈良盆地。

南方、和泉方面から北へ延びる半島、それが上町台地だ。「コ」の字下辺から上に「人」の字が延びる。が、この「人」字上端は「コ」の字上辺に達しない。「人」の上端と「コ」の上辺とにはいささかの空間が残され、毎日2回、干潮時と満潮時には、この狭い水路を海水が渦巻きながら行き来した。

「なにわ(浪速、難波)」の地名はそこから生まれたという。ほんまかいな。

そんな上町台地の上には、太古の昔からいろいろとヤヤコシイものが置かれていたに違いない。台地の西はずっと後まで海だったのであるからして、ここが「イクのクニ」(かどうかはともかく)の西端であった時代は長い。どんな部族もその勢力範囲のいちばん端っこには、外から侵入しようとする「魔」を防ぐための装置を置いただろう。生國魂神社はそういう「古代の皆さんビビリまくり記念物」の代表選手ということになるのではないか。

ヒマにまかせて天王寺区内のヤヤコシイ場所を見て歩こうという「上町台地霊界めぐりツアー」。どんな奇妙な(元)現場にぶつかるか期待に胸がふくらむが、その前に焼肉で腹もふくらんだ。ほぼ1年分の牛肉をこの1食で喰ってしまったのではなかろうか、というほどいっぱい食べた。うまかった。

勘定を済ませて「とらちゃん」を出るとまだ8時台。「どっかで一杯やって帰ろかぁ」ということになり、ナカムラくんが「あのな、ええ店あるねん」と言い出した。


法善寺2004年11月21日

▲法善寺「水かけ不動さん」

 法善寺横丁は2002年9月と2003年4月の2回、火災に遭った。その顛末と復興への軌跡については
 大阪読売の特集サイトがくわしい。
 「水かけ不動さん」と向かい側の本堂は無傷で残った。夜ともなるとお不動さんに水をかけに来る人が絶えない。
 災害を乗り越えて、単に「自分とこが再開する」だけではなく、風情のある横丁全体を見事に復興させた
 関係者の皆さんの粘り強いいき方は、まことに敬服に値する。
 火事の後、ここが普通の盛り場になっていたら、わたしはとても寂しい気持ちになっていたと思う。
 ここに来ると幼年の頃の「上六」の匂いを思い出すのだ。




■ ジャズバーにて


「そこはな、静か~なショットバーやねん」とナカムラくんが説明する。

「ショットバー」は「バ」だけを高く言う。これは京都人の発音だ。

___| ̄|_
ショットバー   (京都風)

ナカムラくんのご両親(だったかご両親のうちのどちらか)は京都人だ、と前に聞いたような気がする。わたしは京都人に対しては最初から降参している。大阪は太閤さん以来の都市だが、京都は1200年前から「町」だった。太閤さんの頃までには確実に「町衆の町」としての歴史をもっていた。大阪人が京都人に勝てるわけがない。もう最初から無条件降伏。そういうわけで、ときどきポロッと京都風の発音を聞かせるナカムラくんには、わたしはいつも降参している。で、「ショットバー」だが、大阪人が発音すると最初からずっと高く「ショットバ」までいって、最後の「ー」だけが下がる。

 ̄ ̄ ̄ ̄|_
ショットバー   (大阪風)

そんなことはともかくとして。

「階段がちょっと急やけど、かめへん?」と聞くのでエヌ氏もわたしも「ええよええよ」と応えつつ、われわれはまたしても法善寺横丁の、「川名」というバーに入ったのであった。確かに2階入り口へ上るための階段は非常に急で年寄りにはきつかったが、そこはとても雰囲気のいい落ち着けるバーで、ジャズのレコードがかかっていた。奥の方にはアップライトピアノも置いてある。生演奏をやる日もあるらしい。建物が新しいのは、2002年の中座・法善寺横丁火災で焼けて、新たに建て直したからだろう。

「あんた、こういうとこ一人で来て開拓するんか?」
「そうよ」
「えらいねぇ」
「いやいや」
「よう一人で初めての店に入るねぇ」
「なかなか勇気いるよ」
「せやろねぇ」

ナカムラくんはえらい。大阪に帰ったときに会うといつも、彼の開拓した居酒屋とかバーとかに連れて行ってもらう。いい店ばかりだ。

われわれはそれぞれ好きなものを注文した。わたしはそれほど酒の種類を知らないので、目の前の棚に置いてある酒の中から「バランタイン」を選んで、ストレートにして出してもらった。ひとしきり最近の新聞ダネになっている市井の事件などを肴に飲んでいたが、やがてエヌ氏がポツリと言った。

「ワタクシは最近、死ぬときはどうやって死ぬか、それがいちばんの関心事になってきとるんですな」

それは、わたしも最近考えている問題だった。


法善寺横丁「川名」2004年11月21日

▲法善寺横丁「川名」にて
2004年11月21日


法善寺横丁の夜 2 へ ← 3 → 法善寺横丁の夜 4 へ



© Rakuten Group, Inc.