アメリカの市民教育

具体的、実践的な市民教育を(時事通信「内外教育」2006年2月3日号) 無断転載、無断引用を禁じます。


政治に関心を持たせるためには、実践的な市民教育が必要だ

9月11日に行われた選挙は国民の関心も高く、投票率も上がった。しかし郵政民営化以外の課題については論争があまり盛り上がらず、立候補者の話題性やパフォーマンスが注目されがちだった。国民が政策にあまり関心を持たないのは、立候補者の動向やスキャンダルなどの報道に力を入れ、政策そのものについてはあまり報道しないマスコミに一因があるが、もう一つの原因は学校教育(公民教育)にあり、国民が政策に関心を持つように教育されていない結果だと思う。

日本の公民教育にあたる教育は米国ではcivic education(市民教育)と呼ばれる。日本では公民教育は中学3年生で履修するが、米国では大体高校1年生で履修する。以前筆者は米国の学校で市民教育を取材したが、その具体的かつ実践的な内容やレベルの高さに驚いた。

「大統領にアドバイスせよ」

例えば授業の締めくくりのプロジェクトでは、次のような内容で論文を書くようにいわれる。「ブッシュ政権の経済諮問会議の一メンバーとして本土防衛、財政赤字、税制改革、教育改革などからトピックをひとつ選び、大統領にアドバイスせよ。その際には大統領の一般教書演説、記者会見などを参考にして、ビジネス・リーダー、ロビイスト、歴史家、経済と政治の専門家と長時間話し合ったと仮定して論文を書け」というものだ。

高校1年生にこんなレベルの高い授業をする、ということを聞いて筆者は驚いた。日本では大学レベルでもやってないのではないだろうか?もちろん高校1年生なので、彼らの知識、知力の範囲内のレポートを出すので、高レベルのものではない。生徒の間でも学習能力の差はあり、短い論文ですませる子供もいる。しかし中には、大学生顔負けの、図や表入りで20ページに及ぶ大作を提出する生徒もいると言う。このようにただ暗記するだけでなく、意見や考えを提案する訓練を子どものころからしている、という点は日本の教育現場も学ぶべきことではないだろうか。筆者も中学生のころ、公民教育を受けて「三権分立」や議会の仕組みなどを学んだが、暗記中心の授業で本当に自分の血肉になったとは言いがたい。日本の教育の参考のために、米国の学校での市民教育の取り組みを紹介したい。

「ジョンソン大統領はケネディほどカリスマもなかったのに、公民権法などケネディができなかったことをなぜ次々と成し遂げられたのだろうか」。メリーランド州モントゴメリー・カウンティの公立学校、ウォルト・ウィットマン高校(約1900人、ジェローム・マルコ校長)で、ロバート・マシス先生は生徒たちにこのような質問をした。「ケネディほど裕福な家庭の出身ではなかったので貧しい人の気持ちがわかったから」と生徒から意見が出る。「それもある。しかしもっと大きな理由がある」と先生。「実は彼は非常に戦略的な政治家だったのだ。法律に反対する政治家たちの弱点をうまく利用して脅した。「私は南部出身の議員なので公民権法には賛成できません」という議員に対しては「それがどうした? 私もテキサス州の出身だ」と強く出たのだ」。

これは10年生(高校1年生)が受ける”Government”の授業の一コマである。このように歴代の大統領がとったリーダーシップについて具体的に話し合い、成績を自分達でつける。日本の学校教育で、歴代の首相の成績を生徒たちがつける、といった光景はまず考えられない。

メリーランド州モントゴメリー・カウンティの公立高校では、1年をかけて市民教育を教える。「政府の目的や形態」に15日間、「選挙プロセス」に15日間、「公共政策の形成」に20日間と非常に細かくカリキュラムが決められている。また模擬裁判や模擬議会など、生徒が実際に当事者になったつもりで参加する実践的な授業もある。

政治家になったつもりで議論

模擬議会では、生徒たちが「リベラル」「保守」「中道」の三つのグループに分かれて、「死刑」や「テロとの闘い」、「アファーマティブ・アクション」などに関する法案について、賛成するか、反対するかを決めて議論する。例えば「テロとの闘い」の場合、「テロが米国の安全を脅かし続ける以上は、米国政府は、テロリストを匿ったり支持する外国政府は倒すべきある。また移民を制限し、盗聴などをして市民の自由を制限、侵害する必要もある」という法案に対して議論をする。生徒たちは、インターネットで法案に関するデータベースを調べて、自分の立場を決める。立場を決める際には、自分の判断が与える社会・経済的影響、選挙区の有権者は自分の判断を支持するかどうか、自分の政治家としてのキャリアはこの判断でどのような影響を受けるか、という点も考慮するように指導を受ける。このように、ただ法案に反対するか、賛成するか、だけでなく、実際に政治家になったつもりで政治のプロセスを勉強していくのである。

議会中継テレビのC-SPANの番組を見て実際に議員の投票行動を見ることもある。またウォルト・ウィットマン高校が首都ワシントンD.C.に近いこともあり、ロビイストや代議士、弁護士などが授業に招かれて話をすることもある。

米国の市民教育の原点は「情報をよく知らされた市民が民主主義には必要である。市民の無知、シニシズム、あきらめは民主システムにとって脅威である」という考えである。また「デモクラシーは見物するための壮観なスポーツではない。市民の積極的な参加が必要である。自由にとっての最大の脅威は、なにもしない不活発な人々の存在である」というコンセプトも根底にある。第三代大統領のジェファーソンは、米国の国家と制度が有効に機能するためには、公教育と市民教育が不可欠であると見抜いていた。

促進剤としての教師

米国の公立学校の教師の役割についても触れておきたい。日本の中学校、高校では、教師が板書して生徒が黙ってノートに取る授業が多い。米国の中学校、高校では、教師はfacilitator(促進剤)でありauthoritarian(権威者)ではない、という考えに基づいている。そのため教師が促進剤になって生徒に積極的に発言させたり、議論させることが多い。マシス先生も子供たちに活発に意見を言わせていた。

ウォルト・ウィットマン高校では、生徒たちを学力別にレギュラー(Regular)、アナード(Honored)、AP(Advanced Placement)に分けているが、最もレベルの高いAPクラスでは、生徒の討論が中心で、大学並みの参考文献を読ませてそれを元に討論させていた。

これは余談だが、米国では一般の人々が参加できる講演会やシンクタンクの会議などが多い。日本ではただ参加しているだけでも、毎回、会に出席していると「あの人は熱心だ」と感心されますが、米国の会議ではただ出席しているだけではその人の価値はほとんど認められない。積極的に質問なり意見なりを言ってはじめて、その参加者の存在が認められる。意見を言わなければ、その人の存在は無に等しい。

アメリカでは、子供たちは小さなころから「自分ならどうするか」ということを常に考えるように、また自分の意見を論理的に述べるように教育されている。日本人はとかく議論下手だと言われるが、米国と違って論理的に自分の考えや意見を述べる教育を受けていないのだから、ある意味仕方がないと言える。暗記中心の教育やテストを見直していかなければならないだろう。

また、「経済諮問会議の一メンバーとして大統領にアドバイスせよ」という論文のように、現実的なオプションから最善のものを選ぶことを子供たちに考えさせる授業が多い。理想論を考えるのもいいが、現実的な状況から、いかにより良いものを選択するか、ということを訓練していることは、子供の将来にとても役立つのではないか。日本では例えば平和教育などは「平和な世界を」と主張するものが多いが、抽象的すぎて、思考停止に陥りやすくなる。今の状況をいかに変えてより平和な世界を構築するために、日本は国としてどのような政策をとるべきか、という現実的な教育が必要だろう。

また、教師の質向上という点で成果を上げている教師の評価システムも紹介したい。モントゴメリー・カウンティは新しい教師の評価システム、PAR(Peer Assistance and Review: 同僚支援・評価制度)を導入した。このシステムでは教師を、優良のベテラン教師と、新任の教師と評価の低いベテラン教師の二通りに分ける。優良のベテラン教師は五年周期の評価を受ける。新任の教師と評価の低いベテラン教師は、補助教師の支援を受けながら授業を改善するために努力する。改善が見られると、優良のベテラン教師と同様に五年周期の評価を受ける。しかし改善が見られない場合は、教師には向いていないとして教職を離れるように勧告される。この勧告をするのがPAR Panel(同僚支援・評価運営委員会)で、カウンティの八人の教師と八人の校長から成る。

実はこの新システム導入で、モントゴメリー・カウンティでは二年間に60人の教師が教職を離れた。この人数は導入前の4-6倍にあたる。多い離職率にもかかわらず、地元の教職員組合はこのシステムを歓迎している。米国の教職員組合は大きく分けて二つあり、一つがAFL-CIOの傘下にあるAFT(American Federation of Teachers)で、もう一つはNEA(National Education Association)である。AFTの広報、ジャネット・バスさんは「教師は同僚の教師をかばうという見方があるが、これは誤解だ。教師は自分の隣の教室に低評価の教師がいてほしくない、と考えるものだ」と言う。

またもともと、このシステムをモントゴメリー・カウンティに導入したのがNEAの地元支部であるMCEAのトップだった。当初は教師や校長からの反発が大きかったが、最終的には説得された。MCEAのバイス・プレジデントのボニー・カリソンさんは「以前は校長が教師の解雇を決めていたが、これは権力の乱用につながる。PARは離職を勧告する運営委員会の半数を教師が占めているのでよりフェアだ。またこのシステムで優良教師がきちんと評価されることになる」と話している。カリソンさんは「米国には、弁護士や医師の間で同僚を評価し合う”doctors’ review”や”lawyers’ review”はあるが、教師にはない。しかしプロフェッショナルを自認するなら、教師も同じように同僚評価をすべきだ」と話している。

米国では、固定資産税や州税などが学校の維持費や教師の給料、資材に充てられる。このため税収の差でカウンティごと、州ごとに学校や教師の質に差が出るという問題がある。今回取材したウォルト・ウィットマン高校は、メリーランド州の中でも裕福なモントゴメリー・カウンティにある公立高校であるため、その教育レベルが高い、とも言える。米国の学校教育はそのような問題を抱えていることは見逃せないが、質の高い市民教育や、教師の質を上げるための取り組みをしている点は、日本の公立学校も学ぶべきことではないだろうか。

日本の学校現場では「政治」に関わる問題を具体的に扱うことをタブー視する傾向があるため、米国のような具体的な教育が現在行われていない。例えば日本では、公立中学校でNHKの国会中継を授業の教材には利用できない。しかし米国では、先に述べたように日本の国会中継にあたるC-SPANが教育に積極的に活用されている。

子供たちを民主主義には国民の参加が不可欠であることを理解できる社会人に育てるためには、米国のような具体的、実践的な教育が必要だろう。





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